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2007年9月 2日 (日)

真田のゲリラ戦法炸裂!関ヶ原の前の上田城攻防戦

 

慶長五年(1600年)9月2日、関ヶ原の合戦へ向けての前哨戦の一つ。
真田昌幸・幸村(信繁)父子が、降伏勧告を出して上田城を包囲した徳川秀忠から、みごと城を守りきった『上田城攻防戦』が開始されました。

・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)、「上杉景勝に謀反の疑いあり」(4月1日参照>>)として、軍勢を率いて陸奥・会津城へと向かった徳川家康が、留守にした伏見城石田三成攻撃を仕掛けた(8月1日参照>>)事を知った北上途中の7月25日・・・小山の陣の軍儀で、会津へ向かうのを中止し、西へと戻る事を発表して、徳川(東軍)につくか?石田三成(西軍)につくか?」を、その場にいた諸将に問いました(7月25日参照>>)

「三成、憎し」で凝り固まっていた福島正則が真っ先に、「俺、徳川~!(^o^)/」と、ノリノリで手を挙げ、それにつられて「我も我も」と皆が手を挙げ、その場にいた者のほとんどの武将が、徳川についたワケで・・・

しかし、それより先の21日に、家康に与する事をやめたのが、信濃上田城主真田昌幸(まさゆき)でした。

実は前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行の名によって『内府ちかひの条々』なる書状が去る7月17日に、諸大名にバラまかれていた(7月18日参照>>)のですが、この書状は、家康が亡き秀吉の遺言にそむいたとされる行動が13か条の項目に箇条書きに書かれた・・・つまりバクロ話がいっぱい書かれた物。

昌幸は、この書状とともに、三成からの「打倒家康!の挙兵するから味方になってね!」西軍へのお誘いの手紙も受け取っていました。

決断の時です。
真田昌幸、長男・信幸(のぶゆき=信之)、次男幸村(ゆきむら=信繁)・・・親子3人で、どうするのがベストか?真田家が生き残る方法をじっくりと話し合います。

この話し合いの時、斬り合う寸前までの激論が交わされた・・・と言われていますが、たぶん、無いでしょうね。

それは、西軍・東軍どちらにつくにしても、それがいかに忠義であるかをアピールするための表向きのポーズで、実際には、しごく冷静に、先を見据えて話し合ったでしょう。

真田は、小国とは言え、この戦国の世を、自らの知恵と力で生き抜いてきた一族・・・豊臣にも徳川にも、さほど世話にもなってもないし、恩も感じていないはず・・・むしろ、「お前んとこのモメ事に俺らを巻き込んでくれるなよ」とくらいに思っていたかも知れません。

しかし、全国を二分しての天下分け目の合戦です。
中立で知らん顔・・・もできない以上、彼らは東西どちらが勝っても生き残る方法を選んだのです。

家康の重臣・本多忠勝の娘を、一旦家康の養女にして嫁にもらっていた長男・信之は東軍に、西軍の雄・大谷吉継の娘を妻としていた次男・幸村と、父・昌幸は西軍につく事にします。

昌幸と幸村は、その日のうちに引き返し、信之は、その一連の経緯を家康に告げます。

そう、ここで先ほどの「親子で斬り合う寸前の口論をして・・・」というのを強調する事によって、親にはむかってまで、味方になってくれた信幸を、家康は大いに喜び、「関ヶ原に勝ったら信州をやる!」と約束するのです(7月21日参照>>)

これで、徳川が勝てば現在の領地は長男の物・・・豊臣が勝てば現状維持と、どっちに転んでも真田家生き残り作戦はバッチリです。

やがて福島正則らの東海道を行く先発隊(8月22日参照>>)に続いて、家康の息子・秀忠中山道を西へ向かいます(2011年9月7日参照>>)、そこに立ちはだかるのが、昌幸らの籠る信濃上田城というワケです。

慶長五年(1600年)9月2日、秀忠は信濃小諸城に入り、上田城に対して『降伏勧告』を行います。

しかし、当然の事ながら昌幸は、その勧告を拒否!
(ここで、「OK]するくらいなら、はなから徳川に味方するっちゅーねん)

すぐさま、小競り合いが開始されます。

ここで、先鋒となったのは、兄・信幸の率いる軍・・・弟・幸村の守る伊勢崎砦を攻めます。

ここは、素早く幸村が砦を放棄して上田城へ後退しますが、その上田城を攻める秀忠本隊のほうは、3万5千という大軍にも関わらず、わずか2千の昌幸軍のゲリラ戦法に悩まされ続けます(2010年9月7日参照>>)

そのうち、秀忠軍の意見が真っ二つに分かれて軍儀が大モメに揉める事に・・・。
「ここ上田城の攻略は見送り、一刻も早く、家康の本隊と合流すべき」という意見と、「いや、上田城攻略は必須であるからして、攻撃を続ける」という意見です。

そんなこんなのゴタゴタに4日間も費やしてしまい、そのわりには上田城を攻略もできないまま、結局、秀忠は上田城周辺に、森忠(蘭丸の弟)らを残し、本隊への合流を急ぐ事に・・・。

しかし、秀忠が関ヶ原に到着したのは、9月19日・・・合戦は、もう、とっくに終ってしまっていました。
もちろん、父・家康に、こっぴどく叱られるハメに・・・。

なお、、上田城が落ちなかったために、敵味方に分かれた真田一族が直接対決をする事はありませんでしたが、9月15日の本チャンの関が原の合戦が、東軍の大勝となったために、、昌幸と幸村は、紀伊・九度山への配流の身となり、その年の12月13日、16人の家臣と妻子を連れて上田を発つ事になりました(12月13日参照>>)

この時も、昌幸・幸村父子のおかげで、大事な合戦に間に合わないという不祥事を起こしてしまった秀忠は、二人を処刑しようとしますが、信幸の「それなら、先に私を切腹させてからにして下さい」いう迫力に負けての流罪という処置でした。

もちろん、父が没収された領地を、そっくりそのまま与えられて上田城主となった信幸は、その後も、九度山に入った父と弟の面倒を、影ながらみていた事は言うまでもありません。

お見事!生き残りましたね・・・真田一族。
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コメント

「来年の大河がらみ」でたびたび突っ込みたくなる今日この頃。来年はこの場面は絶対にはずせないですよね。この真田軍の善戦で関が原に到着できずに、秀忠は家康から「勘当通告」された(すぐに解除)ほど。

考えるに登場するであろう「姫たち」が、かなりの人数になりますね。「天地人」を間違いなく上回るはず。濃姫こと帰蝶が出るかどうかは微妙(天正時代に生きていたかどうか説が割れる)ですが。

投稿: えびすこ | 2010年6月10日 (木) 18時24分

えびすこさん、こんばんは~

経費削減で、またまた合戦シーンがナレーションスルーされない事を祈りたいです。

投稿: 茶々 | 2010年6月10日 (木) 22時38分

>経費削減で~
NHK大河ドラマの予算は年間で30億円くらいで、1回あたり約6000万円です。
経費削減と言うより収録時間削減ですね。そして、その分を他に回す。俳優が怪我をしてしまうと支障が出るから省略しているのかも?

「天地人」の予算(決算)は後で判明するので、上記が証明できますね。

投稿: えびすこ | 2010年6月11日 (金) 08時43分

えびすこさん、こんにちは~

なんか、天地人は出演者の数も少なかった気がします。

オープニングでのクレジットに空きがありすぎるとネットで話題になってましたね。

投稿: 茶々 | 2010年6月11日 (金) 13時18分

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