戦国屈指の奇襲戦・厳島の戦い
弘治元年(1555年)10月1日、主君・大内義隆に対してクーデターを起し、周防(すおう・山口県東部)の実権を握っていた陶晴賢と、中国地方全土への勢力拡大をもくろむ毛利元就とが戦った『厳島の戦い』がありました。
2万の大軍の陶軍に対して、4千足らずの毛利軍が、謀略と奇襲で挑んだ戦国屈指の奇襲戦です。
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天文二十年(1551年)8月、家臣との衝突を繰り返していた周防(すおう=山口県)の戦国大名・大内義隆(おおうちよしたか)に、不満をつのらせた重臣・陶晴賢(すえはるかた=隆房)は、クーデターを起し、主君・義隆を自刃に追い込みます(8月27日参照>>)。
そして、元・養子でありながら、義隆に実子が誕生したため、実家に戻されていた豊後(ぶんご=大分県)大友宗麟(おおともそうりん)の弟・大友晴英(はるふさ)を再び迎え入れました。
晴英は、大内義長(よしなが)と名乗り、大内氏の当主となりますが、当主とは名ばかりで、実権は、すっかり晴賢以下・家臣たちのもの・・・当然の事ながら、当主と家臣の関係はギクシャクしたものとなります。
そんな大内氏のゴタゴタを絶好のチャンスと見てとったのは、かねてより中国地方全土を手中に収めたいと願う安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)です。
元就は早速、数々の謀略を張り巡らします。
まずは、本州から大野瀬戸(おおののせと)を挟んで向かい側にある厳島に宮尾城なる城を新築します。
これは、敵の本拠地・周防と、味方の本拠地・安芸との間の制海権を握る上での重要地点に城を築く事で、水運の掌握を計る目的でもあり、晴賢ら陶軍を厳島におびき寄せるエサでもあったのです。
次に、晴賢の右腕・江良房栄(えらふさひで)を消しにかかります。
房栄は、敵方の中でもグンを抜いた勇将で、まともに戦った場合、必ず一番の壁となるであろう人物でした。
そこで元就は、「房栄が毛利軍に寝返った」事を記したニセの書状を作成し、それをわざと敵方にもぐりこませたのです。
元就の張った策略にまんまと引っ掛けられ、その書状を本物と信じ込んだ晴賢は、事もあろうか房栄を斬ってしまいます。
そして最後の謀略は、そのものズバリ。
晴賢を・・・それも大軍を引き連れて、厳島におびき寄せる事・・・。
それまでも、厳島に築城した事によって、陶軍と毛利軍の小競り合いは何度かあったものの、陶方を壊滅させるには至りませんでした(4月8日参照>>)。
壊滅させるためには、この狭い厳島に大軍をおびき寄せて、身動きできない状態に陥れてしまおうというのです。
そして、弘治元年(1555年)の9月に入って、作戦決行!・・・毛利の重臣・桂元澄(かつらもとずみ)が、晴賢へ内通を申し出る内容の書状を送ります。
もちろん、これは、敵を騙すためのウソの申し出・・・しかし、それをすっかり信じた晴賢は、9月21日、500隻の船団を率いて、2万の大軍を以って厳島に上陸し、宮ノ城を包囲したのです(9月21日参照>>)。
(そんなに信じやすいと、戦国は生き抜けないゾ!)
一方の毛利軍・・・すでに元就は、厳島の対岸の草津城に主力部隊・約4千を集結させていましたが、陶軍の上陸を知って、安芸伊予水軍と村上水軍の協力のもと、周辺の海上を封鎖します(9月28日参照>>)。
相手は、思惑通りに厳島へやって来てくれましたが、4千足らずという少ない兵で、この奇襲作戦を成功させるためには、コチラが相手に気づかれず上陸しなければなりません。
天は毛利に味方したのか・・・絶好の日がやってきます。
9月30日、夜半から、風雨に見舞われた最悪の天候・・・そう、元就はこれを待っていました。
荒天を突っ切って草津城を出陣する毛利軍。
本隊の毛利元就・隆元(たかもと=元就の長男)・吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)は、宮尾城をやり過ごし包(鼓)ヶ浦から上陸・布陣します。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
同時に別働隊の小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)は、敵方にさとられないよう、一旦、大野瀬戸を南西へと向かい、途中から北東へ向きを変えて、厳島神社に近い正面から上陸します。
弘治元年(1555年)10月1日、日の出を合図に本隊は包ヶ浦から背後へ、別働隊は宮ノ尾から正面へ、一斉に陶軍めがけて攻撃が開始されました。
昨夜の悪天候に油断していた事と、2万というあまりの大軍でかえって身動きがとれない事・・・この二つが重なって陶軍は、またたく間に総崩れとなってしまいます(10月3日参照>>)。
大軍を生かした組織的攻撃がまったくできないまま、島内の高安原に追い詰められ、もはや陶軍は壊滅状態です。
味方の大敗を目にした晴賢は、船で本拠地の周防へ逃げようと大元浦までやってきますが、すでに海上封鎖された海に、船は一隻もありません。
呆然とする晴賢に、やがて迫り来る毛利の軍勢・・・。
覚悟を決めた晴賢は、大江浦にて自刃し果てるのです(10月5日参照>>)。
(さらにくわしい決戦の様子は2011年10月1日の【決戦!戦国三大奇襲・厳島の戦いVer.2】でどうぞ>>)。
あの織田信長の桶狭間の戦い(5月19日参照>>)とともに、わずかの兵で大軍を撃ち破った奇跡の奇襲作戦と称される『厳島の戦い』。
しかし、桶狭間がそうであったように、この厳島も、合戦前の謀略・情報戦線と、一か八かの賭けに勝てる運の強さが、何よりもその勝因と言えるでしょうね。
相手も相手で、大軍であるが故のちょっとした油断が、運を逃してしまった・・・というところでしょうか。
この後、元就は、厳島の戦いには参戦していなかった若き当主・大内義長を、これまた謀略で自刃に追い込み(4月3日参照>>)、権勢を誇った大内氏を滅亡に追いやる事となります。
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コメント
おはようございます~♪
おっほほほ・・寄せ来る数万の大群をわずかな手勢で・・たまりませんなあ。
ふっと三国志最大の攻防「赤壁の戦い」を思い出しましたよ。あれも、情報・謀略の後の決戦ですからね~。総大将が周瑜という美形の将であったことからも人気ですが、この方が、謀略の達人なのだから更に人気なんでしょうね。
厳島には美形の将はいなかったのでしょうか?ア・・ダジャレだ・・。
投稿: 乱読おばさん | 2007年10月 1日 (月) 09時35分
おお・・・「赤壁の戦い」も、そうですね。
ブログにも書きましたが、桶狭間と川越夜戦と、この厳島が「三大奇襲戦」と呼ばれているそうです。
美形は・・・どうでしょう。
毛利家は美形だったのかな?
相手の大内義長さんは美形っぽいですけどね。
ゲームの戦国無双は、おそろしいほどの美形ぞろいですが、その中で今川義元だけが「へんなオッサン」なのがとてもお気の毒です。
投稿: 茶々 | 2007年10月 1日 (月) 13時56分