三河一向一揆~徳川家臣が真っ二つ!
永禄六年(1563年)9月5日、三河で起こっていた一向一揆に参加していた徳川家康の家臣・夏目吉信らが、家康側に投降した事により、家康は一揆平定の姿勢へと動きます。
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『三河一向一揆』というのは、当時、曹洞宗の勢力が強かった三河東部を除いた地域で、本證寺の空誓(蓮如の孫)を中心に、一向宗門徒が、領主である徳川家康に抵抗した約半年間の一揆なのですが、この発端というのが、あまりはっきりしません。
上宮寺の境内に、徳川(松平)方の砦を勝手に作ったから(一応こちらが定説ですが・・・)という話や、本證寺に逃げ込んだ無頼の輩を徳川の家臣が捕獲したから(不法侵入になるそうです)などという話がありますが、とにかく、ここで徳川方と、真宗門徒との間で、何やらゴタゴタがあった事は確かです。
永禄六年(1563年)の秋頃に起こった、そのゴタゴタをきっかけに、徳川方の武将が上宮寺所有の蔵を襲い、米穀を奪った事で、一向宗門徒に火が着き、一揆衆が立ち上がります。
しかも、ここに来て、従来以上の税を徴収する税制改悪が行われ、一揆は加速の一途をたどっていきます。
さらに、戦国の世で城を失った吉良義照などの武将らが一揆に加わるようになると、一揆集団の武装化も、そこらへんの武士団に劣らないような状況になってくるのです。
そのうえ、ややこしいのは、徳川家の家臣の中にも、かなりの数の一向宗門徒がいた事で、彼らの中には、教祖様と、主君との板ばさみに悩みながらも、一揆側につく者が多数出ました。
そんな中の一人が、夏目吉信です。
彼らの一派は、廃城になっていた野場城を補修して、そこに籠城し、徳川方に抵抗をし続けていました。
しかし、永禄六年(1563年)9月5日、突如として徳川方へ投降します。
この、夏目吉信という人は、後の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)で、家康の身代わりとなって壮絶な討死をするあの夏目次郎左衛門吉信です。
主君の身代わりになるような人ですから、やはり、最初から、どっちにつくか?で葛藤があったんでしょうが、彼の心の内までは、わかりませんからねぇ。
10月24日には、松井忠次、本多広孝らが、一揆の拠点である三河東条城(愛知県)に総攻撃を仕掛けます。
11月25日には、逆に、岡崎城外近くの小豆坂まで一揆軍が迫り、家康本隊とあわや衝突!という場面もありました。
しかし、このように家康本隊との直接対決・・・という状況が多くなると、一揆側に加わっている徳川の家臣たちは、「まさに、主君に弓を引いている」という実感が沸いてくるもので、家康の顔を見るなり逃げ出す者や、主君を目の当たりにして、「やはりダメだ・・・」と、徳川方に戻ってくる者が続出し、この頃から一揆のテンションが一気に下がってくるのです。
年が明けて永禄七年(1564年)。
1月11日~13日にかけての上和田砦の攻防戦は、この一連の一揆戦の中でも、最も熾烈な合戦でした(1月11日参照>>)。
ちょうど甲冑の一番厚い部分に当たったため、ケガには至りませんでしたが、家康自身が2発の敵弾を胸に受けています・・・危機一髪でしたね。
そんな中でも、家康は心理作戦も怠りません。
仲が良かった、元・家臣同士をうまく利用して、一揆に加わっている徳川方の連中の説得を粘り強く続けたのです。
一揆側から戻ってくる者が、さらに増え始める中、2月13日、一揆側が岡崎城へと攻め寄せ、最終決戦を挑んできますが、もうその頃には、一揆側には以前のような勢いはありません。
家康は、この最終決戦にすんなりと勝利し、2月28日、5ヶ月に渡った一揆は鎮圧される事となります。
この一連の出来事よって、一向宗門徒が脅威的な存在となる事を確信した家康は、この戦いで、真宗の寺院がいくつか焼失した事を「これ幸い」と、残った寺院には改宗を求め、応じなければ、寺院を廃寺にし、その後も、この三河の地では真宗を禁止する・・・という行為に出ます。
しかし、その一方では、一旦一揆側についても、最終的に戻ってきた家臣には、「罪を問わない」という寛大な処置をしています。
・・・にも、かかわらず、この時、徳川には戻って来なかった人もいます。
そんな戻って来なかった者の中に、後に家康の参謀となる本多正信がいました。
彼は、鷹匠(たかじょう)として家康に仕えていましたが、この一向一揆で、一揆側につき、一揆が終息に至っても戻ってきませんでした。
しかし、流浪の果てに帰ってきた正信を、家康は寛大に迎え入れただけでなく、むしろ以前よりも重く用いるようになるのです。
鷹匠というのは、禄は低いものの、狩りの時には常に主君と行動を共にし、直接、言葉も交わします。
おそらく、家康はこの時から彼の中にただならぬ物を感じていたのでしょう。
しかも、正信が三河に帰ってきた頃(本能寺の変の頃だ言われていますが・・・)には、武断から文治へ・・・つまり、合戦で手柄をたてる家臣よりも、一緒に先の事を読む家臣が重要になりつつあった頃です。
諸国を流浪して見聞を広めた正信は、家康にとってかなり使える男に成長していたのでしょう。
家康は、武勇に優れた家臣は多く抱えていましたが、腹を割って将来を語れる相手は、あまりいなかったようですから・・・。
その分、武闘派の重臣たちからは、「正信はズル賢い」なんて、うとまれていたみたいですが、まぁ、ズル賢くないと作戦参謀は勤まりませんからね。
ところで、この時の一揆がよっぽど怖かったのか、家康はその後の本願寺の分裂に一役かう事になります。
ご存知、浄土真宗のおおもとの石山本願寺が織田信長と戦った石山合戦(8月2日参照>>)。
これで、十一世法主(ほっす)顕如は本願寺を明け渡しますが、後に天下人となった豊臣秀吉が、京都の七条堀川に寺地を寄進し、亡き顕如の後を継いだ次男・准如によって、本願寺が再興されます。
ここまでなら、本願寺は一つだったのですが、その後、天下人となった家康は、石山合戦で最後まで抵抗したため引退させられていた長男・教如に対して、六条烏丸に寺地を寄進・・・こちらが、東本願寺となります(1月19日参照>>)。
もちろん、これは、徹底的に秀吉の上を行きたかった家康の見栄もあったでしょうが、本願寺を分裂させる絶好のチャンスだと思った事も確かだと思いますよ。
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