神風連の乱~ダンナハイケナイ ワタシハテキズ
明治九年(1876年)10月24日、旧熊本藩士・太田黒伴雄らが新政府の熊本鎮台を攻撃。
太田黒伴雄らのグループが敬神党と名乗っていた事から『敬神党の乱』、あるいは、敬神党が通称・神風連(しんぷうれん)と呼ばれていた事から『神風連の乱』と呼ばれます。
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明治の世となって、中央集権国家をめざす新政府は、必然的に士族を切り捨てざるを得なくなりました。
士族は、廃藩置県により、それまで藩からもらっていた給料はストップ。
太政官布告で身分制度は廃止され、苗字帯刀という武士の特権も失います。
「これでは、何のために幕末の戊辰戦争を命がけで戦ったのか?」
戊辰戦争の中心となって戦った全国300万士族たちの怒りはいつ爆発してもおかしくない状態となり、明治七年(1874年)、とうとう佐賀で大規模な士族の反乱が勃発します。
『佐賀の乱』(2月16日参照>>)です。
前年、徴兵令を布告したばかりの政府は大量の鎮台兵(政府軍)を投入し、乱を鎮圧させます。
皮肉にも、この乱は、近代軍備が整った今、一般から徴兵したセミプロのにわか兵士であっても、「戦いのプロ=武士」と対等に戦える事を証明する結果となりました。
しかし、明治九年(1876年)、さらに追い討ちをかけるように『廃刀令』と『散髪令』が出されます。
ますます、不満を増幅させる士族たち・・・。
そして、その年の10月24日、旧熊本藩士・太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)ら、約170名で結成された敬神党が挙兵したのです。
まずは24日の深夜、鎮西鎮台司令官の種田政明の邸宅を襲撃。
種田を殺害した後、熊本県令・安岡良亮宅も襲撃して殺害し、さらに、その他多くの県役人を殺傷します。
同じ頃、別動隊は、政府の鎮西鎮台が置かれていた熊本城内に、怒涛のごとくなだれ込みます。
やがて合流した一隊は、城兵を次々と殺傷し、夜明け頃には、一旦、砲兵営を制圧します。
しかし、夜明けとともに駆けつけた新たな政府軍によって猛反撃が開始され、首謀者の一人であった加屋霽堅は討死、太田黒自身も負傷し、撤退の途中に覚悟の自刃をします。
リーダーを失った反乱軍は、総崩れとなり、最終的には、自刃を含む100名以上の死者を出して大敗となり、残りの者も、ほとんどが捕えられ、敬神党は壊滅状態となり、『神風連の乱』は終結します。
しかし、反乱分子は彼らだけではありません。
彼らと連絡を取っていたであろう士族たちの反乱が、この『神風連の乱』に同調するように、3日後の27日には『秋月の乱』(10月27日参照>>)、翌28日には『萩の乱』(10月28日参照>>)と立て続けに勃発するのです。
やがて、これら士族の不満は、翌年に西南戦争という形で大爆発する事となります。
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ところで、この『神風連の乱』は、もちろん、最新ニュースとして新聞紙上に大きく掲載されたわけですが、もう一つ別の話題も、新聞紙上を賑わしました。
それは、この乱で殺害された鎮西鎮台司令官・種田政明少尉のお妾さんだった小浪(小勝とも)さんの、一通の電報です。
新橋で芸者をしていた彼女は、この事件の時、お妾さんとして種田の任地先に同行していて、事件に巻き込まれて被害を受けるわけですが、この状況を、東京の母親に電報で伝えたのです。
当時は、電話もEメールもありませんから、緊急事態を知らせるには、この「電信を用いた文書=電報」が最も早い連絡方法でしたが、なんせ、文字が多くなると、それだけ代金も多くかかるわけで、物事をいかに簡潔に短い文章にまとめるかが重要なポイント。
しかし、読み書きもままならない時代・・・一般には、何をどのように伝えるのか?がなかなか理解できず、庶民が電報を利用するには、ほど遠い状況だったのです。
この時、小浪さんが打った電報は
「ダンナハイケナイワタシハテキズ」
つまり、「『旦那=種田』は『いけない=もうダメ』、私は『手傷=怪我をした』」という物でした。
「これは、名文・・・電報の傑作だ!」
と、この文章に感激したのは、仮名垣魯文(かながきろぶん)。
この仮名垣魯文という人は、戯曲作家であり新聞記者でもあり、広告文案・・・今で言うキャッチコピーを考えるというマルチな才能を発揮していた人です。
彼は、早速、一般庶民の電報のお手本となる文章として新聞紙上に発表するのですが、この時、魯文自身が作った下の句とも言える文章をくっつけて発表したのです。
「ダンナハイケナイワタシハテキズ」
「カワリタイゾエクニノタメ」
これが、読者からの大反響を呼びます。
まもなく、一人の読者から、さらに下の句が新聞に投稿されます。
「ソコデオマエハドウオシダ」
すると、それに続くように、連日、読者から、その続きの文章となる投降が送られて来て新聞紙上を賑わし、一般庶民の間では、投降はしないまでも、「この続きはこうだ」などといった、文章を考えるのが大流行したのだそうです。
おかげで、電報文という物がどのような物であるのかが、広く理解される事となり、今後の電報の普及へと一役買う事になったのだとか・・・。
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ところで、さらなる後日談なのですが、この事件の後、例の小浪さんに惚れて惚れて、惚れぬいた一人の巡査がいたらしいのです。
何度も彼女に言い寄りますが、新聞報道までされちゃってる以上、亡き種田に義理を立てて「私は、少尉以外のかたとは・・・」と拒み続けます。
しかし、かの巡査が、あまりに熱心で純粋なので、断り続けるうちに情が移ってしまい、「それなら、これで勘弁して」と、彼女の襦袢(じゅばん)をプレゼントしたのです。
結局その巡査は、翌年の西南戦争で討死するのですが、その時、彼は彼女からもらった襦袢を、制服の下に身に着けていたのだとか・・・。
泣けますね~男の純情・・・
今日のイラストは、
やっぱ最後に見せた『一巡査の純情』って感じで・・・
さすがに制服の上に羽織りゃ~しないでしょうけど、何となく女物を羽織るっつーのがカッコイイと思ったもので・・・
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コメント
これは意外な副産物ですね~。
電報の普及にこんな風に使われたとは当のご本人さんはどんな風に思ったでしょうね。
それに襦袢の話。ロマンチックです。
なんだか小説になりそうな。
それにしてもこの記事の量。
頭が下がります。
投稿: 味のり | 2007年10月25日 (木) 00時27分
味のりさん、こんばんは~。
いつも、コメントありがとうございます。
巡査さんの行為も一歩間違えばストーカーという事になりますが、ここは純愛路線と考えたいですね~。
ところで、私の場合、一応、その日あった出来事を見て、何を書くか考えるんですが、ブログも二年目になって、そろそろヤバイ・・・日付に関係ない事を書く機会が多くなりそうでコワイです。
投稿: 茶々 | 2007年10月25日 (木) 01時40分