三増峠の戦い~武田VS後北条
永禄十二年(1569年)10月6日、帰国途中の武田信玄の軍を、北条氏輝が三増峠にて奇襲した『三増峠の戦い』がありました。
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甲斐(山梨県)の武田氏、駿河(静岡県・東部)の今川氏、相模(神奈川県)の後北条氏は、血縁者同士の婚姻などで、長く三国同盟を結んでいました(3月3日参照>>)。
永禄三年(1560年)に起こった、あの桶狭間の戦い(5月19日参照>>)で、駿河の今川義元が織田信長に討たれはしたものの、その後、義元の嫡子・氏真が今川氏を継ぎ、その氏真の母(義元の正室)が、武田信玄の妹であった事もあり、武田と今川の同盟は、しばらくの間は続いていました。
しかし、義元という大きな柱を失うと同時に、氏真の失政も重なって、今川氏は徐々に弱体化してしまいます。
それをチャンスと見た信玄は、永禄七年(1568年)12月に突然、同盟を破棄し、駿河に攻め込み、氏真は逃亡(12月27日参照>>)・・・駿河は、信玄の物となります。
当然、この信玄の行動には、同盟を結んでいたもう一国・相模の後北条氏も、警戒の態度をあらわにし、兵を動かそうとしますが、結局、直後の衝突には至りませんでした。
翌・永禄十二年(1569年)、信玄は、相模に遠征を開始します。
警戒の意味があったのか?相手の出方を見ていたのか?・・・
なぜかこの時、信玄は、甲斐を出て、信濃(長野県)を回り、上野(群馬県)を経て、武蔵(埼玉県・東京都)から相模へと入ります。
さらに、後北条氏の支城である鉢形城(埼玉県)、滝山城(東京・八王子市)に睨みをきかせながら南へと下り、10月1日、いよいよ後北条氏の本拠地・小田原城を包囲したのです。
しかし、北条側は、お得意の籠城作戦を決行・・・なんせ、北条の小田原城は、鉄壁の要塞ですから・・・
永禄四年(1561年)に上杉謙信が攻めてきた時も、この鉄壁の小田原城で籠城して成功・・・謙信は城を落とすことなく、撤退しました。
そして、今度も・・・。
結局、小田原城を攻めあぐねた信玄は、兵を引き揚げ、帰国の途につきます。
この信玄の撤退を、待っていたかのように追撃を開始する北条・・・。
かくして永禄十二年(1569年)10月6日、北条氏輝・氏邦らが率いる2万の軍勢が、要所である三増(みませ)峠にて、帰国途中の武田軍に奇襲をかけます。
その間に、先の小田原城からは、北条氏政率いる本隊が、援軍として駆けつける手はずになっていました。
勢いづく北条軍・・・迎える武田軍も、同等の2万の軍勢を率いていましたが、戦況は北条有利に展開します。
山岳地帯での合戦には、自慢の騎馬隊も役に立ちません。
信玄ピ~ンチ!
しかし、信玄は、すでに周囲に忍者を派遣し、北条の動きはすべてお見通し。
山県昌景(やまがたまさかげ)らを別働隊として、三増峠の南西の志田峠に回らせていました。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
別働隊は、山岳地帯特有の地形を活かし、氏輝らの後方の高所へと回りこみ、その後一気に下り、敵の背後を突きます。
別働隊の攻撃により、戦況は一転します。
しかも、この時、信玄はかなりの数の鉄砲を用意していたと言います。
あの、長篠の合戦(5月21日参照>>)の6年も前にです。
長篠の合戦では、「織田信長の鉄砲隊に対して、武田の騎馬隊がなす術もなく・・・武田は鉄砲を持ってないのか?」といった印象を受けがちですが、どうしてどうして、すでに、ここで信玄が鉄砲隊を用意していたのです。
追い詰められた北条軍には、小田原城からの援軍も未だ到着せず、津久井城に控えていた守備隊は、武田の別働隊に阻まれ、救援に出る事もできませんでした。
討死した北条軍の将兵の数は、3千2百を数えたと言います。
しかし、こういうふうに書くと、何やら、武田軍の圧勝のような印象を受けますが、結果を見る限りでは、この三増峠での戦いは「引き分け」という事になります。
間に合わなかったせいもあって、北条軍の本隊はまったく傷ついていませんし、はっきりとした数はわからないものの、武田軍にもかなりの死傷者が出ていたようです。
(最初のうち北条が有利でしたからね)
結局、両者、傷みわけとなって、2ヵ月後、今川氏の領地だった駿河をめぐって、武田と北条は、再び、静岡の薩埵(さつた)峠で相まみえる事になるのですが、そのお話は12月6日のページでどうぞ>>
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