佐々木道誉・紅葉事件で婆沙羅を卒業
暦応三年(1340年)10月(すみません日付がわかりません)
・・・とあるので、10月中には書きたいなと思っていた佐々木道誉の『紅葉折り・傷害・放火事件』について今日は書かせていただきます。
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佐々木道誉(どうよ)と言えば、婆沙羅(バサラ)大名の代表格。
婆沙羅とは、サンスクリット語の【vajra】で、ダイヤモンドの事ですが、もちろん婆沙羅大名の婆沙羅はダイヤモンドという意味ではありません。
「ダイヤモンドがすべての石を砕く」というところから、「調子はずれ」「ケタはずれ」といった意味で舞楽の用語に使用されていたものが、いつしか、人の普段の生活ぶりが「ケタはずれ」・・・つまり、アウトロー的な人を指す言葉になったようです。
この時代は、「派手な服装をして派手な振る舞いをして、規則を破り乱暴・狼藉を働く者」といった意味で、婆沙羅と呼んでいました。
権力への反発・・・とでも言いましょうか、誰もが成長過程で一度は通る、親にはむかったり、先生にはむかったり、社会が悪いと言ってみたり・・・みたいな感情から出る一連の行動のような物です。
道誉の場合は、やはり「貴族に対するどうしょうもない身分の違い」といった物から、対抗意識が芽生え、婆沙羅に走った・・・という感じでしょうか。
・・・とは言え、道誉は、宇多源氏の正統で、代々検非違使(けびいし・現在の検事&裁判官)を務めていたという、けっこう坊ちゃんな家柄の出身です。
9歳で左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられ、鎌倉幕府、最後の執権・北条高時(たかとき)に仕えます。
高時の「高」の字をもらって、高氏と名乗るほど寵愛され、高時が出家をした嘉暦元年(1326年)には自分も一緒に出家して、30歳の若さで法名・道誉となったくらい北条べったり。
・・・にも関わらず、足利尊氏が幕府に反旗をひるがえし、六波羅探題を攻撃した(5月9日参照>>)途端、道誉も立ち上がり、一緒に鎌倉幕府を倒してしまいます(5月22日参照>>)。
そして、建武の新政(6月6日参照>>)となって後醍醐天皇のもとで、雑訴決断所(裁判所)の奉行に任ぜられますが、天皇と足利尊氏の仲がうまく行かなくなると、悩む尊氏の背中を押し、ともに今度は、天皇に反旗をひるがえします。
しかし、天皇の命を受けて尊氏追討にやってきた新田義貞(よしさだ)と戦って、負けそうになると、即、降参・・・新田軍の仲間となり、道案内までする親切さ。
なのに、また、足利軍が有利な展開になると、いきなり新田軍を襲って尊氏の味方をする・・・何とも、オモシロイ人です。
その要領の良さが功を奏したのか、足利幕府のもと出世していく道誉さん・・・出世とともに婆沙羅度もUPしまくります。
そして、婆沙羅度が最高潮に達した頃、事件は起こります。
暦応三年(1340年)10月、道誉・秀綱父子一同、大騒ぎの派手派手鷹狩りを終えて帰る途中で、東山妙法院のあたりにさしかかった頃、あたりは一面の紅葉真っ盛りです。
あまりの美しさに、その真っ赤な一枝を部下に折らせてみたところ、その様子を見ていた僧が「御所内の紅葉を折るとは!どこのどいつじゃ!何さらしとんねん!」と騒ぎに・・・。
すると、道誉はひるむどころか「御所がなんぼのもんじゃい!」と、逆にもっと大きな枝を折らせようとします。
しかし、僧も負けてはいません。
部下の持っていた枝を奪い取り、殴りとばして門外へ放り出しました。
さぁ、大変!
怒り狂った道誉は、早速300人の手勢をかき集め、妙法院を襲撃。
一斉に、火を放ちます。
その時、ちょうど行法の真っ最中だった僧たちは、てんやわんやの大騒ぎ。
逃げ惑う門主の若宮を見つけた息子・秀綱は、仲間数人とともに、殴る蹴るの暴行を加え重症を負わせる始末。
この出来事が真夜中だったため、火は四方に広がり、騒ぎの声は都中に響きわたって、在京の武士たちも「何事や!」と、うろたえまくったと言います。
この妙法院の門主が、北朝初代の光厳天皇の弟で、悪名高き僧兵をかかえる比叡山延暦寺の住職であった事から、事はさらに大きくなります。
比叡山の僧・宗徒たちは守護神・日吉神社を担ぎ出し「佐々木父子を死罪ににしろ!」と騒ぎ立てます。
日頃、自分たちこそ乱暴狼藉をはたらいている比叡山の僧兵たちに、内心「いい気味だ」と思っていた幕府も、あまりの騒ぎに動かないわけにはいかなくなり、しかたなく罪一等を減じて、道誉に上総(千葉県)への配流を言い渡します。
しかし、さすがは婆沙羅道誉、ここで「しもた~エライ事してもた~千葉へ流罪やて~」
と、うろたえるようなタマじゃありません。
ここは、腕の見せどころ。
むしろ、カッコよく流されなきゃ婆沙羅道誉の男がすたるっちゅーもんです。
配流先へのその道中は、前後300人の供侍を従え、各人には、当時、セレブのペットだったウグイスの籠を持たせます。
さらに、日吉神社の使いとされていた猿の皮で作った矢入れを一人一人に持たせ、同じく猿の皮で作った腰当てを尻に当てての大行進。
途中の休憩では酒盛りをし、宿に泊まれば遊女を呼んで飲めや唄えの大騒ぎ。
とてもじゃないが、流人の都落ちとは思えない行進だったとか・・・婆沙羅の本領発揮ってとこですね。
しかし、道誉は、結局、流刑地まで行かず途中で尊氏に呼び戻されます。
もちろん、それは、南北朝の対立真っ只中という政治情勢の中、尊氏にとって道誉は必要な人物だったからに他ならないのですが・・・。
そこで、帰ってきた道誉に、尊氏が一言・・・
「貴族以上の教養や風流を見につけて見返してやればいいじゃん。それが結果的に貴族に勝つって事じゃないの?」
どうしてもあらがえない貴族との身分の違いへの対抗意識で婆沙羅に走っている事を、同じ武士として、充分理解した上で、やさしく諭したのです。
「ガ~ン!」
佐々木道誉44歳・・・この尊氏の言葉で目が覚めます(44歳・・・遅っ!)
足利尊氏35歳(年下かい!)の、すべてを見通したこの一言で、道誉は乱暴狼藉の婆沙羅を捨て、風流の道へと進むのです。
あっちにひっつき、こっちにひっつきしたそれまでの人生も、この後は尊氏一本・・・生涯の味方となるのです。
人生、どこに転換期が訪れるか・・・わからないものですなぁ。
秋っぽい絵柄にしてみました~。
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