長島一向一揆の終結
天正二年(1574年)9月29日、織田信長に抵抗を続けていた長島一向一揆勢が、ついに力尽き、一揆が終結しました。
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永禄十一年(1567年)に、第15代室町幕府将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長(9月7日参照>>)。
元亀元年(1570年)には、その義昭に『五ヶ条の掟書』を提出し(1月23日参照>>)、信長は、まさに天下取りにばく進中!
それを阻止すべく戦国武将や宗教団体が入り乱れる中、浄土真宗の総本山である石山本願寺の呼びかけ(9月12日参照>>)に答え、各地の一向宗門徒が一揆という形で抵抗の意志を見せます。
その中の一つ、木曽川・長良川・揖斐川という3本の川が合流して伊勢湾に流入するデルタ地帯の伊勢長島(三重県)に集結した一向宗門徒たち。
そんな彼らに、信長は元亀二年(1571年)の5月(5月12日参照>>)、天正元年(1573年)の5月と2度に渡って攻撃を仕掛けますが、見事敗退してしまいます(5月16日参照>>)。
そして迎えた天正二年(1574年)7月、結果的には、これが最後の戦いとなる3度目の長島攻めを、信長は開始するのです。
特に2度目の戦いでは、信長自身の命が危ないというカッコ悪い合戦をしてしまった(10月25日参照>>)ため、今回は「3度目の正直」とばかりに、入念な計画のもとの出兵です。
「伊勢湾の海上封鎖を徹底して行い、兵糧が尽きるのを待つ」という、短気なイメージのある信長さんにしては、意外な持久作戦・・・よほど、2度の負けに手痛い思いをしていたんですね。
一方の長島一向一揆勢は、数万人の老若男女が、河川の中州を堤防で囲った『輪中(わじゅう)』地帯の中の、長島・屋長島・中江、そして対岸の大鳥居・篠橋の5箇所に別れ、こちらも徹底した籠城作戦です。
しかし、先ほどの信長の敷いた徹底した海上封鎖で、物資の輸送が困難ななため、兵糧はまたたく間に尽きてしまいます。
なんせ、籠っているのは数万人ですから・・・。
やがて7月の終わり頃には、体力の無い老人や子供たちから、次々と餓死していく・・・という状態になってきます。
そこを狙って攻撃を仕掛けてくる信長・・・8月3日には、大鳥居が陥落します。
続く12日には、篠橋が落ち、対岸は壊滅状態・・・
しかし、それでもなお、輪中に残る一揆勢は、耐え抜きましたが、天正二年(1574年)9月29日、仲間の過半数が餓死するという状況に至り、ここに、力尽きたのです。
まずは、長島に籠っていた人々が、全面降伏を申し出ます。
しかし、信長はこの全面降伏を認めなかったのです。
船で長島から出てきた人々は、待ち構えていた鉄砲隊に次々と撃たれました。
信長は一向一揆の怖さを痛感していたのです。
彼らの団結力、集団の力というものには、ものすごいパワーがあります。
少しでもゆるい部分があると、そこから見事に復活する生命力がある事も知っていました。
その芽を、ここで少しでも残しておいたなら、後々、再び最大の抵抗勢力になるに違いないと考えていたのです。
信長は、この3度目の出兵を決意したその日から、石山本願寺の東海の拠点であるこの長島を、徹底的に根絶やしにするつもりだったのでしょう。
そして、最後まで残った中江と屋長島・・・。
ここには、籠城を決め込んでいる外側に頑丈な柵を構築し、ネズミ一匹通さない状態を作り出した上で、四方から火をかける・・・つまり、中に残ってる人々全員を焼き殺したという事なのです。
その中には、女性や子供もいた事を考えると、胸のつまる思いがしますが、比叡山や石山本願寺への攻撃とともに、この神仏を恐れぬ信長の行為によって、日本という国の政治が宗教と分離するという、新しい形に生まれ変わったのは確かでしょう。
長島に誕生し、半ば独立国家のような様相を呈していた一向宗門徒の王国は、ここに消滅しました。
河川の中洲にある「輪中」を、秋っぽい感じで描いてみました~。
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