いよいよ間近の関ヶ原!西軍主力・南宮山に着陣
慶長五年(1600年)9月7日、いよいよ迫ってきた『関ヶ原の合戦』・・・続々と集まりつつある武将たち。
この日、西軍・主力部隊が、南宮山(なんぐうさん)東麓に布陣しました。
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歴史に興味のない人でも、その名前は知っている戦国時代で一番有名な戦い『関が原の合戦』。
このブログを読んでいただいているかたなら、関ヶ原の合戦が単発で起こったのではなく、その前後に様々な出来事や合戦があった事はご承知でしょうが、ここらで、一発、整理しておこうかと思います。
なんせ、ブログでは「今日は何の日?」という事で、合間合間に、別の出来事が入ってきてしまうため、書いてる自分でもゴチャゴチャになつつありますので・・・。
(追記:このページを書いた後、年表形式でのサイトマップ(各ページへのリンク)=【関ヶ原の合戦の年表】>>を作ったので、少しはわかりやすくなったかと…)
豊臣秀吉が亡くなってからの、豊臣家内での内部分裂や、不穏な空気が発生する状況までさかのぼると、余計ややこしいので、関ヶ原の合戦に直接結びつく出来事から、今まで書いていなかったエピソードも交えてまとめさせていただきます。
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とにかく、豊臣家の内部分裂に乗じて、「我こそが天下を握る」気持ち満々の徳川家康が、一応、豊臣家・五大老筆頭の立場で、「上杉景勝に謀反の疑いあり」(4月1日参照>>)と称して、軍勢を率いて陸奥・会津城へ出発します。
これ以降、西軍の動きは青で、東軍の動きは赤で表現させていただきます。
6月 | 18日 | 徳川家康、伏見城を出発 |
7月 | 2日 | 家康が江戸城に到着 石田三成は居城の佐和山城にて、大谷吉継に挙兵の心中をうち明ける |
8日 | 家康の指示で、榊原康政が会津へ出陣 (家康自身は江戸城に残ったままです) |
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11日 | 大谷吉継が会津征伐軍から離脱し、三成とともに戦う事を決意(参照>>) | |
12日 | 前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行に、西軍の総大将として毛利輝元に立ってもらうよう要請書を書いてもらい、安国寺恵瓊に手渡す | |
15日 | 書状を受け取った毛利輝元が広島を出発(参照>>) | |
16日 | 輝元が大坂に到着 | |
17日 | 大坂城に人質として入城する事を拒んだ細川忠興の妻・ガラシャ(玉)が死を選ぶ(参照>>) 一方輝元は総大将を引き受けるつもりではなく、単に呼び出されたので大坂に来た・・・という感じでしたが、三成らに押し切られ、この日、西軍・総大将に決定。 同時に、三奉行による『家康弾劾状』(告発文)を作成し、各武将にバラまく(7月18日参照>>) |
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18日 | 西軍が高取城を攻撃(同18日参照>>) | |
19日 | 家康が留守をしている伏見城を、三成の命を受けた毛利秀元・小早川秀秋らが攻撃(参照>>) | |
21日 | 伏見城攻撃をまだ知らない家康は、一応、会津に向け出陣する 下野犬伏にて三成からの合力要望の書状を受け取った真田昌幸・幸村父子が居城・上田城へと戻り、長男・信幸は家康側に残ります(参照>>) |
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23日 | 家康が会津征伐の中止を決定。 (この日、家康が会津征伐の協力者・最上義光宛てに送った手紙によると「上方の雑説によりお働き無用」・・・つまり「三成らが発起したので、会津での合戦は無くなった」事を書いています) |
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24日 | 家康、下野小山に陣を敷く(参照>>) | |
25日 | 小山での軍儀 家康が、会津征伐と称して連れ出した軍の者に対して、毛利輝元が西軍の総大将になった事、ここにいる諸将の妻子が大坂城に人質となっている事を伝え、妻子のために西軍につくのも自由であるとしながらも、自分につくか?三成につくか?を問う(参照>>)。 一方の伏見城攻防戦には、宇喜多秀家が攻撃に参戦。 |
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26日 | 家康が、小山の陣を引き払い、諸将に西へ向かうよう指示を出し、自らは江戸城に戻る | |
29日 | 石田三成、伏見に到着、伏見城攻撃に参戦 | |
8月 | 1日 | 西軍の総攻撃により伏見城落城(参照>>) |
8日 | 東軍に属した前田と利長と西軍の丹羽長重が浅井畷で激突(参照>>) | |
9日 | 三成が美濃垂井に到着 | |
11日 | 決戦の地が関ヶ原付近であると予想した三成が、大垣城主・伊藤盛正の家臣を説得し、大垣城に入る(参照>>) | |
14日 | 東軍の先発隊が清洲城に入城 この時、先発隊の福島正則らが、家康の使いである村越直吉に「家康殿はなぜ出陣しないのか?」と、詰め寄ったところ、「元・豊臣の家臣であった者が、誠に徳川に忠誠を誓ってくれるのかを、試されているのだ」と聞き、逆に発奮するようになります。 |
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22日 | 東軍先発隊が木曽川を渡る | |
23日 | 東軍先発隊が岐阜城を攻略(参照>>) 1日に伏見城を攻撃した西軍主力部隊が、伊勢・安濃津城を攻撃(参照>>) |
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24日 | 安濃津城・開城 | |
26日 | 岐阜城を攻略した東軍先発隊が、大垣城に攻め寄せず、垂井・関ヶ原に放火した事から、居城である佐和山城に攻め込まれると、不安を抱いた三成が一時佐和山城に戻る 同時に、大坂城の毛利輝元に出馬を要請し、諸将にも関ヶ原付近に集まるように指示を出します。 |
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9月 | 1日 | いよいよ徳川家康が江戸を出立 |
2日 | 真田昌幸・幸村父子の籠る上田城を、家康の三男・秀忠が攻撃(参照>>) | |
3日 | 安濃津城を攻略した西軍主力部隊が、松坂城を攻略後、長島城に向かう途中、「家康が出陣した」との連絡を受け、伊勢の平定を諦め、美濃方面へ向かう事に 三成の要請で前田を討つべく北上していた京極高次が、美濃への転戦の指令を受けて離反を決意し大津に戻る(参照>>) |
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7日 | 毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家ら、西軍主力部隊が、南宮山に着陣 一方、上田城攻撃中の秀忠は攻略を断念(参照>>) |
・・・と、まぁ、ここまでが、今日・7日までの経過です。
・・・で、この後、家康は12日に清洲に到着し、そこで2日間滞在します。
これは、息子・秀忠がまだ到着していないため、どうやら待っていた様子ですが、秀忠は11日まで、真田の抵抗に遭って上田城にかかりっきりでしたから、まだ到着する気配もなく、13日には岐阜に着陣します。
しかし、この岐阜には先の先発隊が、8月23日に岐阜城を落としてから足止め状態。
「もう、これ以上は待ってられない」とばかりに、すぐに関ヶ原に向かって出発します。
いよいよ、両軍が関ヶ原に大集合です。
・・・が、その前に、天下を狙う第三の男・黒田如水(孝高)が、大混乱のこの期に乗じて再起を計った大友宗麟の息子・大友義統(よしむね)と、一戦、交える事になるのですが、そのお話は、合戦のあった9月13日にさせていただく事とします。(9月13日のブログを見る>>)
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コメント
毎回楽しく拝読させていただいています。
関が原の戦いに至るまでの武将たちの生き残りを賭けたこの壮大なドラマ。
茶々さんは
私的にはこの中で誰がお好きでしょうか?
私は大谷吉継や三成の腹心島左近に心惹かれます。
二人とも潔く戦死でしたたでしょうか?
いつか大谷吉継のことをお書きくださるのを楽しみにしています。
投稿: さと | 2007年9月 7日 (金) 20時14分
さと様・・・いつもコメントありがとうございます。
大谷吉継・島左近・・・
ニクイ人選ですね~。
私は、歴史上の人物は皆好きなので、1人に絞るのは難しいですが、地元が大阪城の周辺なので、大阪城を守ってくれる真田幸村ですかね~。
投稿: 茶々 | 2007年9月 7日 (金) 22時47分