将軍・足利義昭擁立で初登場!謎の明智光秀
永禄十一年(1568年)10月18日、足利義昭が、室町幕府・第15代将軍に就任しました。
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足利義昭(よしあき)は、室町幕府・第12代将軍・足利義晴(よしはる)の子供で、第13代将軍・義輝の弟・・・兄の義輝を、三好三人衆と松永久秀らに殺された後(5月19日参照>>)、幽閉先の奈良を脱出して越前(福井県)の朝倉義景のもとに身を寄せていました(7月28日参照>>)。
三好と松永によって擁立された14代将軍・義栄よりも、自分こそが正統な将軍継承者だと思っていた義昭は、いっこうに動こうとしない義景を諦め、「誰か自分を将軍に祭り挙げてくれる実力のある者はいないか?」と探しはじめます。
そんな義昭と、当時、「京を制する者は天下を制す」と言われた時代に、上洛の大義名分を探していた織田信長とが出会います。
お互い利害関係が一致した二人・・・信長が義昭を奉じ、6万の大軍を率いて上洛したのが永禄十一年(1568年)の9月でした(9月7日参照>>)。
わずか20日足らずで、京の町を牛耳っていた三好三人衆を追い出し(9月29日参照>>)、松永久秀を傘下に加えた信長の支援によって、永禄十一年(1568年)10月18日、足利義昭は、室町幕府・第15代将軍に就任するのです。
義昭と信長・・・この二人を結びつけたのが、かの明智光秀です。
光秀が歴史の表舞台に登場するのは、前年の永禄十年(1567年)・・・義昭と信長の間を取り持つ役割を担って、いきなり登場します。
交渉は見事成立し、翌年の7月には、信長が美濃(岐阜県)の立政寺に義昭を迎え入れています。
そして、9月に上洛、10月に将軍職・・・という運びになるわけですが、『明智軍記』によれば、この時、光秀は41歳。
それまでの半生が、まった不明のままの、いきなりの表舞台です。
光秀の経歴については、若狭小浜の刀鍛冶冬広の次男であるという説や、美濃明智の住人で御門(みかど)重兵衛と名乗っていたとも言われていますが、一般的には斉藤道三の息子・義龍に攻め滅ぼされた美濃守護・土岐氏の支族・土岐明智氏の出身だったというのが有力で、落城寸前の明智城から脱出した明智氏の嫡男が光秀であったという話もあります(9月20日参照>>)。
また、光秀の叔母が斉藤道三の夫人で、信長の正室となった濃姫とは従兄弟同士だったとも言われていますが、いずれも確固たる証拠という物はなく、謎のベールに包まれているのです。
しかし、歴史の表舞台に登場した光秀は、すでに、茶の湯をたしなみ、和歌や連歌にも通じた立派な武将として登場します。
しかも、鉄砲の腕前が見事で、そこに惚れ込んで、朝倉に身を寄せていた光秀を、信長が自分の家臣へと引っ張ったという説もあります。
信長の家臣となった光秀は、天正三年(1575年)には従五位下日向守に任ぜられ、天正八年(1580年)に光秀が丹波を攻略した時には、それまでの近江10万石に加え、丹波・一国をまるまる与えられています。
この異例の出世は、やはり、歴史の表舞台に登場した時点で、かなりデキる武将であったという事でしょう。
そんな、謎多き光秀の前半生・・・放浪生活を続けていたという若き日に、唯一残る逸話があります。
一時、妻とともに、丸岡で暮らしていた頃、光秀は、「汁講(しるこう)」という武士の会に参加していました。
それは、参加している者たちの持ち回りの会食パーティのような物で、まだ若輩の武将たちが、メンバーの誰かの家に集まって、兵法を論じたり、合戦の話をしたり・・・という、言わば武将としての勉強会のような感じでした。
そして、いよいよ、光秀宅で、その会を開く順番が回ってくるのですが、放浪中の彼は、自分たちの明日の食費にも事欠くほど、家計は火の車・・・とても、客をもてなす事などできません。
しかし、当日、妻は、他の誰よりも見事な食事を用意し、客をうならせたのです。
汁講が無事終わり、客が喜んで帰った後、男のメンツが立った光秀は、一言、妻に「ありがとう」と、言います。
しかし、気になるのは、この貧乏所帯で、どうやってあのような食材を用意したのか?という事です。
光秀がたずねると、妻は、笑いながら頭のかぶりものを取って、「髪を売りました」と・・・。
見ると、昨日まであった黒髪がバッサリと切られていたのです。
♪月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せん♪
これは、光秀のこの逸話に感激した芭蕉が詠んだ句です。
芭蕉が生きた江戸時代から、すでに有名なこの光秀の逸話ですが、これまた光秀らしく謎に包まれています。
光秀は、その生涯で2度、結婚していますが、この妻という人が、一人目の妻だという話と、2度目の妻だったという話とがあるのです。
一度目の妻だったという説では、その妻とは早くに別れたけれども、彼女が病死した時は、どこからか訃報を聞き、、遠方から駆けつけて、葬儀に参列していたとされています。
2度目の妻は土岐氏の家臣・妻木範煕(のりひろ)の娘・煕子(ひろこ)さんで、例の細川ガラシャの母となる人なのですが、この人が黒髪を売った妻であるとする説では、その行為に感激した光秀は、一生、側室を持たず妻だけを愛し続けた・・・とされています。
しかし、この煕子さん自身にも、光秀よりも先に病死したという説と、光秀が本能寺の変(6月2日参照>>)を起し、山崎の合戦(6月13日参照>>)で敗れた後、落城する坂本城と運命をともにした・・・という説とがあります。
戦国史を語る上で欠かせない重要人物でありながら、謎に満ちあふれる明智光秀・・・・もちろん、その謎は「本能寺の変の動機」、「山崎の合戦の後の生存説」という更なる謎も生み出します。
その謎めいたところが何とも魅力で、明智さんは、今も屈指の人気を誇っているのでしょうね。
今日のイラストは、
芭蕉も感激した逸話のワンシーンで、『若き日の光秀さんと奥さん』を・・・
ところで、今日は、義昭さんの将軍就任の日なのに、光秀さんの話題に終始してしまいました~将軍就任後の義昭さんについては7月18日のブログ【ネバる!足利義昭~ボロは着てても心は将軍】>>でどうぞ。
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コメント
毎日毎日歴史を詳しく調べるのは大変ではないでしょうか、ぽち
投稿: 小池 | 2007年10月18日 (木) 18時37分
小池さま・・・コメントありがとうございます。
好きなもので・・・(^o^;)
投稿: 茶々 | 2007年10月18日 (木) 18時58分