お彼岸の起源・由来~早良親王の怨霊を鎮めるために…
今日は、お彼岸ですね。
昼と夜の長さが一緒になる3月の春分の日と、9月の秋分の日を中心に、前後7日間の事をお彼岸と呼び、中心の日が中日です。
お彼岸には、寺院に参拝して、僧侶の読経とともにご先祖様の冥福を祈り、法話を聞いて・・・という、この一連の行事を「彼岸会(ひがんえ)」と言います。
彼岸というのは、
色々な迷いや煩悩のある現実の世界を此岸(しがん)と呼ぶのに対し、対になる向こう側・・・悟りの境地=極楽浄土の事を言います。
この時期には、お盆と同じで、先祖の霊が帰って来るとして、迎え火や送り火をする風習が残る地域もあるそうです。
しかし、現代に残る仏教行事のほとんどが中国やインドを起源にするものであるにも関わらず、めずらしい事に、この一連のお彼岸行事は中国にも、インドにもありません。
彼岸会は日本独特の行事なのです。
それは、このお彼岸法要の起源が、もともと、あるひとりの人の霊魂を鎮めるための行事であったからなのですが・・・
延暦二十五年(806年)の2月の記録に、「毎年春分と秋分を中心とした前後7日間『金剛般若波羅蜜多経』を崇道(すどう)天皇のために転読させた(日本後紀)」とあり、これが日本の歴史上最初のお彼岸法要の記録です。
転読とは、経本を1巻1巻正面に広げて読む事で、普通より、効果・ありがたさがupするのです。
この延暦二十五年という年は、桓武天皇の時代・・・桓武天皇のご命日が、この年の4月ですからギリですが・・・。
ところで、先ほどの崇道天皇・・・この聞きなれないお名前の天皇をご存知ですか?
桓武天皇は第50代の天皇・・・その前の49代は、桓武天皇のお父さんの光仁天皇で、桓武天皇の次の51代は桓武天皇の息子の平城天皇・・・。
この崇道天皇という名前は、歴代天皇の系図のどこにもありません。
ですから、崇道天皇には、第○代というのも無いのです。
実は、この崇道天皇・・・桓武天皇の弟の早良(さわら)親王の事なのです。
スルドイかたは、もう、おわかりですね。
早良親王の鎮魂のために建てられた崇道天皇社(奈良県奈良市西紀寺町)
日本三大怨霊とされるのは、このブログにもすでに登場している
平将門(2月14日参照>>)
菅原道真(6月26日参照>>)
崇徳天皇(8月26日参照>>)
の3人だそうですが、この早良親王も、この3人に負けず劣らずの大怨霊なのです。
以前、平安京遷都(10月22日参照>>)のページにも、ちょこっと書かせていただきましたので、内容が少しかぶりますが・・・
天智天皇の息子・大友皇子と、弟の天武天皇の間で皇位を争ったあの壬申の乱(6月24日>>)以来、勝者である天武系の天皇制が敷かれてから約100年・・・久々に天智系の血筋に巡ってきた天皇の座についたのが桓武天皇・・・。
天武系の色を消すために、桓武天皇は長岡京を造営し、延暦三年(748年)に、まだ造営途中の長岡京への遷都を強行します(11月11日参照>>)。
この頃すでに、前天皇・光仁天皇の遺言で、皇太子には桓武天皇の弟・早良親王が立っていたのですが、桓武天皇としては息子の安殿(あて)親王(後の平城天皇)に後を継がせたい・・・まぁ、親としては自然な感情かも知れませんが・・・。
そんな時、「新都の造営長官であった藤原種継(たねつぐ)が暗殺される」という事件が起こります。
種継は、桓武天皇にとっても、寵愛していた部下でした。
そして、その犯人として名前があがったのが、藤原氏と対立していた大伴一族・・・そして、その背後に弟・早良親王の名前・・・。
もちろん、これは「疑い」があるだけで、実際の証拠となる物は、何一つ無かったのですが、弟を追い落としたい桓武天皇にとっては絶好のチャンスです。
早速、早良親王の皇太子を剥奪し、寺に幽閉します。
当然、早良親王は無実を訴えて、抗議の断食を決行。
それでも、疑いは晴れず、早良親王は淡路島へ流されますが、事件以来ずっと食を断っていたために、淡路島へ着く前に餓死してしまうのです。
邪魔者はいなくなり、ちゃっかりと息子を皇太子にして、桓武天皇はわが世の春を迎えます。
しかし、早くも異変は3年後に起こります。
延暦七年(788年)に、桓武天皇の夫人・藤原旅子が亡くなったのを皮切りに、すぐあとには妃のひとりが・・・翌年には母が・・・さらに、延暦九年には皇后と妃の二人が亡くなります。
つまり、わずか3年間の間に四人の奥さん+母親の5人が亡くなったわけで、もう、誰も疑う事なく、早良親王の祟りである事を口にするようになります。
しかも、この後、せっかく皇太子に立てた息子・安殿親王まで病気になってしまいます。
もう、いけません。
桓武天皇・・・次は自分か!と恐怖におののく毎日です。
淡路島にある早良親王のお墓のまわりに堀を張り巡らして、怨霊が外に出ないようにしますが、そんなもん効果があるわけもなく、飢饉・天然痘が都を襲い、いよいよ桓武天皇は、まだ、できあがってもいない長岡京を捨てる決意を固めます。
そして、今度は、風水・占い・迷信・・・ありとあらゆる物を駆使して、完璧に怨霊を防げる土地に都を遷すのです。
それが、現在の京都・・・平安京です。
東方に「青龍=川」があり、西方に「白虎=大路」があり、南方に「朱雀=池」があり、北方に「玄武=山」がある・・・この「四つの聖獣=四神」に守られた土地。
さらに、目には目を歯には歯を・・・怨霊には荒ぶる神を・・・と、スサノヲノミコトを祀った四つの大将軍神社を都の東西南北に配置し、上御霊神社と下御霊神社に早良親王自身を祀り、鬼門とされる北東には、幸神社(さいのかみのやしろ)・上賀茂神社・下鴨神社・貴船神社と、「これでもか!」と言わんばかりの配置です。
そして、まだまだ・・・早良親王の鎮魂を願って、一応、天皇になった・・・という想定で、「崇道天皇」という追号を送り、さらに、冒頭に書いたように、お彼岸に7日間ぶっ通しで読経をする行事を行ったのです。
つまり・・・お彼岸法要のおおもとは、早良親王の怨霊を鎮めるための行事だったのですね。
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コメント
おもしろく読ませていただきました!
投稿: あこちび | 2010年4月22日 (木) 22時54分
あこちびさん、ご訪問&コメントありがとうございました。
また、遊びに来てくださいm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2010年4月22日 (木) 23時41分
こんばんは、茶々さん。
早良親王は無実だったと思います。大伴家持は黒幕でしょうが、早良親王は関係ないと思います。そうでなかったら絶食をしないと思います。大伴たちが平城天皇やそのバックの種継を追い落とすのは考えていたでしょうが、早良親王は陰陽師でもそうですが、清き方だと思います。多分話をしたら高岳親王みたいに譲ったと思います。ある意味で命を捨ててまでも無実を訴えた本当の意志が強い親王だと思います。後々を考えますと平城天皇よりも早良親王が即位した方が良かったと思います。私が無実でも絶食は出来ないと思います。ここまで出来たら私も本物だと思います。
投稿: non | 2015年9月 4日 (金) 18時19分
nonさん、こんばんは~
怨霊という物は、人間の心が作り上げる物ですから…
「恨まれてるかも知れない」と怯える加害者の心です。
きっと、身に覚えがあるのでしょう。
身に覚えがありながら平静でいられる人が、実は怨霊よりも怖いのです。
投稿: 茶々 | 2015年9月 5日 (土) 01時34分
茶々さん、おはようございます。
加害者でありながら平気だったと言いますと毛沢東が典型でしょうね。TIMEで世界一の虐殺者に指定されていました。
桓武天皇よりも平城天皇の方がまともなのかもしれません。怨霊になやまされていましたから・・・桓武天皇は怨霊と言うよりも洪水があまりにも多すぎたのと京都の方が安定しているからでしょう。あそこまで徹底した天皇は珍しいでしょう。最後の専制君主と言えそうです。でも桓武天皇抜きには日本の基礎は無いだろうと思います。私は父方の祖母が宇多源氏なので桓武天皇の血を少し引いています。
投稿: non | 2015年9月 5日 (土) 09時22分
nonさん、こんばんは~
平安京の怨霊対策はスゴイです。
投稿: 茶々 | 2015年9月 7日 (月) 18時08分
面白い記事有難うございました。光仁天皇も、天智系のわりと重要でない末裔ですし、時の権力者に見いだされて、たなぼた思いがけず即位系の天皇で、大変大人しい遠慮がちの性格と伝わっていますけれども、早良親王を皇太子に!というのはほんっとうに余計な遺言でしたね。還俗せず、そのまま尊い法親王になられていたほうが、御本人も人生狂わされずに済んだのに。祟りは本当のことかどうかは別として、日本有数の怨霊にランクインなんて、噂だけでもお気の毒すぎますよ。光仁天皇は、息子の桓武天皇の人間性、もっといえば誰しも人間ならではの欲みたいなのに鈍感でしたね。時の朝廷が心底ビビったのも、高貴な方を、あれほど酷い死に目させては、祟られても当然という無意識の自覚があったんでしょうねw
投稿: ローズ | 2017年12月26日 (火) 03時00分
ローズさん、こんばんは~
祟りというのは、おおむね、祟られる側の人に身に覚えがあるもの…
何か悪い事があっても、自分にやましい所が無ければ「運命」と思うでしょうからね。
投稿: 茶々 | 2017年12月26日 (火) 23時32分