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2007年10月17日 (水)

登校拒否は当たり前!明治初めの学校事情

 

明治十年(1877年)10月17日、東京・神田華族の子弟のための教育機関華族学校が開校しました。

この学校は、開校式に臨席した明治天皇によって「学習院」と名付けられます。

・・・とは言え、この時代の学校という物は、セレブな方々がお通いあそばされる場所で、まだまだ一般庶民には馴染みのない物でした。

・・・・・・・・・

明治二年(1869年)3月23日各府県に小学校を設けることが発布され、同時に東京府に小中学校取調掛を設置5月21日には京都に上京第二十七番組小学校が設置され、日本の最初の小学校が誕生します。

その後、明治五年(1872年)には学制が定められ、近代の学校制度が始まりますが、その翌年でも就学率は約28%程度・・・男子は39.9%ありますが、女子はわずか15.1%に過ぎませんでした。

学習院が誕生する前年には、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)附属幼稚園が生まれていて、3歳・4歳・5歳の3クラスに別れ、一日4時間で夏と冬に長期休暇があるという、すでに現在の幼稚園と変わらない初等教育が行われていた事がわかります。

しかし、これも平均月収が2円に満たない頃に30銭に近い月謝がかかる・・・という事で、やはり、入園する子供たちはセレブな階層のご子息・ご令嬢だけという事になります。

そういう事で、多くの子供たちが、小学校で初めて、近代教育に出会う事になるわけですが、先ほども書きましたように、その就学率はあまり良いものではありませんでした。

もちろん、それは、「通いたくても通えない」という物です。

Bennkyousurukocc 多くの子供たちは、家事の労働力として必要とされますし、学費という経済的負担もかかりますから、子供ではなく、親が拒否するわけです。

 
明治の初めの頃は、登校拒否が当たり前。

いや、登校拒否だけでは収まらず、学校そのものに反対する親もたくさんいたのです。

当時、各地で起こっていた新政府に反対する一揆では、「学制反対!」というスローガンも掲げられていたのです。

「一揆までして反対しなくても・・・」
と、思ってしまいますが、実は、そこには近代国家樹立へと急ぐ、明治新政府のゴリ押しもあったのです。

「一日も早く近代国家へと近づけなければ」と考えた明治新政府は、全国に統一化された教育制度を導引しようと、全国を八大学区に別けて、一つの大学区に32の中学を設け、その一つ一つの中学の学区に、さらに210の小学校という計画を立てて、小学校設置を急ぎました。

おかげで、あっと言う間に、全国に2万以上の小学校が誕生しますが、もちろん、これらのすべてを国の力だけで設置できるわけもありませんから、この数には、江戸時代から続く、寺子屋なども含まれていたのです。

地方などには、それこそ、村のお寺の片隅で、住職さんが読み書きを教える・・・といった文字通りの寺子屋もあったわけで、こういった学校は私立という事になり、国が設置した小学校は公立という事になります。

先の明治五年に発布された学制では、教育費は全額、国民の負担となっていて、公立学校の月謝は、全国一律50銭に定められていました。

これに対して、寺子屋から発展した私立の学校は、近隣の人々の生活・・・という物を熟知していますから、最高額を50銭とし、親の負担能力に応じて低減する方法を採用したので、公立の小学校より私立の小学校のほうが月謝が安いという状況になります。

それこそ、公立の小学校には、かわいい坊ちゃんを「じいや」や「ねいや」が送り迎えをする・・・という光景が展開されていたのです。

そんな高額な月謝の学校に通えと言われても、そりゃ、親も反対するわけです。

それでも政府は、公立主義を押し進めたため、私立学校は徐々に減っていきます。

しかし、私立が潰れたからといって、高い学費の公立に通うわけにもいきませんから、いつまでたっても就学率が上がる事はありません。

結局この後、政府は、明治十二年(1879年)の教育令教学大旨などといった教育方針の変換をしながら、近代教育のありかたを模索する事となります。

私が小学生の頃は、まだ近所に「小学校は2日しか行ってない」なんていうお年寄りがいて、「学校サボれて、えぇなぁ」なんてアホな事を思っていましたが、さすがに大人になると「やっぱ教育って大事やね」なんて思ったりします。
 

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コメント

私事ですが、私の祖母は小学校に通えなかったために字が読めませんでした。それでも社会のことが知りたいので、毎日配達される新聞を、隅から隅まで、娘(私の叔母ですが)に読ませて、正座して聞いていたそうです。私が生まれる前になくなった人なので当然、記憶も面識もありませんが、それだけの時間を費やすのなら、文字を覚えればいいのに・・なんて無責任なこと思っていましたが、「そんなもの出来るわけがないわ」と、決してパソコンに触ろうとしない82歳の母のを見ていると、今から覚える・・・という気力がなかったのかも。
ちなみに母はテレビゲームはすぐ覚えましたが・・。

投稿: 乱読おばさん | 2007年10月17日 (水) 12時50分

2日しか行ってないウチの近所のオバちゃんは、計算は苦手でしたが、文字は普通に読み書きしてました。
今思えば、ものすごく努力されたんだと思います。
尊敬しますね~。

投稿: 茶々 | 2007年10月17日 (水) 16時39分

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