究極の魔界封じの都・平安京誕生
「泣くよウグイス平安京」
延暦十三年(794年)10月22日、第50代・桓武天皇が平安京に遷都しました。
・・・・・・・・・
もともと母親の身分の違いから、異母弟の他戸(おさべ)親王に決まっていた次期天皇の座を、謀反の濡れ衣を着せ、死に追いやって勝ち取った桓武天皇。
その次には、自分の次に天皇になる事になっていた弟の早良(さわら)親王を、息子に後を継がせたいばかりに、これまた死に追いやってしまいました。
やがて起こる異変の嵐!
地震・飢饉・水害・・・さらに、疫病で四人の妻と母親を次々と亡くし、他戸親王と早良親王の祟りとばかりに恐れおののく桓武天皇が、怨霊から逃げるように、建設途中の長岡京を捨て(11月11日参照>>)、延暦十三年(794年)10月22日、平安京に都を遷した事はこのブログでチョコチョコ書かせていただいております。
各関連ページへのリンクです↓
・10月22日:未完の都・平安京>>
・11月8日:平安京、命名の日>>
・9月23日:お彼岸の起源・由来>>
そのおかげで、徹底的に怨霊を排除する究極の魔界封じ都市となった平安京・・・今日は、具体的にどのように魔界封じがなされているのか?ご紹介させていただきたいと思います。
まずは、京都という場所が持って生まれた『四神相応の地』であったという事・・・。
『四神相応の地』の四神とは、その字の通り四体の神様・・・
これは、古代中国に起源のある物で、東西南北の四方向をそれぞれの神=聖獣が守ってくれるというものです。
東は青竜(せいりゅう・色は青)。
西は白虎(びゃっこ・色は白)。
南は朱雀(すざく・色は赤)。
北は玄武(げんぶ・色は黒)。
この思想は、飛鳥時代にはすでに日本に伝わっていて、あの高松塚古墳やキトラ古墳の石室の壁に、それぞれの壁画が書かれていた事は有名です。
飛鳥時代では、宮殿の四方にそれぞれの聖獣を書いた旗を立てたり、聖獣を示す色をほどこして都の平安を祈っていましたが、平安京までは、まだ、都の立地そのものを四神にゆだねる事はなかったのです。
そして、青竜は河川に、白虎は大路に、朱雀は湖沼に、玄武は山に住むというところから、それらに四方を囲まれた土地は『四神相応の地』とされ、永遠に栄えると言われていたのです。
これは、現在の風水や家相につながる言い伝えですが、風水がそうであるように、単なる占いではなく、統計と経験に基づく理にかなった物である事が、今となっては理解できますね。
北に山があって南に沼があれば、当然、そこに開けた土地というのは、ゆるやかな南斜面という事になりますから、日当たり良好のバツグンの住みやすさ。
さらに山から湧き出る清らかな水をたたえた川は南に向かって走り、飲み水や生活用水となるばかりか、水運も発達させます。
加えて、残った一方向に、別の都市へとつながる道があるなら、交通の便もよろしく経済も発展するに違いないのです。
怨霊を徹底的に封じるためには、立地そのものを四神に守ってもらおうと考えた桓武天皇・・・そうして選ばれた土地が現在の京都だったのです。
北に洛北の峰々を抱えているのは、皆さんもご存知の通り。
東には鴨川が流れ、西には大陸への玄関口・九州へと続く山陽道がすでにありました。
さらに、現在は干拓されたため無くなっていますが、当時は南に巨椋池という大きな湖があったのです。
『四神相応の地』を見つけた桓武天皇・・・しかし、これだけでは不安です。
さらに、怨霊を近づけないために、人工の魔界封じをほどこします。
都の東西南北にある巨石を掘り起こし、その下に『一切経(いっさいきょう)』という経文を埋め込みました。
その巨石というのは、『磐座(いわくら)』という古代の祭壇です。
神社という物が現在のような社殿を持つ形になる以前、古代の人々が、ご神体となる山の上などに、祭祀やお参りをするために、巨石などで造った神社の原型のような建造物・・・それが磐座です。
当時は、すでに古代人の造った磐座が、平安京となる土地の周囲に、いくつか存在していたのですが、その中の東西南北の4箇所にお経を埋めたという事です。
東の磐座は、左京区の大日山にあったという事ですが、以前ここにあった別名・東岩倉寺と呼ばれた観勝寺というお寺が応仁の乱の際に焼けてしまい、残念ながら現在は磐座の面影は無いという事です。
西の磐座は、西京区大原野にある西岩倉山金蔵寺で、ここには現在、巨石は見当たりませんが、本堂の下に一切経が埋められているとか・・・。
南の磐座は、下京区石不動院町にある明王院不動・・・かつては、ここに、うっそうとした松林とともに巨石と石仏があったそうですが、現在は京都の街中で、石仏だけがお不動さんとして信仰を集めています。
北の磐座は、左京区岩倉にある山住神社で、ここは現在も完全な形で巨石が残っています。
さらに桓武天皇は、やはり東西南北に大将軍神社を建てて、なおいっそうの怨霊バリアを張り巡らします。
大将軍とは、記紀神話に登場するスサノヲノミコトの事です。
ご存知のようにスサノヲノミコトは、あのヤマタノオロチを退治した英雄神でもありますが、高天原を揺るがした荒ぶる神でもあります。
「目には目を・・・怨霊には荒神を・・・」というワケです。
東には、東山区・・・現在の京阪三条近くの大将軍神社。
西には、上京区・・・あの北野天満宮の南西側に位置する大将軍八神社。
南には、伏見区の深草にある藤森神社の摂社となっている大将軍社。
北には、北区の上賀茂神社から賀茂川を挟んだ西賀茂にある大将軍神社。
さらに、まだまだ・・・桓武天皇は、あの鬼の通り道と言われる『鬼門』の方角・・・北東にもちゃんと魔界封じをします。
賀茂川べりに幸神社(さいのかみのやしろ)を置き、鬼門の方角に古くからあった上賀茂神社と下鴨神社を大きく建て直します。
そして、この鬼門のラインは、最強最大の霊場・比叡山延暦寺へと続きます。
おお・・・完璧!
・・・と思いきや、桓武天皇はまだ満足できません。
そう、裏鬼門が残ってます。
裏鬼門にあたる南西は、近鉄・竹田近くの城南宮・・・その先には石清水八幡宮。
さらに北の守りを鉄壁にすべく、貴船神社と鞍馬寺を造営。
都の入り口・羅城門の両脇には東寺と西寺(現在は礎石のみです)。
今熊野には宝剣を埋めて(剣神社)、愛宕山の愛宕神社を大改修・・・どんだけ怖いねん!
・・・と、突っ込みたくなるくらいですが、まぁ、そのおかげで、桓武天皇の願い通り、京都は千年の都として栄える事になったわけですから、桓武天皇の恐怖心さまさま・・・って感じで、めでたしめでたしですね。
このページでご紹介している神社仏閣(一部紹介していない史跡もあります)への行き方は本家HPでご覧ください>>
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コメント
おはようございます。
首都が遷都する場合は遷都の儀式を行いますが、陰陽師に出てくる儀式は結局平安京以降は無いですね。
こういう知識も廃れたのかどうかわかりませんが、順徳天皇がかなり有職故実に詳しく集めていたのに何故かそういうのが福原、東京などに無かったのを見ますと結局千年の都は今でも都かなと思いました。
でも怨霊なんか大したことがないと思えないのです。というのは私は夢で見た災いが実際に起こりました。イタリアのパスポートの盗難もそうです。どうもマイナスオーラの影響かなと思っています。何か取り除く方法はないでしょうか?50歳もそろそろと言う年なので余計にそう感じます。
投稿: non | 2016年10月16日 (日) 09時25分
nonさん、こんばんは~
陰陽師というのは神職や占い師の類ではなく、内務省の官職なので、力を発揮するかどうかは、政府内でのその省庁の置かれる位置にもあるかと思います。
政治の中心が朝廷から武家に移行する中で、だんだん重要視されなくなったと思われますが、陰陽師は、今も土御門家の一子相伝の世襲制なのだと思いますよ。
こういう類のお話は、歴史の1ページとして、ご紹介してはいますが、私自身は、霊の類はいっさい信じておりませんので、申し訳ないです。
霊やらあの世やら運命やらがあると思うと気持ちが楽になるので、あればイイナとは思ってますけどね…
投稿: 茶々 | 2016年10月16日 (日) 16時31分
風邪が長引いて困っています。
陰陽師に健康回復をさせてくれたらと思います。
ところで私の知り合いの東京在住の女性がやたらと京都の悪口を言うのですが、府中よりも京都は歴史がないとか言ったので、京都も太秦とか下鴨とか平安京以前の集落があると言ったのですが、聞く耳持たずです。
秦氏、賀茂氏のことを知らないようでした。
別にどこが旧いとか新しいとかは調べてみないとわからないのですが違和感がありました。
さて青龍にした鴨川ですが、賀茂氏などの開拓のお陰で賀茂川と高野川をつないで鴨川にしましたが氾濫は続きました。白虎になるのは桂川または西の山々ですが、鴨川が氾濫するのになぜか左京に人が移り、右京は荒れ果て、大内裏は内野になりました。伯父が言うのには右京は完成できたけど湿地帯なのですぐに家を捨てたと言っていますが、西寺が無くなったのもそういうのも原因かなと思いました。確か大島渚が右京のところはここは田舎で、湿地帯で昆虫が多かったとか言っていましたので、平安時代だと維持するのは大変だったと思います。結局魔界封じも左京だけしか対象になっていないのかなと結果を見てそう思いました。
投稿: non | 2017年11月24日 (金) 17時56分
nonさん、こんばんは~
おっしゃる通り、西側は湿地帯だったので、なかなか開発が難しかったようです。
確か…どこかのページに書いたと思います。
投稿: 茶々 | 2017年11月24日 (金) 18時07分