新田義貞・北国落ちの悲劇は本当か?
延元元年(建武三年・1336年)10月13日、足利尊氏に京都を追われ、北国落ちした新田義貞らが、敦賀に到着しました。
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あまりに公家中心で、武士を無視した感のある建武の新政(6月6日参照>>)に反発して、後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏。
最初は、天皇側が優勢で、命からがら九州へ逃げた尊氏でしたが(3月2日参照>>)、九州で態勢を立て直し、湊川の戦い(5月25日参照>>)で、楠木正成や新田義貞らの天皇軍を破り、その勢いで京に攻め上ります。
比叡山に逃れた後、すぐに、京都を奪回する事は難しいと判断した後醍醐天皇側は皇位を息子の恒良(つねよし・つねなが)親王に譲り、親王を新田義貞に託します(8月15日参照>>)。
新田義貞は、新田軍が官軍である事の証しとして、その恒良親王と異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王を連れて、一旦、北国へ落ち延びる事となります。
延元元年(建武三年・1336年)10月11日、北近江の塩津に到着した総勢7千余りの新田軍。
ここから北を目指す最短・最良のルートは「七里半越え」と呼ばれるルート。
これは、奈良時代に愛発関(あらちのせき)という関所が置かれていた場所を通るルートで、敦賀へ七里半くらいの山道であるところからこう呼ばれていました。
(愛発関は、正確な場所は不明ですが、現在の福井県の疋田あたりにあったとされています)
しかし、そのルートはすでに、越前の守護・斯波高経(しばたかつね)の軍勢に封鎖されているとの情報が入り、大きく東北へ迂回して木ノ芽峠越えにて敦賀へ入る事にします。
しかし、この後、太平記十七巻では・・・
『北国の常として十月の始めから高い山々には雪が降るけれども、今年は例年よりも寒さが早く、当日は風まじりの雪が降り、兵士たちは道を見失ってしまい、山道の夜には宿もなく、木の下や岩の影に縮こまって寝たが、馬も兵も凍えて自由がきかず、皆バタバタと、そこかしこで凍え死んでしまった』
・・・との記述が・・・
もちろん冒頭に書きました通り、10月13日には新田義貞以下、二人の親王も無事に敦賀に入っているわけですので、全員凍死というわけではありませんが、かなり多くの死者が出た・・・とされています。
確かに旧暦の10月11日・・・現在の暦に直すと11月22日という事になりますから、豪雪地帯の北陸では、すでに雪が降っていた事も充分考えられますが、木ノ芽峠というのは、わずか600m余りの峠です。
はたして、本当にバタバタと凍死・・・なんていう事があったのでしょうか?
しかも、木ノ芽峠を通るルートというのは、戦国時代に柴田勝家が開いた道であって、室町時代には、まだ、無かったという説もあります。
しかし、しかし、これを歴史からではなく、「植物の観点から調査した結果がある」というんですねぇ。
それは、福井県の調査ではないのですが・・・
「長野県木曽御料林のヒノキの年輪調査の結果」というのがありまして、それによりますと、延元元年という年は、その前後・数十年と比較して、最もヒノキの成長が悪いのだそうです。
つまり、例年に比べてかなり寒かった・・・という事です。
前後・数十年ですから・・・
「半世紀に一度の寒波がその年の北陸を襲っていた」と考えると、「多数の凍死者」というのも、考えられない話ではない・・・という事になります。
もちろん、だからと言って太平記の記述が正しいというわけではありませんが、年輪を見て、年数がピッタリ合うなんて、スゴイな!・・・と、ちょっと興奮しちゃいました~。
この日、敦賀に到着した義貞らは、金崎城(かねがさきじょう=福井県)へと入り、迫りくる足利軍と籠城戦を展開する事となります・・・そのお話は3月6日のページで>>
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