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2007年10月23日 (火)

新田義興の怨念?神霊矢口の渡し

 

延文三年(正平十三年・1358年)10月23日、新田義貞の次男・新田義興をだまし討ちした江戸遠江守高良が、落雷の直撃を受け、一週間後に狂死しました。

・・・・・・・・

新田義興は、あの後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した時に、足利尊氏楠木正成らとともに、多大な功績のあった新田義貞(5月21日参照>>)の息子です。

建武の新政(6月6日参照>>)の後、尊氏は天皇に反旗をひるがえしますが、正成・義貞は後醍醐天皇に忠誠をつくし尊氏らと戦い、ともに討死しました(7月2日参照>>)

京都を制圧した尊氏は室町幕府を開き、京都を追われた後醍醐天皇も吉野に朝廷を構えます(12月21日参照>>)・・・世に言う『南北朝の動乱』です。

父の遺志を継いで、後醍醐天皇=南朝に従う息子・義興・・・父の死後は越後(新潟県)に潜伏して反撃の機会を狙っていたものと思われます。

その後、何度かくりかえされた京都争奪戦では、やや劣勢な南朝側でしたが、やがて、そんな南朝側に絶好のチャンスが訪れます。

観応元年(正平五年・1350年)、兄の片腕となって、ともに室町幕府を支え、「副将軍」と呼ばれていた尊氏の弟・直義と兄・尊氏との関係が崩れたのです(10月26日参照>>)

『観応の擾乱(じょうらん)と呼ばれるこの動乱は、二年足らずで直義の死をもって終止符が打たれますが、この期に乗じて義興は、弟・義宗らとともに関東奪回を目指して挙兵します。

文和元年(正平七年・1352年)2月、鎌倉公方として室町幕府から派遣されていた尊氏の息子・足利基氏を追放し、鎌倉を制圧した義興は、関東における南朝方の中心人物となります(2月20日参照>>)

しかし、もちろん追い出された基氏が、このまま黙っているわけはありません。

ただし、挙兵ではなく・・・

これが合戦という、ある意味正統な手段であったのなら、結果は変わっていたのかも知れませんが、基氏は関東管領の畠山国清と組んで、義興のもとへ、竹沢左京亮江戸遠江守高良という二人の刺客を送り込むのです。

竹沢左京亮は、もと義興の家臣・・・主君の性格のツボは心得たもので、「北朝に組みしたのはできごころだった」とか、「すっかり改心して前回以上に忠誠を尽くす」などとうまい事言って、まんまと義興の傘下にふたたび収まるのです。

もちろん、一緒に投降した江戸遠江守高良も・・・。

しかし、彼らの目的は義興の殺害・・・そんなそぶりは、おくびにも出さず、せっせとべんちゃらやりまくりの竹沢左京亮らは、徐々に家臣の中でも重く用いられるようになります。

義興が二人の事をすっかり信じ込んだころあいを見計らって、二人は行動に出ます。

延文三年(正平十三年・1358年)10月10日「名月の宴を催す」と称して、義興を多摩川矢口の渡しに誘い出します。

竹沢左京亮の先導で矢口の渡しを渡る義興ら御一行・・・しかし、渡し舟の船底の板がすでに外されていて、やがて、舟は川のド真ん中で沈み始めます。

「おのれ、計ったな!」
と、義興が気づいた瞬間、伏兵として潜んでいた江戸遠江守高良らが矢を射かけます。

哀れ義興は、同じ舟に乗っていた近臣13名とともに自刃し、多摩川の露と消えたのです。
未だ27歳でした。

しかし、その事件があったわずが12日後の、10月23日に、たまたま矢口の渡しの少し上流の浅瀬を渡ろうとした江戸遠江守高良が、多摩川べりで落雷に遭ってしまうのです。

その場ではたいした事はなく、命は助かったものの「すわ!義興公の怨霊か!」というのは誰しもが思う事・・・特に、だまし討ちという後ろめたさ満載の行為に及んだ本人としては、もはや耐えられなかった事でしょう。

江戸遠江守高良は、雷に打たれた7日後、狂死してしまいます。

その後も、矢口の渡し付近では、「怪光を見た」という者が後を絶たず、『義興公の怨霊』が評判となったため、義興を埋葬した場所に、新田神社なる社を建立したという事です。

これが、現在、東京都大田区にある新田神社であると言われていますが、中世の矢口の渡しがどのあたりにあったかは確定されておらず、この事件のあった矢口の渡しは、東京都稲城市矢野口であったという説もあります。

ところで、今日のお話には、少し付録がつきます。

この義興のだまし討ちと怨霊騒ぎは、『太平記』に書かれているお話ですが、これを江戸時代、一躍有名にしたのは、あのエレキテルで有名な平賀源内(11月21日参照>>)です。

この事件を素材として彼が書いた浄瑠璃『神霊矢口渡』が大ヒットし、後に歌舞伎にもなっています。

源内さん作の『神霊矢口渡』は、この事件の後日談といった感じの物語になっているのですが・・・

事件の後、追われる身の義興の弟・夫婦が矢口の渡しの船頭宅に一夜の宿を借り、そこの娘と恋に落ちたりなんぞしながら(嫁は?)、実は義興をだまし討ちしたのが、娘の父の船頭であった事がわかった後、すべてがバレた事を知った父は弟を殺そうとするのです。

弟に恋した娘が止める中、追いかけて川に舟を出す船頭・・・逃げる弟!

そこへ、天から新田家先祖伝来の神聖なる矢が降って来て、悪人船頭を貫く・・・といった具合なのですが、ここに源内さん特有の商売根性が発揮されます。

徳川家康が新田氏の出身と言い張っていた事もあって、江戸時代の新田神社はかなり賑わっていたようなのですが、当時、お守りの一種として、新田神社周辺の竹で造った霊験あらたかな『新田氏伝来の矢』という物を売っていたのです。

実は、このお土産用の矢の発案者が平賀源内さん、その人だったんですよね~。

これは・・・今で言うところの、大ヒット映画や大ヒットドラマとのコラボ商品では?・・・つまり、スターウォーズのアレとか、ガンダムのアレとか・・・

この源内さんが発案したお守り用の矢が、現在、神社でいただく『破魔矢(はまや)の元祖と言われています・・・まさに、見事なプロモーションです。

Nittanoyacc 今日のイラストは、
霊験あらたかな『新田氏伝来の矢』を・・・
3Dソフトを使ってこんなの描いてみました~雷がけっこう難しかったです~
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コメント

今日の話は最後のおちが最高でした!源内さんすごい!

投稿: minoruy | 2011年10月23日 (日) 15時33分

minoruyさん、こんにちは~

ホント、お見事ですね~
これは、ついつい買っちゃいます。

投稿: 茶々 | 2011年10月23日 (日) 17時32分

茶々様 こんばんは

もと義興の家臣、竹沢左京亮の方はどんな死にざまだったのか興味あります。
わかったら教えてください。

投稿: 山根秀樹 | 2021年10月23日 (土) 22時05分

山根秀樹さん、こんばんは~

>竹沢左京亮の方は…

残念ながら『太平記』には、ともに攻めるも、亡くなり方については江戸遠江守の事しか出て来ないんです。

他もイロイロ探してみたのですが、今のところ、どれも大元の出典史料が『太平記』ばかりなんです。

今後も引き続き探してみます。

投稿: 茶々 | 2021年10月24日 (日) 03時44分

茶々様 こんばんわ

お忙しい中ご返事ありがとうございます。
知らないことの方が多くて、まだまだ勉強です。
今後もよろしくです。

投稿: 山根秀樹 | 2021年10月24日 (日) 19時48分

山根秀樹さん、こんばんは~

私も、知らない事ばかりで、常に勉強中です。
こちらこそ、よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2021年10月25日 (月) 02時36分

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