南北朝の動乱~ある公家の悲しい都落ち
そもそも、なんで南北朝なんて・・・1つの国に二人の天皇・・・なんて事になちゃったのでしょうか?
もちろん、建武の新政(6月6日参照>>)に不満を抱いた足利尊氏が、後醍醐天皇に反旗をひるがえして京都を占領し、新しい天皇を立てて、室町幕府を開く・・・これが北朝で、一方の、吉野に逃れた後醍醐天皇はそのまま天皇なので、これが南朝(12月21日参照>>)・・・って事なのですが・・・。
もし、尊氏が立てた北朝の天皇が、室町幕府の意向で、勝手に立てられた天皇だったら、昨日の『観応の擾乱(じょうらん)』(10月26日参照>>)の時ように、尊氏が南朝に行っちゃった時点で北朝が無くなってしまう・・・という事になってもおかしくはないのですが、そうはいかない・・・つまり、天皇家にも以前から派閥があって、分かれるべくして分かれた南北朝だったのです。
そもそも鎌倉時代に、第88代・後嵯峨天皇が、一旦、長男の後深草天皇に皇位を譲ったにも関わらず「あっ、やっぱ次男がいいや」って事で、後深草天皇に迫って、無理やり次男の亀山天皇に皇位を譲らせた事に始まります。
しかも、その後は、嫡孫である後深草天皇の息子に返すべき皇位を、そのまま自分=亀山天皇の息子に継がせちゃった事で、嫡流側=後深草側は「本家はこっちだから、こっちに返せ!」、弟・亀山側は「もらったものは、返さないよ~」、てな感じでモメ始めるのです。
それぞれの天皇のゆかりの場所から、後深草天皇の皇統を『持明院統』。
亀山天皇の皇統を『大覚寺統』と呼びます。
この、返す・返さんの争いを見るに見かねた鎌倉幕府が仲裁に入って、「なら、交代々々で皇位についたらいいやん!」という案を出し、話し合いで一応、双方が納得し、これからは交代制にする事に・・・
これを、『文保の和談』と言いますが、この話し合いの後、すぐに即位したのが、後醍醐天皇なのです(8月16日参照>>)。
しかし、そんな条件付で即位したにも関わらず、ご存知の通り、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して、建武の新政をやらかしてしまいます。
後醍醐天皇は大覚寺統の天皇・・・世の中がすっかり変わってしまった以上、以前の約束が生きているのやら死んでいるのやら・・・もう、持明院統には皇位の順番が戻って来ないニオイがプンプン。
あせる持明院統・・・そんな時に、後醍醐天皇を裏切った尊氏からのラブコールですから、渡りに船とばかりに「よろこんで~!」となったわけです。
そんな南北朝の時代は、おおむね北朝が京都を制圧していましたが、もちろん、南朝も常に京都制圧を企んでいて、何度も合戦が行われています。
その中で、昨日書いた観応二年(正平六年・1351年)、文和二年(正平八年・1353年)、文和四年(正平十年・1355年)、康安元年(正平十六年・1361年)の4回、南朝が京都を制圧しています。
もちろん、どれも数ヶ月とはもたず、すぐに北朝(室町幕府)に奪回されるのですが、その度にたいへんなのは、それぞれの公家や貴族たちです。
北朝・南朝ともに、天皇だけでなく、その傘下におさまる公家や貴族が、それぞれの政務をこなしているわけですが、南朝の公家たちは、常に吉野いますから、京都を南朝が制圧しても、生活のベースを京都に移す前にまた、北朝に奪回されるので、基本の生活は変わらないのです。
しかし、北朝の公家たちは違います。
京都が南朝に制圧されると、北朝の武士はいなくなり、自分たちは京都に残ったまま・・・。
国のトップが南朝の天皇になるので、自分たちは逆賊という事になり、官位剥奪・・・政治の仕事は南朝の公家に移るため、仕事は無くなり、給料はストップ。
しかも、ヘタすりゃ命もありませんし、家も燃えたりなんかします。
北朝(幕府)が「ヤバイ!」と思って、京都を放棄するたびに、公家たちはハラハラドキドキです。
それでも上流貴族たちは、敗走する幕府軍とともに脱出したり、つてを頼って疎開したりできましたが、下級公家たちは、逃げる場所もままならず、明日食べる食糧も無いといった状況になるのです。
『太平記』には、そんな下級公家の、ある悲しいお話が書かれています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
兵部少輔(ひょうぶのしょう)というある下級公家・・・京都市中で行われた合戦で、家も家財道具も焼けてしまい、親類も皆、行方不明になってしまいます。
都には、もはや頼る人もいません。
彼には、妻と、9歳になる男の子と7歳になる女の子がいます。
何とかしなくてはいけません。
しかたなく、彼ら一家は丹波に落ちて行きます。
もちろん、丹波にもあてはありません。
とにかく、「丹波なら戦もないだろう」程度の事でしかありません。
とぼとぼと、道を歩きながら、そこらへんに落ちている栗や柿を拾い食べ、少しずつ北へ向かいます。
しかし、丹波国の思出河(おもいでがわ)という川の川岸で、とうとう妻や子供たちが歩けなくなってしまいます。
「ほな、ここで、ちょっと待っとき」
・・・と兵部少輔は、何か食べるものを分けてもらおうと近所の家を尋ねるのです。
しかし、その家の者は、彼の事を「強盗か?、はたまた南朝のスパイか?」と怪しみ、「白状しろ!」とばかりに、彼を拷問にかけてしまいます。
でも、もともと単なる物乞いで、何も悪いところのない兵部少輔。
数時間後には疑いも晴れ、釈放されて・・・それでも、妻子のために、あと何軒かの家々を回り、いくらかの木の実などを手に入れ、喜び勇んで妻子の待つ川岸へ戻ってきます。
しかし、彼がそこで見たものは・・・流れの隅ににひっかかっている愛する三人の溺死体でした。
実は、彼が食べ物を探しに行った時・・・
待てど暮らせど夫は帰って来ない・・・不安げに川岸でまつ妻と子に、通りがかった人が、夫が疑われて拷問にかけられている事を知らせたのです。
その話を聞いた妻は、「もはやこれまで・・・」と思いつめ、二人の子供を連れて川に身投げをしてしまっていたのです。
呆然とその場に立ち尽くす兵部少輔・・・
結局、彼も、妻子の後を追って、川に身を投げたのです。
兵部少輔の話は、ほんの一例・・・彼らのように、南北朝の動乱で、悲しい運命をたどった人たちは数多くいたという事です。
公家と聞くと、なんだか優雅で、「苦労なんかしてないんだろう」と思ってましたが・・・ちょっとイメージが変わりました~。
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コメント
南北朝ってややこしい!そんな理由や後のわびさびの文化に心をひかれて室町時代に興味がでてきました。
公家の皆さんも大変なんですね。
投稿: Ikuya | 2011年7月 7日 (木) 21時37分
Ikuyaさん、こんばんは~
上の方々のゴタゴタで、下級のお公家さんは大変だっただろうと思います。
その上の方々でさえあっち行ったりこっち行ったりしますからね。
投稿: 茶々 | 2011年7月 7日 (木) 22時58分
平安末期や戦国時代も、公家は苦難の歴史を歩んでいますね。今年の大河ドラマにも出た近衛前久は、「朝廷の異端児」とでも呼べそうな人です。前久のすごい所は「三英傑」と対等に渡り合えた点でしょうか。前久は若くして関白になった人ですが。
>Ikuyaさん
中学1年生なんですか。年齢は私の約半分ですね。
最近は大河ドラマにジャニーズの人が出ないのですが、一時は「主役レベル扱い」の時期もありました。
投稿: えびすこ | 2011年7月 8日 (金) 16時54分
えびすこさん、こんばんは~
ひろみGoも、未だ人気が出る前に大河に出てた気がします。
投稿: 茶々 | 2011年7月 8日 (金) 19時45分
>郷ひろみさんが大河ドラマに出ていた。
確か70年代に2回出ていますね。
平成になってからも出ていました。
20年前の「太平記」は今考えると、一部が異色の配役だったといえますね。
投稿: えびすこ | 2011年7月 9日 (土) 08時14分
えびすこさん、こんにちは~
「太平記」は題材そのものも異色でしたからね~
おもしろかったです。
投稿: 茶々 | 2011年7月 9日 (土) 15時07分
結局何のためにこういう戦をしたのでしょうか?
海外だと侵略されますよ。
英仏百年戦争もあほらしいですが、それ以上です。
結局何がしたかったのでしょうか?妥協は無かったのでしょうか?
投稿: non | 2016年4月29日 (金) 16時07分
nonさん、こんばんは~
島国だった事が功を奏したんでしょうかね?
投稿: 茶々 | 2016年4月30日 (土) 03時30分
茶々さん、こんにちは。
結局は島国だったのが侵略されなかったのでしょう。
でも万が一侵略が始まったら南北朝は和議をしたのかな疑問です。
特に後村上天皇は妥協する方とは思えません。
義満が出てくるまで何故こういう騒動が続いたのでしょうか?
不思議なのが義満、義持、義教の時は安定していましたね。
投稿: non | 2016年5月 1日 (日) 14時35分
nonさん、こんにちは~
義満以下の時代は…
不思議というよりは、やり方かと…
三者三様でひと言では言い表し難いですが…
そういう事をしなくなった義政の時代には、応仁の乱という別の大乱が起こってます。
投稿: 茶々 | 2016年5月 2日 (月) 15時44分
茶々さん、こんにちは。
義満、義持、義教は本当に有能だと思います。義量はいますけどこの3人で治めていましたが、豪腕だと思います。
義政は出来ませんでした。
何故この3人は出来たのかなと思います。
それにしてもこの3人の時以外の室町時代は悲惨ですね。
今回の話みたいな悲劇も多いですし・・・
投稿: non | 2016年5月 3日 (火) 11時42分
nonさん、こんにちは~
室町時代だけでなく、幕府という物は常にアブナイ感じだったと思いますよ。
鎌倉も3代で終わったも同然ですし、江戸も何度も危うかったですから…
一つの波を乗り越えると、しばらくな穏やかになるけれど、また…って感じだったんじゃないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2016年5月 3日 (火) 16時22分
茶々さん、こんにちは。
鎌倉は下剋上、室町は分裂、ようやく江戸で安泰です。
考えてみますと朱子学がきちんと身に着いたのも江戸ですからそれまで安定できなかったと思います。
考えてみますと頼朝はお客、尊氏は一族のリーダーに過ぎないですが、家康は命をささげる主人と言いますか神様みたいな存在ですので、意識が違うのでしょう。
源氏の長者だったのも大きいのではと思います。頼朝も尊氏も違います。
でも家康が亡くなるまではルールが決まっていなかったと思います。今の秩序や制度は家康以来のシステムと思います。だから平成時代でなく今でも江戸時代と思っています。
投稿: non | 2016年5月 5日 (木) 15時30分
nonさん、おはようございます
出自に関しては、家康は、かなり怪しいんですけどね。
そこを押し通す力を持ってる事が安定につながるのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2016年5月 6日 (金) 06時22分