奈良の大仏の大きさは聖武天皇の恐怖の大きさ?
天平十五年(743年)10月15日、時の天皇・第45代・聖武天皇から詔(みことのり)が発せられました。
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『・・・国銅を尽くして象(かたち)を鎔かし、大山削(き)りて以って堂を構え・・・夫(そ)れ天下の富を有(たも)つ者は朕(ちん・自分)なり。天下の勢いを有つ者は朕なり。この富勢(ふせい)を以ってこの尊像を造る。事成り易くして、心至り難し・・・』
とにかく、国中の銅を使って大仏を造って、大きな山を削ってお堂を建てる。
僕はメッチャ金持ちやし、メッチャ権力握ってるから、でっかい仏像を造る事は簡単なんやけど、これで、僕の願い叶うかな・・・てな感じです。
教科書などでは、当時、国中で凶作が続き、伝染病が流行り、政治上の争いもあったため、仏教の力でこの不吉な出来事を鎮め、国を安らかにし、国民を平安に導くために、全国に国分寺を建て、その中心となる大仏造立を発案した・・・という事になってます。
もちろん、凶作・疫病・政情不安をを取り除くため・・・というのは間違いではありません。
確かに、その願いを込めて、大仏は建立されました。
ただし、一番不安にかられていたのは、国民ではなく、聖武天皇・本人・・・あの奈良の大仏の大きさは、聖武天皇の不安・・・いえいえ、不安なんて生易しい物ではありません。
その大きさは、聖武天皇の恐怖の大きさに比例しているのです。
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聖武天皇が即位したのが神亀元年(724年)です。
そして、その約十年後の天平七年(735年)、その恐ろしい病は朝鮮半島からやってきました。
まず、九州を直撃し、2年後には都(平城京)でも大流行し始めます。
豌豆瘡(えんどうそう)と呼ばれたこの病気は、どうやら今で言う「天然痘」の事だそうですが、とかく、病気という物は相手を選びません。
金持ちも権力者もバタバタと倒れていきます。
そして、いよいよ聖武天皇の身近なところにもやってきます。
藤原(中臣)鎌足に始まって、栄華の基礎を作った藤原不比等には、さらに栄華を極めた四人の息子がいたのですが、その四人ともが、次々と天然痘で亡くなってしまったのです。
この四人の息子というのは、聖武天皇の奥さんである光明皇后のお兄さんたち・・・身近な人を失って、恐怖にかられる天皇に、さらに追い討ちをかけるように、天平十二年(740年)、乱が勃発します。
亡くなった先の藤原四兄弟のひとり・藤原宇合の長男・広嗣(ひろつぐ)が、九州で反乱を起したのです(9月3日参照>>)。
もう、聖武天皇はたまりません。
「広嗣が、今にも攻めてくるんじゃないか?明日にも天然痘にかかるんじゃないか?」と思ったら、いても立ってもいられなくなり、慌てて平城京を逃げ出すのです。
まずは、関東へ行こうとあちこち点々とした後、山背(京都)に離宮を造り「ここを都にする」的な発言をします。
結局、広嗣の乱は、2ヶ月ほどで鎮圧されますが、それでも聖武天皇の恐怖はおさまらず、天平十三年(741年)2月14日には国分寺と国分尼寺の建設事業をの詔を発します。
さらに、「紫香楽(しがらき・滋賀)に離宮を造れ」との命令を出してみたり、今度は、その舌の根も乾かぬうちに、「やっぱり難波宮(なにわのみや・大阪)を都にする~」と宣言したりし出します(5月24日参照>>)。
実はこの年は大凶作・・・そんな時に、離宮とは言え、巨費を投じての遷都に次ぐ遷都。
さらに、凶作に関係なく先に出された国分寺の建設事業も進めなければなりません。
しかし、それでもまだ、天然痘から逃げまくる聖武天皇。
そんな天皇が、あちこち放浪生活をする途中で、河内の国(大阪)にやって来た時、渡来人たちが造った大きな仏像を目にするのです。
その仏像を見て感激する天皇・・・・。
「これや!これしかない!」と、決意しました。
「飢饉や、戦乱・疫病の流行は、きっと自分に徳がないからなのだ!自らが仏像を造る事で徳を積もう。そうすれば混乱は治まる」
・・・と、さらに巨費を投じる一大プロジェクトを立ち上げたのです。
国民総ツッコミの「なんでやねん!」という声が聞こえてきそうな気がしないでもありませんが、当時の疫病の怖さは、ハンパないですからね~その気持ちもわかります。
奈良の大仏のあの大きさは、まさに、聖武天皇の恐怖の大きさ・・・だったんですね~。
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