戦国の幕開け~北条早雲・伊豆討ち入り
延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)10月11日、北条早雲が足利将軍家の支族・堀越公方を攻撃し、滅亡させた戦い、世に言う『伊豆討ち入り』がありました。
支族とは言え、「将軍家が地方の一武将に滅ぼされた」という、まさに下克上・・・この『伊豆討ち入り』をもって戦国時代の幕開けと考える人も少なくありません。
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先日から度々登場している鎌倉公方・・・「また、その話かよ!」と思われたかたは、次の区切りのところから読んでいただいても差し支えありませんがとりあえず・・・。
室町幕府が都から離れた関東を支配するために、足利尊氏の次男・基氏を関東に派遣し(9月19日参照>>)、代々その基氏の家系が関東を治める鎌倉公方という役職を引き継ぎなす。
しかし、いつしかその鎌倉公方を中心に関東は、京都とは別の独立国家のようになっていき、その事を懸念した本家・室町幕府将軍の足利義教(よしのり)によって第4代公方・足利持氏の時に鎌倉公方は潰されてしまいます(2月10日参照>>)。
その持氏の遺児・成氏が乱を起こし公方奪回を目指して旗揚げしますが、すでに、公方よりも力をつけた関東管領の前に鎌倉には入れず、古河(茨城県)に館を構え、勝手に『古河公方』を名乗り始めます。
当然、幕府は正統な公認の公方として義教の息子・政知(まさとも)を新たに派遣しますが、この公認の公方も鎌倉には入れず伊豆の堀越(ほりごえ)に館を構え『堀越公方』と名乗ります。
・・・とここまでは、先日の【第一次・国府台合戦~小弓公方の最期】(10月7日参照>>)と同じ・・・今日のお話はその『堀越公方』の滅亡のお話です。
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延徳三年(1491年)4月、初代の堀越公方・足利政知が病死を遂げます。
彼には、嫡子・茶々丸と、側室・円徳院が産んだ潤童子(じゅんどうじ)という二人の子供がいましたが、この嫡男の茶々丸というのが、手に負えないワルで、あまりに凶暴なため、座敷牢のような所へ閉じ込め、幽閉生活をおくらせていました。
当然、政知の内心は、弟の潤童子に家督を継がせたいと思っていましたが、そのアクションを起さないまま、今回の病死となってしまったのです。
父の死を知った茶々丸は、幽閉されていた牢を脱出し、円徳院と潤童子を殺害・・・自力で家督を継ぎ、二代目・堀越公方を名乗り始めます。
父親が、扱いに困って牢に閉じ込めるくらいです。
この茶々丸さん、なかなかのキカン坊。
いき過ぎた行動を止めようとする譜代の重臣を斬り殺すわ、領民に法外な重税をかけるわで、またたく間に、家臣や領民から支持されなくなってしまいます。
そんなドタバタに乗じて、動き始めたのが、堀越のある伊豆とは地続きの隣国・駿河東部にいた北条早雲(ほうじょうそううん)です。
この頃、早雲は伊勢新九郎・・・と名乗っていましたが、実名が諸説ある人なので、今日は、北条早雲で通させていただきます。
当時、早雲は、姉(もしくは妹)の北川殿が側室となっていた事をを頼って、駿河(静岡県東部)の今川義忠に契約社員のような形で仕えてから、北川殿の産んだ氏親(うじちか)を当主に据えるなどの功績によって(6月21日参照>>)、興国寺城(静岡県沼津市)の城主に大抜擢されて四年ばかりの頃でした。
一城の主だけでは、まだまだ満足できない早雲にとって、隣国のドタバタ劇はラッキーチャンス!
延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)10月11日、早雲は突如として堀越館を襲撃します。
『伊豆討ち入り』と呼ばれるこの合戦ですが、「突如」と感じたのは、あくまで茶々丸サイドからの印象・・・実は早雲自身は充分な策を練っていたのです。
この時期、関東管領の権力争いで、管領家・上杉氏同士の扇谷(おうぎがやつ)上杉と山内上杉が合戦状態にあり、山内上杉氏が守護を務めていた伊豆の武士たちは、ほとんどがその合戦にかりだされていて残っているのは百姓ばかりの状態。
しかも、早雲は攻め込む前の偵察として、商人に身をやつして伊豆に潜入し、その地を調査するとともに、民百姓に様々な親切をしながら、「堀越公方が倒れれば、いかに生活が良くなるか」などの知恵を吹き込み、領民たちのハートをガッチリと掴んでいたのです。
襲撃当日は、氏親から大量の兵を借りるとともに、軍船などを駆使し、周到な作戦を決行しました。
茶々丸さん・・・いくら血気盛んでも、大器晩成・用意周到な戦国の梟雄(きょうゆう)にかかっては、もはやこれまで・・・戦いは早雲の圧勝となります。
負けた茶々丸は堀越館で自刃・・・と、言いたいところですが、年号同様、この茶々丸さんの死についても諸説あります。
堀越館では自刃せす、脱出して三浦氏を頼った後、翌・明応三年に再び攻められて自刃したという説。
深根城(静岡県下田市)の関戸吉信を頼った後に、やはりもう一度、早雲に攻められて、明応七年(1498年)8月に自刃したという説など・・・(8月25日参照>>)
。
伊豆諸島に落ち延びて、明応四年(1495年)に富士山に登った(なぜ、登る?)という説までありますが、いずれにしても、堀越館は、この日、早雲の攻撃を受けて堀越公方は滅亡したのです。
ここで、伊豆一国を手に入れた早雲は、今川おかかえの一武将から戦国大名にのし上がり、乱世という大きな歴史の舞台で名乗りを挙げ、次は、いよいよ、あの小田原城奪取(2月16日参照>>)へと向かいます。
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コメント
茶々さん
北条早雲さん、私のイメージでは主家を
滅ぼしてのっとった、ずるがしこい人?って感じで、本当のところは何も知りません。
秀吉にやられるまでの長い基盤を作ったのですから良いところたくさんあったのでしょうね。
投稿: みどり | 2007年10月11日 (木) 10時55分
みどりさんこんにちは~。
北条早雲にしても、昨日の松永久秀にしても、やはり戦国時代はズルがしこいくらいでないとのしあがれなかったでしょうね。
ボ~としてたらやられてしまいますからね~。
投稿: 茶々 | 2007年10月11日 (木) 15時14分
こんばんは。
北条早雲って、不思議な人物です。
突然現れて、戦国大名になってしまうという。守護代でもなかったのに。
小田原に北条5代のお墓があります。
箱根に近いので、観光する人も多いです。
投稿: やぶひび | 2010年5月11日 (火) 18時53分
やぶひびさん、こんばんは~
早雲もそうですが、なにやら北条氏全体に、他の武将とは違う雰囲気を感じます。
5代100年に渡って君臨しながら、他の武将が夢見た天下には、見向きもしなかったような・・・
関東でのイザコザはあっても、その覇権を全国へ向けようとしなかったのには、何かワケがあるんでしょうか???
気になります。
投稿: 茶々 | 2010年5月11日 (火) 21時53分
北条氏といったらまず風魔忍軍が最初に思いつきますね。たしか風魔小太郎というのは頭領の名前でしたよね?子孫はいるのでしょうか‥
あと今度「のぼうの城」が映画でやりますね。めっちゃ見たい(*≧m≦*)
投稿: のすけ | 2012年10月11日 (木) 23時23分
のすけさん、こんばんは~
忍者系は、実在が微妙な場合も多いですね。
まぁ、表に出て功績を残す職業では無いので、その記録自体が残り難い部分もありますしね。
「のぼうの城」は小田原征伐の時の忍城のお話ですよね。
痛快なストーリーになりやすい題材だと思います。
期待できそうです。
投稿: 茶々 | 2012年10月12日 (金) 03時08分