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2007年11月30日 (金)

古代日本における鏡とは~鏡の日にちなんで…

 

今日11月30日は「い(1)(1)(3)ラー(0)の語呂合わせで、『鏡の日』という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・

鏡は、姿を映す日用品、化粧道具の一つですが、その歴史や起源なんて、書く事ができないくらい神代の昔から存在する物です。

しかも、古代の日本人にとって、それは、単なる日用品ではなく、とても重要な物だったのです。

あの邪馬台国の女王・卑弥呼は、から100枚におよぶ銅鏡を受け取っています。

中国では、すでに日用品として使用されていた鏡を、卑弥呼は祭祀の道具・神宝として使用しました。

卑弥呼の場合は、ご神体として鏡を祀るのではなく、その反射する太陽光を神に見立てて、鏡に神を取り込むというような神事であったと思われます。

そんな鏡は記紀神話でも重要なアイテムとして登場します。

皆さんよくご存知の、代々の天皇がで受け継いでいく『三種の神器』

それは・・・
須佐之男命(素戔鳴尊・すさのをのみこと)が退治した八俣の大蛇(おろち)の尻尾から出てきたのを、姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上する天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・草薙の剣)

その天照大神が高天原(たかまがはら)天岩戸(あまのいわと)に隠れた時、大神を岩戸から連れ出す手段、祈るための道具として使用された八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)

そして、同じ天岩戸の時、大神の姿を映すために使用された八咫鏡(やたのかがみ)です。
やはり、ここでも神を映す道具として使用されています(7月6日参照>>)

古代の人は、鏡が放つ、その不思議な光を、霊的なパワーとして感じてとっていたのでしょう。

八咫のは長さの単位で、一咫は約18㎝だと言います。

そうすると、この八咫というのが鏡の直径、もしくは周囲の長さだとしたら、その大きさは144㎝という、直径・円周・・・いずれにしても古代の物としては、とてつもなく大きな鏡という事になります。

以前は、「当時このように大きな鏡を造る技術はなかっただであろうから、この「八咫」というのは、千里眼や千畳敷などのように、実際の長さ・大きさなのではなく、とにかく巨大だという事を表現するために「八咫」と称したのだろう・・・」と推測されていました。

しかし、昭和四十年(1965年)、九州北部の平原(ひらばる)古墳から、直径46.5㎝の鏡が出土したという例もあり、もし、八咫が周囲の長さであるなら、それくらいの大きさになるわけで、あながち、オーバーな表現とは言えないのかもしれません。

そんな八咫鏡は、第11代・垂仁天皇の時に、大和から伊勢神宮に移されて以来、誰の目にも触れる事なく保管されていて、その姿は数度の火災により、もはや原型をとどめてはいない、などと言われていますが、その入れ物の大きさは、内径一尺六寸・外径二尺『延喜式(えんぎしき)に記録されていて、それなら直径約50㎝足らず・・・まさに八咫鏡という事になりますが・・・。

記紀神話の内容や、伝承されている鏡の真偽については、未だ研究中で、そう簡単に答えを出す事のできる物ではありませんが、この、今でも皇室で行われている代々鏡(鏡だけではなく三種の神器ですが・・・)を継承するという行為・・・おそらく、これは、日本における最も古い鏡の扱い方に近いのではないか?と思います。

古代の人々は、邪馬台国の卑弥呼や、記紀神話の神々が行ったように、鏡に神の姿を映す、あるいは太陽光に反射させ、神を取り込み奉る・・・取り込んだ神は、時として、逆に鏡から生まれ、危機を救ったりするという物語も生まれます。

そして、その神秘に満ちた鏡を、大切に保管するのは、選ばれた司祭や巫女・・・神秘的な神事をつかさどる彼らが、代々受け継ぎ、次の司祭・巫女に継承していったのです。

しかし、古代の人々が代々継承していったはずの鏡が、4世紀以降の古墳からは、死者の埋葬の副葬品として、数多く発掘されるようになるのです。

副葬品という事は、生前にその人が使っていた鏡を、次の代に継承する事なく、一緒に埋葬してしまうという事になりますね。

なぜ、継承しなくなったのでしょうか?

魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の様子では、それまで乱れていた国を、卑弥呼が神秘の力で、一つにまとめたというような事が書かれています。

この先は、勝手な想像になりますが・・・

・・・という事は、4世紀のこの頃からは、シャーマン的な神秘の力で国を統治するのではなく、別の物で国を統治するようになったので、鏡を継承する必要がなくなったという状況が想像できますね?

その別の力というのは・・・そう、王の権力です。

神ではなく、王そのものがカリスマ性を持ち、その権力と、統治力で国を一つにまとめていった証しが、古墳から出土する副葬品の鏡・・・という事になるのかも知れません。

そして、権力の象徴の交代を暗示するかのように、今度は、その大きさを競う巨大古墳が出現する事になるわけです。

しかし、そうなると、最終的に支配を成し遂げたはずの天皇家にだけ、今も、鏡の継承が残っているという事になり・・・ちょっと矛盾が残り、謎は深まりますね。

Sannkakubutisinzyuukyoucc
今日のイラストは、
卑弥呼の鏡かも知れない『三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)で・・・

本当はもっと細工が細かいですが・・・緻密に再現しようと思うと「鏡の日」に間に合わなくなりそうなので・・・(^o^;)
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2007年11月29日 (木)

火縄銃・取扱説明書

 

★製品名:種子島

1、ご利用いただく前に・・・

本製品は、天文十二年(1543年)に種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人により伝えられたとされるところから『種子島』と呼ばれております(8月25日参照>>)

ご使用の前に、必ず本取扱説明書の使用上の注意をよくお読みになって、安全にご使用いただきますようお願い申し上げます。

2、各部の名称
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3、ご使用前の準備

  • 巣口(銃口)から少量の火薬を入れ、弾丸を一つお入れください。
  • 附属の(搠杖・さくじょう)を巣口から差込み、火薬と弾を奥のほうへ突き固めてください。
  • 火皿にある火蓋を開き、そこにも少量の点火用の火薬をお入れください。
  • 火縄の火を吹きおこし、火がついているのを確認して、火ばさみに挟みます。
      これで、準備が整いました。

4、ご使用方法

  • 火蓋を開きます。
  • 引き金を引きます。

本製品は、火蓋を開く事によって、火縄の火が火皿の火薬に点火し、銃の筒の中の火薬が爆発を起し、その勢いで弾が飛び出す仕組となっております。

5、ご使用後のお手入れ

  • 弾を一発討つごとにお手入れが必要です。
  • 筒の掃除をおこなった後は、すぐに火薬ごめ、弾ごめなど、二発めの準備作業を行えるよう心がけてください。

6、禁止事項
Hinawazyuukeikokucc_2
死亡または重症に至る可能性もありますので、禁止事項をお守りください。

  • 人に向けて発砲してはいけません。
  • 水に濡れると、ご使用できないばかりか、故障の原因にもなりますので、雨の日や、浴室などでのご使用はお避けください。
  • 改造したり、分解したりしないでください。
  • 幼児の手の届く所に保管しないでください。
  • 本品は食べられません!
  • 現代での所持には法的な手続きが必要です。

7、別売り商品のご紹介

Hinawazyuukomonocc火縄には、木綿製竹製の2種類がございます。

玉袋は、携帯に便利な「小」から、たくさんの弾を持ち歩ける「大」まで、豊富な種類の中からお選びいただけます。

火薬入れは、筒用点火用の2種類をご用意いただく事をお奨めしております。

これら、ゴチャゴチャしがちな小物類が、すべて収められるようになっている胴乱は、おしゃれなあなたにぴったり。

なお、他社製の火縄・火薬・弾をご使用になった場合の互換性・動作確認は当社では行っておりませんので、動作の内容についての保証は致しかねます。

Nagasinonokassennzuteppoucc 8、ご使用例

当社の製品は、すでに天正三年(1575年)、愛知県にお住まいの織田信長様(当時:41歳)にご使用いただき、大変ご好評を戴いております(5月21日参照>>)
*ご使用後の感想は個人の感想です

9、「故障かな?」と思ったら

  • 火皿に点火用火薬が入っているかご確認ください。
  • 火薬がしっかり筒の奥までつまっているかご確認ください。
  • 火縄が火口の中の火薬に引火できる状態の位置にあるかどうかをご確認ください。

10、このような時は故障ではありません

  • 一発撃っただけで、部品の一部が外れてしまう。
  • 照準が定まらない。

11、それでも症状が改善されなかったら

  • お問い合わせ窓口:(*1)

*1:本製品はすでに製造中止となっておりますので、修理及び各部品・別売り商品の販売等、すべてのサポートを終了させていただいております。

・・・・・・・・

以上、今日は、取説風に書いてみましたが、広いお心でお許しを・・・。

「鉄砲伝来は種子島じゃない?」というお話と、太平の世となった江戸時代の鉄砲の行方については、2009年8月25日【鉄砲伝来~異説とその後】へどうぞ>>
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2007年11月28日 (水)

親鸞聖人のご命日~本願寺門徒は一向宗じゃない?

 

弘長二年(1262年)11月28日は、浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)聖人のご命日です

・・・・・・・・・・

浄土真宗は、言わずと知れた日本最大の伝統仏教教団です。

超有名な親鸞さんですから、私などが言うまでもなく、その偉業をご存知のかたも、多々おられましょうが、一応サラッと、その生涯を書かせていただきますと・・・

親鸞は、承安三年(1173年)に貴族・日野有範(ありのり)の子として生まれますが、4歳で父を、7歳で母を亡くし、9歳の時に伯父の縁で出家し比叡山に入ります。

そこで、当然、修行に励むわけですが、29歳の時にどうも納得がいかず、比叡山を下りて、京都・烏丸六角堂(頂法寺)に籠って、救世観音に祈願をします。

そして、満願の5日前の夜、夢の中で観音様のお告げを受け、日が昇るとともに、東山にて、ただひたすら念仏を説く法然(ほうねん)のもとに向かうのです。

法然のもとに百日間通い続けた後、法然の弟子になります。

しかし、その後、旧仏教派から弾圧を受け、還俗(僧をやめて一般人に戻ること)させられ、越後(新潟県)へ流されてしまいます。

許されたのは、4年後・・・

越後の地で、奥さんという強い味方を得た親鸞は、常陸(茨城県)に住み、60歳までの20年間、関東を中心に布教活動を続けました。

その間、布教のかたわら執筆していた『教行信証(きょうぎょうしんしょう)が、元仁元年(1224年)親鸞52歳の時に完成します。

この年が、浄土真宗・開宗の年とされています。

60歳で京都に戻った親鸞は、90歳という長寿をまっとうし、弘長二年(1262年)11月28日に亡くなるのです。

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京都東山にある大谷祖廟

親鸞が亡くなった後は、東山大谷に立てられた廟堂を、娘の覚信尼(かくしんに)が守り、その孫の覚如(かくにょ)の代に、その廟堂に本願寺』という寺号をつけて独立しました。

この本願寺が8代目・蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)によって飛躍的な発展を遂げ、一大宗教団体となります。

そして、ご存知のように、11代・顕如(けんにょ)の時に、織田信長との交戦です(7月13日参照>>)

信長に石山本願寺を明け渡した(8月2日参照>>)父・顕如と、最後まで抵抗した長男・教如(きょうにょ)の間に溝ができる中、顕如の後を次男・准如(じゅんにょ)が継ぎます。

その准如に、豊臣秀吉焼失した石山本願寺の代わりにと、京都・七条堀川に寺地を寄進し本願寺となります。

しかし、秀吉の後に天下を取った徳川家康が、今度は教如に対して京都・六条烏丸に寺地を寄進・・・こちらが大谷派・東本願寺となり、先の准如の系統が本願寺派・西本願寺という風に分かれました(1月19日参照>>)

ところで、親鸞と言えばその有名なお言葉がありますよね。
『善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』
これは・・・
「仏を信じれば善人でも極楽に行けるのだから、善人よりもはるかに悩んで仏を信じた悪人はもっとたやすく極楽にいけますよ」
みたいな意味です。(たぶん、もっと奥が深いと思うが・・・)

これは、おそらく教科書にも親鸞の言葉として載っていたと思うのですが・・・どうやら親鸞の言葉ではないかも知れないのです。

・・・て、いうか、近親者は誰も、親鸞の言葉だとは言っていないのです。

この言葉が書いてある一番有名なものは、弟子の唯円(ゆいえん)が書いた『歎異抄(たんにしょう)というもので、これは、親鸞の没後三十年ほど経ってから、その教えが間違って伝わってはいけないと、「親鸞聖人のお言葉を書きとめた」と言われるもの。

ですから、その書き方は・・・『○○○・・・云々』で終る文章で、今の言い方で言えば、『親鸞聖人が「○○○・・・」と言いました』みたいな形式で書かれています。

ところが、この「・・・悪人をや」の部分は・・・『○○○・・・と、おほせさふらき』・・・つまり『「○○○・・・と、おっしゃいました』となります。

同じ人が、話した言葉なら、「云々」「おほせさふらき」と使い分ける必要はないわけですから、この歎異抄の中に書かれている言葉のほとんどが親鸞上人の言葉なら、ここだけが別人・・・しかも、親鸞が敬語を使う人が言った言葉という事になります。

親鸞さんが、敬語を使う相手はただ一人・・・法然という事になります。

そして、法然の弟子・源智(げんち)が書いた法然の伝記にも、法然が言った言葉として、「・・・悪人をや」が出てきます。

さらに、親鸞の孫・如信(にょしん)が、親鸞が「黒谷の先徳(法然のこと)が仰せになった」と言ったと『口伝抄(くでんしょう)という書物に書いているそうですから、やっぱり、そうなんでしょう。

きっと、誰かが、どこかで、ちょっと違えてしまったんでしょうね。

間違えたと言えば、もう一つ。

実は、このブログでも、散々『一向一揆』『一向一揆』と書かせていただいていますが、実は、これも違うなのです。

ただ、今では、通常、本願寺門徒の一揆の事を『一向一揆』と呼ぶので(それこそ教科書にも書いていますので・・・)、いちいち事情を説明するのもアレなので、通常通り書かせていただいてますが・・・。

もともと、一向宗というのは、鎌倉時代時宗(じしゅう)を開いた一遍(いっぺん)(8月23日参照>>)の弟子・一向(いっこう)の一派の事を一向宗と呼んでいたのです。

時宗自体が、「踊念仏」で有名な浄土教の一派だったために、その時宗の一派だった一向宗が、いつの間にか浄土真宗と混同されてしまい、戦国時代には本願寺派を一向宗と呼ぶようになってしまっていたのです

きっと、誰かが、どこかで、ちょっと違えてしまったんでしょうね。

ですから、蓮如さんなんかは、「自他ともに一向宗と号するは誤りなり」とはっきり言ってます。

・・・で、江戸中期になって、やっと「一向宗ではなく浄土真宗である」という事を公式に認めてもらおうと幕府に届け出るのですが、残念ながら、この時は浄土宗から、「浄土真宗なんてまぎらわしい名前つけんな!!」と、反対され、あえなく撃沈。

明治五年(1872年)に、やっとこさ、「浄土真宗」という名前を公式に認めてもらえる事になったそうです。

明治とは・・・長い道のりでしたね。
そりゃ、名前間違われたら、蓮如さんも怒りまっせ。
「一向(IKKO)と間違えるなんて、どんだけぇ~!」
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2007年11月27日 (火)

江戸で豪遊~吉原の花魁遊びはいくら?

 

今日は、チョコッとくだけたお話を・・・

江戸時代も半ばになって太平の世が続くと、人の心にも余裕という物が出てきます。
余裕が出てくると、若者が遊びに恋に・・・と奔走するのは、いつの時代も同じ・・・。

以前も、江戸時代に大流行した恋グスリ=媚薬のお話(5月1日参照>>)をさせていただきましたが、今日は、いわゆる女遊び=吉原のお話をさせていただきます。

・・・・・・・

時代劇のそういった場面でよく耳にするのは、『吉原』『岡場所』という物ですよね。

岡場所の「岡」は、両思いの恋人同士に横からチョッカイを出す横恋慕の事を「岡惚れ」と言うように、「横」とか「隣」なんて意味がありまして、要するに島原のお客を、横っちょから引っ張る・・・あるいは、おこぼれに預かってる、みたいな感じで岡場所と呼ばれました。

ちなみに、元和三年(1617年)3月に江戸初の遊郭ができた場所が日本橋葭町(現在の人形町)で、当時は一面に葦(あし・よし)の茂る原っぱだった事から遊郭の名を「葭原(よしわら)称して開業したのが、後に、遊郭が建ち並ぶその場所を「吉原」と呼ぶようになったのだとか・・・その後、明歴二年(1656年)12月に江戸幕府の命により浅草千束へ移転しています(12月24日参照>>)

ちなみのちなみに、江戸幕府が公認した遊郭は、
江戸吉原
大坂新町
京都島原
の3ヶ所です。

それぞれ三名妓と呼ばれる代表格は、
吉原高尾大夫(2月19日参照>>)
新町夕霧大夫(1月7日参照>>)
島原吉野大夫
でした。

とは言え、上記の彼女たちは、最高級の遊女屋にいる最高級の女性たち・・・とてもとても、一般庶民は手が出ません。

大体、想像つきますが幕府公認の遊郭というのはメッチャ高級なところ、客のほとんどは大名や旗本などで、中級の武士でさえ、殿様のお供として、たまのラッキーが訪れるだけ・・・。

武士と言えども下っ端なら、約3年分の給料が飛んでしまうくらいの費用がかかるのですから、下級武士や一般庶民は岡場所へ・・・という事です。

ただ、そんな大名・旗本の吉原通いも、明暦の大火(1月18日参照>>)をさかいに一変します。

大火の復興のための、材木商やら職人やら何やら・・・とにかく、元禄の頃には、金回りの良い町人がはばをきかすようになります。

あの紀伊国屋文左衛門(2月9日参照>>)が、お座敷で小判をバラまいて・・・っていうのもこの頃です。

「火事と喧嘩は江戸の華」と、いうくらいですから、火事のたんびに町人は儲かり、逆に武士は天下泰平で出る幕なし・・・ますます、吉原は町人の天下となっていくのです。

ただ、町民の天下となった吉原にも、定期的に通う武士が一部だけいました。
やっぱ大名?旗本?・・・いえいえ、各藩の留守居役という人々です。

留守居役というのは、地方の藩と、江戸の幕府を橋渡しする大事なお役目

幕府からいきなり、「○○藩が、どこどこに橋を架けろ」なんて言われでもしたら、この財政難に、藩の存亡に関わってきますから、幕府のお役人のご機嫌取りに・・・つまり、アレのアレ・・・毎週、奥さん連れでゴルフして焼肉食べて、娘の留学費も出してもらっちゃってるアレです。

もう、「人は成長しないのか!」って感じですね~。

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江戸八景・吉原の夜雨(国立国会図書館蔵)

ところで、そんな高級な吉原の遊びはどんな風だったのでしょうか?

時代劇で目にする『花魁(おいらん)道中』・・・。

あんな美人とめくるめく一夜を過ごすには、いくらかかるんでしょう?どうしたらいいんでしょう?

・・・て、事で、まずは、吉原の大門を入った所にある『引手茶屋』に向かいます。

ここは、その名の通り、花魁を手引きしてくれる場所で、ここを通らないと花魁には会えません。

もちろん、茶屋ですから、すでに、ここに、一組三人の芸者さんが待機・・・店の主人も含め、一人に最低一分のチップが必要です。

ものすご~いい大まかな計算ですが、大体の価値として・・・一両が10万円くらいかな?・・・で、四分で一両だから・・・一人2万5千円?。

ここで、ひとしきり騒ぎますが、もちろん酒代・遊興費は別で、大体一回の大騒ぎで六~七両は飛びます。

すると、茶屋から連絡を受けた花魁が、番頭や禿(かぶろ・花魁の世話をする女の子)を連れて、お客を茶屋に迎えに来るのです。

ちなみに、この迎えに来る道のりが『花魁道中』です。

そして、花魁を迎えて、もう一回、茶屋でドンチャン騒ぎで、もちろん騒ぎ代は、またまた本人もち。

ひとしきり騒いだら、花魁と一緒に、今度は遊女屋へ移動します。

ただし、この時、花魁の連れてきた男衆や禿だけでなく、茶屋の主人やおかみ・女中なども、ぞろぞろと30人ほど一緒について来ます。

遊女屋に到着したところで、全員にチップを・・・さっきの計算でいくと、七~八両ってとこですね~。

遊女屋で、座敷に通されて、花魁と、ごた~いめ~ん!

「やっと思いが~!」と思いきや、花魁とはちょこっと盃をかわすだけで、とりまきたちとのドンチャン騒ぎが始まり、またもや遊興費は本人持ち。

しかも、「初会」はこれで終わり。(見ただけかい!)

・・・で、次ぎが「裏」と呼ばれる2回目のご対面。

これも初回と、まったく同じ事をやって終わり・・・ただし、花魁の衣装がちょっと「馴染み」のお客用の色っぽいのに変わるらしい。(またもや、見ただけかい!)

そして、3回目が、いよいよ、その「馴染み」となるのですが、さすがに馴染み客となれば、お茶屋には、お客専用のお箸が用意され、とりあえず特別扱いのドンチャン騒ぎ

それが終れば、やっとお布団の敷いてある部屋に案内されます。
ただし、今回は特別なだけあって、チップも特別です。

最後の最後に、とりまきだけでなく、遊女屋全体の人数分のチップと三両の「馴染み金」というのを支払います。

ザ~ッと計算すると・・・370万×3回+馴染み金30万で・・・1140万円!?

しかも、店全体の従業員数か未知数なので、もう、スゴイ事に・・・。

もちろん、これは吉原でも最高級の遊びです。

高級を売りにしている吉原でも、さすがに、これだけではやっていけませんから、最高級の「大見世」というお店以外にも、もう少し軽い「中見世」「小見世」というお店もありました。

大見世の場合でも、花魁道中をパスしたりできるシステムもあり、中見世や小見世なら、お茶屋を通さずにできるシステムもあったとか・・・。

女から見れば「そうまでして致したいか?」と言いたくなりますが、考えてみれば、ほとんど見栄というか、優越感を味わいたいとかっていう事でしょうね。
まぁ、「いきなり」ではそっけないですからね~。

ま・・・いつの世も、ウチら庶民には、「そんなの関係な~い」って感じですが・・・。
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2007年11月26日 (月)

肥前の熊・龍造寺隆信の人生波乱万丈

 

天正七年(1579年)11月26日、肥前の熊と呼ばれた龍造寺隆信が、筑紫・肥後北部の平定を完了しました

・・・という事で、今日は、ひょっとして、このブログで初登場?の隆信さんが、とても波乱万丈の人生をおくっていらっしゃいますので、個々の合戦などは、おいおい書かせていただく事にして、まずは、その波乱万丈の人生をご紹介したいと思います。

・・・・・・・・・・・

Ryuzojitakanobucc 豊後(大分県)大友宗麟薩摩(鹿児島県)島津義久とともに「九州三強の一角」と言われた備前(佐賀・長崎県)龍造寺隆信さん。

享禄二年(1529年)に龍造寺周家(ちかいえ)長男として生まれますが、7歳の時に龍造寺家ゆかりの宝琳寺で出家し、大叔父・豪覚に預けられます。

その頃から、僧侶とは思えない大胆さ、豪快さを持った人だったという事ですが、彼の血筋は、龍造寺家では、あくまで分家にあたる血筋で、このまま行けば僧侶としての道を全うしていたのかも知れませんが、彼が17歳の天文十四年(1545年)1月23日・・・一大事件が起こってしまいます。

主君にあたる少弐資元(しょうにすけもと)大内義隆から攻撃を受けた時、救援しなかった事で、謀反の疑いがかけられ、少弐氏の重臣・馬場頼周(よりちか)に、祖父家純周家叔父頼純など、龍造寺家の主だった人々が、皆、騙まし討ちされてしまったのです(1月23日参照>>)

ただ一人生き残った曽祖父・家兼が、報復しようとしますが、家兼はすでに90歳を過ぎたおじいちゃん・・・結局、翌年の春に亡くなってしまうのです。

しかし、その家兼が遺言を残したのです。

「中納言(隆信の事)には素質がある。この龍造寺家を建て直す者は中納言しかいない。還俗(げんぞく=僧侶から一般人に戻る事)させろ。」と・・・。

彼は曽祖父の遺言通りに僧侶をやめ、まずは胤信(たねのぶ)と名乗り、本家龍造寺胤栄(たねみつ)とともに、龍造寺家のために奔走します。

やがて、胤栄が亡くなると、その奥さんを妻とし、本家・龍造寺家を継ぎ、晴れて正々堂々と大内義隆と手を結び、義隆の隆を貰って、名前を隆信と改めます。
(やっぱ大内と関係あったんやん!)

そして、永禄二年(1559年)1月11日には、かつての主君であった少弐氏の少弐時尚(ときひさ・冬尚とも)晴気城(佐賀県)に攻めて、城主・千葉胤頼(たねより)を討ち、時尚自身をも自害に追い込み、名門・少弐氏を滅亡へと追いやるのです(1月11日参照>>)

そんな、ノリノリの隆信さんにも、ピンチの時はありました。

それが、元亀元年(1570年)・・・当時、九州最強だった大友宗麟に佐賀城を攻められた時。

しかし、この時は、従兄弟の鍋島直茂の働きによって危機を脱しました(8月20日参照>>)

そして、いよいよ、最高潮の天正七年(1579年)11月26日・・・筑紫・肥後北部の平定です。

その頃の彼の豪快ぶりが垣間見えるエピソードが残っています。

まさに、上り調子の隆信に恐れをなした大友配下の戸次鑑連(へつぎあきつら)が和睦を申し入れ、その和議が成立した後、「お祝いに」と、太刀や馬・酒などの贈り物を持った使者がやって来た時の事

普通、この戦国の世では、酒などの飲食物は毒が入っている可能性もあり、飲まないのが常識とされていましたが、隆信は使者の目の前で、茶碗三杯の酒を率先して飲み干し「名将・鑑連が、そのような姑息なマネはしない!」と言いながら、盃を使者に投げたと言います。
度胸のすわった人ですね~。

しかし、そんな隆信さん。
家督を嫡男の政家に譲って、隠居生活に入ってからおかしくなってきます。

そのお酒に溺れてしまうのです。

波乱万丈の人生を送った人が、ふと、引退すると、そうなってしまうモンなんですかねぇ。

だんだん、おかしな状態になって来ると、当然、家臣の離反・・・という事も起きてします。

そんな中で、隆信は、娘婿の小田鎮光(しげみつ)が、大友氏に寝返ったのを知ると、「婿なので、悪いようにはしないから、一度話し合おう」という手紙を娘に書かせ、酒宴の席に誘っておいて騙まし討ちするという姑息な手段を使ったり、幼い人質をはりつけにして殺害するという残忍な行為に走ったりするようになり、家臣の心はますます離れていきます。

やがて、太り過ぎて、馬にも乗れなくなった隆信に決定打が襲いかかります。

家臣・有馬晴信離反し、島津と手を結んだのです。

これには、周囲も動揺します。

「許すか!」とばかりに隆信は、5万という大軍を率いて晴信を攻撃・・・天正十二年(1584年)3月24日に起こった『沖田畷の合戦』です(3月24日参照>>)

しかし、この時も、自分は太り過ぎて動けないのに、兵には無謀な突進のみを命令するという、現役の頃と比べると、まるで別人・・・以前の面影まったく無しの采配ぶりだったと言います。

結局、彼はこの合戦で命を落とす事になります。

有馬と連合を組んでいた島津方によって討ち取られた隆信の首は、その後、龍造寺家に返される事になりますが、なんと、龍造寺家は受け取りを拒否!

しかたなく、国境の願行寺というお寺に葬られます。

龍造寺家にとって『不運のドクロに用は無い』・・・のだそうです。

若き頃、曽祖父の兼家は、彼の中に、人並み外れた大器を見たはずです。

隆信に会った事のある宣教師は、彼の事を「シーザーのような人物である」と書き残しています。

『肥前の熊』の異名を持つ龍造寺隆信・・・家全体のギクシャク感を残す事になった晩年の彼の行動は、その後、龍造寺家そのものをも没落させてしまう事になります。

残念ですね~最後まで勇猛な隆信さんを見てみたかったです~。
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2007年11月25日 (日)

秀吉の九州征伐開始~戸次川の合戦

 

天正十四年(1586年)11月25日、いよいよ九州を制圧しようと動き出した羽柴秀吉の軍と、それを阻止しようと踏ん張る島津家久が、鶴賀城近くの戸次川で繰り広げた戦い『戸次川の合戦』が勃発しました

・・・・・・・・・

一時は、九州に一大キリシタン王国を造る(8月12日参照>>)までの勢力を誇った豊後(大分県)大友宗麟・・・

しかし、天正六年(1578年)に、日向(宮崎県)島津と戦った『耳川の合戦』(11月12日参照>>)で大敗を喫してしまい、それ以来、坂道を転げ落ちるように勢力を弱めていきます。

逆に、島津は、九州全土を手中に収めんがの勢いで北上し、天正十二年(1584年)には『沖田畷の合戦』(3月24日参照>>)肥後(熊本県)龍造寺氏を破ります。

島津氏の勢いに脅威を感じた宗麟は、天正十四年(1586年)4月6日、大坂へおもむき、ちょうど前年に四国征伐と紀州征伐を果たし、まさに天下を狙う勢い羽柴(豊臣)秀吉大友氏への救援を願い出ます。

しかし、その年の7月には、大友配下の高橋紹運が守る筑前(福岡県)岩屋城が、戦国屈指の激戦の末、島津方の手に落ちてしまいます(7月27日参照>>)

もう、大友氏には後がありませんし、天下統一をもくろむ秀吉にとっても、宗麟の救援要請は渡りに船です。

なんせ、これで、大友氏の救援を大義名分に、心おきなく九州征伐(VS島津)を開始できる事になりますからね。

秀吉は、早速、昨年制圧したばかりの土佐(高知県)長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)をはじめとする四国勢・・・讃岐(香川県)仙石(せんごく)秀久阿波(徳島県)十河存保(そごうながやす)らで構成した5千の兵を、九州に派遣します。

かくして天正十四年(1586年)11月25日、彼ら秀吉配下の四国勢は、島津家久率いる島津勢と決戦すべく、鶴賀城(大分県)近くで戦闘準備に入ります。

しかし、開戦を目前にして、すでに島津方の手に落ちている鶴賀城の救援か城外戦か、あるいは短期戦か長期戦かの合戦方法をめぐって、三人の大将がぶつかってしまうのです。

それぞれの功名争い、思惑をめぐって足並みが乱れる四国勢・・・。

・・・というのも、四国連合軍であるこの時の軍勢・・・秀久・元親・存保の三人の中で、秀久が「軍監(ぐんかん)という役職に任命されていました。

軍監とは、読んで字のごとく「軍を監督する役割」・・・

総大将ではないので、合戦の方法や作戦などは軍儀で話し合って決めるのですが、戦いの中で、誰がどんな働きをしたか?とか、皆が、ちゃんと規律を守っているか?などのチェックをする役なのです。

今回の場合は、はっきり言って、元親の監視です。

先ほども書きましたように、元親はわずか一年前の四国征伐(7月25日参照>>)の時に降伏したばかり。

その時に、秀吉に阿波・讃岐・伊予の三国を没収されて、土佐一国に押し込められたわけで、秀吉自身が元親を100%信じきってないのが丸出しですから・・・。

そんな状況で、連合軍もあったモンじゃありません。
モメて当然です。

結局、秀久が、元親・存保の意見を押さえ込んで、まずは、鶴賀城を奪回を短期戦で決行する作戦が決定し、この日、彼らは、近くの戸次(へつぎ)の河畔に陣を敷きました。

かたや、秀吉配下の四国勢の到着を、かの鶴賀城内知った島津家久・・・早速、城を捨て、撤退の準備に入ります。

翌月の12月12日夜・・・密かに鶴賀城を出て戸次川を渡り、撤退を開始する島津勢

戸次川畔で布陣する仙石隊が、それを見逃すはずはありません。

すぐに川を渡って、島津勢を追う仙石隊・・・しかし、これは島津の陽動作戦だったのです。

深追いした仙石隊を、上流と下流に潜んでいた島津の伏兵が登場し、三方向から猛攻撃を仕掛けます。

島津の陽動作戦に完全に分断されてしまう四国勢・・・

長宗我部隊は、元親と息子・信親も分断され、激戦の中、信親は討死してしまいます。

あの四国一帯にその名を轟かせた長宗我部元親も、息子の死にはかなりの動揺ぶり、この合戦の後は、猛将の名が揺らぐほどの変わりようであったと言います。

十河隊に至っては、大将・存保自身までもが戦死してしまいます。

大将同士の不和に連携ミス、そこを突いて、うまく誘った家久の用意周到な作戦・・・この戦いは秀吉の完敗となってしまいました。

何とか、命からがら逃げ帰った秀久も、その責任が問われ改易・・・領地を没収されてしまいます。

この失態を目の当たりにした秀吉・・・しかしながら、もちろん、このまま九州征伐を諦めるわけは、ありません。

いや、むしろ本腰を入れました。

翌・天正十五年(1586年)3月・・・今度は、自らが大将となり、弟・豊臣秀長とともに出陣・・・20万という大軍を率いて、島津と相対する事になるのですが、そのお話は、4月17日【高城・根白坂の戦い】でどうぞ>>

Simaduhetugigawacc
今日のイラストは、
見事な作戦で勝利した島津家久さんに敬意を表して『戸次川になびく島津の旗指物』で・・・。

本当は敬意を表して家久さんの、ドアップといきたかったんですが、ご本人の甲冑のデザインがわからず断念・・・てゆーか、戸次川の戦い自体が、けっこうネット上ではスルー気味。

戦いに勝利しただけでなく、敵の大将と大将の息子を討ち取る・・・というのは、かなりの功名だと思うのですが・・・なして?
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2007年11月24日 (土)

独眼竜・政宗ピンチ!葛西・大崎一揆

 

天正十八年(1590年)11月24日、豊臣秀吉が行った奥州征伐に反発して10月頃から勃発していた葛西・大崎一揆で、一揆勢に包囲され、籠城・孤立状態になっていた佐沼城の木村吉清・清久親子が救出されました

・・・・・・・・・

天正十八年(1590年)の3月の終わりから、後北条氏の籠る小田原城を攻めた天下取り目前の豊臣秀吉は、その間、まだ、秀吉の傘下におさまっていない東北の諸将に、小田原攻めに参戦するよう呼びかけていました。

やがて、3ヶ月に渡る戦の末、7月5日に小田原城が開城(7月5日参照>>)された後、北条氏政が自刃、息子・氏直高野山へ入り(11月4日参照>>)、事実上、後北条氏は滅亡します。

秀吉は、すぐさまその足で、奥州征伐に取りかかりました。

それは、秀吉の呼びかけに答えて、すぐさま小田原攻めに参戦した者を優遇し、参戦しなかった者に処罰を与える・・・というもの。

この秀吉の征伐で、大崎義隆・葛西晴信・石川昭光・白河義親所領が没収され、大崎・葛西の領地は、秀吉の側近の木村吉清・清久親子に与えられ、石川・白河の領地と、参戦に遅れた伊達政宗の領地の一部が蒲生氏郷(うじさと)に与えられます。

そんな中、10月に入って勃発したのが、大崎と葛西の旧家臣を中心とした農民たちの一揆です。

農民と言っても、東北の場合は半武半農的な農民が多く、彼らは、大崎・葛西が南北朝以前から続く名門の流れを汲む家系である事にもプライドを持っていました(葛西氏については9月3日参照>>)

さらに、義隆・晴信に代わって大崎・葛西の地を与えられた木村吉清は、城詰め事務職からの大抜擢で、統領に関してはまったくの素人。

秀吉に習って、新たな領地にて、領民に対しては検地や刀狩を断行しますが、逆に、自分の家臣に対しては統率が取れず、家臣たちによる領民への略奪行為や乱暴狼藉が多発していたのです。

そんな木村親子の失政に不満を抱いて発起した一揆の民衆は、またたく間に木村親子の居城・佐沼城(宮城県)を包囲します。

一揆の猛威は、さらに大崎・葛西の旧領地全土に広がり、木村親子は佐沼城に籠城・・・という形になり、まったくの孤立状態となってしまいます。

佐沼城・危機の知らせを聞いた秀吉は、早速、出羽米沢城(山形県)の伊達政宗と、陸奥黒川城(福島県)の蒲生氏郷を、佐沼城の救援へと向かわせます。

しかし、ここで、派遣された二人の大将は分裂してしまうのです。

分裂しながらも、何とか一揆勢の隙間をぬって、天正十八年(1590年)11月24日木村親子は佐沼城から救出され、名生(みょう)(宮城県)に保護されます。

二人の大将の分裂の原因は、氏郷の疑心暗鬼・・・というのも、氏郷は、この一揆の黒幕は政宗ではないか?と、最初から疑っていたのです。

それもそうです。
奥州の覇王と呼ばれた政宗・・・その所有する広大な領地と、小田原城包囲中の秀吉に死を覚悟して面会したおかげで、大崎や葛西のようにすべての領地を奪われる事は無かったものの、かなりの領地を没収され、それが、今ともに一揆鎮圧に派遣されている氏郷の物になっているわけですから、どちらかと言うと政宗は、大崎・葛西側の立場に立っていてもおかしくはないわけです。

北条を倒したとは言え、秀吉の地盤も、今は、まだまだビミョー・・・東北の独眼竜が立てば九州の島津も、動かないとは限りません。

そうなると天下はどう転ぶのか?

たとえ、そこまでいかなくても、このまま木村親子や氏郷が一揆鎮圧に失敗した後に、おもむろに政宗が登場し、領地回復や家名再興を餌に、大崎と葛西をうまく丸め込んで講和に持ち込んで、東北の諸将に恩を売っておけば、それをきっかけに東北全土を手中にする事も不可能ではないかも知れません。

この一揆は、どう転んでも政宗に損は無いのです。

政宗が秀吉の命を受けて一揆鎮圧に向かうのはポーズなのではないのか?と、氏郷でなくても疑いたくなるのは当然の事です。

どうしても、疑いが拭えきれない氏郷は、木村親子救出から4日たった11月28日、政宗と起請文を交わし、裏切る事なく、ともに協力して一揆の鎮圧に当たる事を確認するのです。

しかし、やがて、京の町では、「一揆衆の籠る城には、伊達家の旗がひるがえっている」なんていう噂まで流れ始めます。

そんな時、氏郷は、疑惑を打ち払う決定的証拠を手に入れてしまうのです。

それは、一揆軍に宛てた政宗自筆の密書・・・内容は『檄励文』です。

しかも、ご丁寧に、その密書には、政宗の鶺鴒(せきれい)の花押(本人を証明するサイン)が、これでもか!と言わんばかりにバッチリと・・・。

疑惑が確信に変わった氏郷は、すぐさま京都にいる秀吉に、その事実を報告します。

政宗・逆心の報を受け取った秀吉は、当然、大激怒!
すぐに政宗を呼び出します。

明けて天正十九年(1591年)1月、政宗は秀吉に会うため、京都に向かいます。

小田原攻めの参戦が遅れた時でさえ、死を覚悟して秀吉に会いに行った政宗・・・今度こそ、絶体絶命です。

さぁ、どうする?政宗さん。

・・・と、言いたいところですが、ご存知のように歴史的事実として、ここで政宗は死にません。

お得意の見事なパフォーマンスで、絶体絶命のピンチをきり抜ける事になるのですが、そのお話は、政宗が秀吉に謁見するその日2月4日のページでどうぞ>>
 

Datemasamunesekireinokaoucc ・・・で、今日は、イラストとは言えませんが、その政宗さんの『鶺鴒の花押』を・・・

花押とは、「その書状は本人の物である」というサインですから、マネがし難いデザインとなってますので、あくまで、どんな感じかわかるよう、参照する意味で、マネて書いてみました~。

鶺鴒とは、スズメ科の鳥。
左側に政宗の文字、右側に鶺鴒がデザインされているのがわかりますでしょうか?

この『鶺鴒の花押』のお話は、有名な逸話なので、ご存知のかたも多いでしょうが、最大のピンチを切り抜ける政宗さん・・・実は、その時、この花押が重要な役割を果たすんで、そのデザインを認識しておいていただきたく、今日書かせていただきました~
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2007年11月23日 (金)

今夜は丹波の里に雪が降る~弘法大師の伝説

 

今日は、弘法大師にまつわる、京都・丹波地方に伝わる昔話です。

・・・・・・・・・・

昔、昔のある冬の夜(実は11月23日です)
山奥の谷にひとりのお坊さんがやってきました。

どうやら、各地を巡礼中のお坊さんのようですが、身にまとっている法衣はボロボロ、顔は痩せこけ、その姿は枯れ木が立っているようでした。

お坊さんは、一軒のお百姓の家の戸口に立つと・・・
「すまぬが、今夜、一晩、泊めてはもらえないだろうか?」と尋ねます。

チョコっと戸口を開けて、外の様子をうかがったその家の婆さまは、
「なんや!きたない坊さんやな。そんな坊さんに用はあれへん!さっさと、どっか行け!」
と、つれない返事をして、ピシャッと戸を閉めてしまいました。

お坊さんは、しかたなく、トボトボと山道を歩き、少し離れたもう一軒のお百姓の家の戸口に立つと、もう一度・・・
「すまぬが、今夜、一晩、泊めてはもらえないだろうか?」と尋ねました。

さっきの家よりは、はるかに貧しそうなたたずまいの家・・・出てきた婆さまも、足がすりこぎのように細い・・・

しかし、その婆さまは、
「お~お、この冬空・・・寒かったやろうに、はよ、あがってぬくもりなはれ。
うちは、ご覧のとおり、貧乏やさかいに、なんも、おもてなしはできひんけれども、どうぞ、どうぞ。」

と、快く中に入れてくれました。

でも、婆さまは困りました。
痩せこけたお坊さんが気の毒で、何か食べさせてあげたいけれど、婆さまの家はこの村一番の貧乏。

米びつの中を覗き込みますが、そんなもの、とっくの昔に空っぽになったままです。
この冬の最中では、野菜の一つもありません。

困った婆さまは、悩みに悩んだあげく、悪い事とは知りながら、そっと抜け出して、隣の畔から、一人分の稲を拝借して、あわてて家に戻ります。

手早く、もみを草履でこすって、お米を炊いて、そのお坊さんに食べさせました。
ここ何日も食べていなかったお坊さんは、「うまい、うまい」と喜び、冷え切っていた体は、しんから温まりました。

しかし、実は、稲を盗んだ婆さまの足跡が、隣からこの家まで、しっかりとついていたのです。

真っ暗な夜だったので、婆さまは、その事に気づいていません。
明日、朝になったら、稲を盗んだ事がバレて、こっぴどく叱られるに違いありませんでした。

次の日の早朝、お坊さんが旅立つ時、婆さまが見送りがてら、戸口を開けると、まぶしいくらいの光が差し込んできて、思わず目がくらみました。

外は、真っ白な雪景色だったのです。
一夜の間に、とてつもない雪が降り、あたりの様子はすっかり変わっていました。

お坊さんは、婆さまに礼を言うと、山向うへと旅立って行きました。
その後姿を、見送る婆さま・・・真新しい雪の上には、お坊さんの足跡だけがくっきりと残ります。

そう、婆さまの昨日の足跡は、すっかり雪の下に埋もれ、もう、誰にも見られる事はありません。

そのきたないお坊さんは、修行中の空海=弘法大師だったのです。

それで、この丹波の地方では、霜月(11月)の23日になると、必ず雪が降ると言います。
「ほら、今年もお大師さんが、来やはった・・・」

・‥…━━━☆

この昔話は『あと隠しの雪』という題名で、「まんが日本昔話」でもやっていたので、丹波だけではなく、他の地方にも伝わっている全国ネットの民話なのかも知れませんが・・・。

それにしても、以前もどこかのページで書かせていただきましたが、この空海平家の落武者「いったい何人いるんだ?」と突っ込みたくなるくらい、どこへ行っても、何かしらの伝説が伝わっていますよね。

平家の落武者は、ある程度の多人数ですから、ひょっとしたらアリかも知れませんが、空海は一人ですからね~。

これは、やはり彼の人生の前半と後半のギャップによる物ではないかと思います。

弘法大師・空海は讃岐(香川県)で生まれ、18歳の時に上京して儒教道教仏教を学びますが、勉学に飽き足らず山野を遍歴しながら修行に励みます。

つまり、その頃は、この昔話のお坊さんのような巡礼の旅をしていたわけで、本人にとっては、それは有意義な修行ですが、無関係の人から見れば放浪生活ですから、一目見ただけでは徳をつんだエライお坊さんなのか、ただの流浪中の生臭坊主なのかは区別がつかなかったでしょう。

延暦二十三年(804年)に30歳になった空海は、思うところがあって、遣唐使船に乗って唐(中国へ向かいます。

空海と、よく比較されて登場するのが伝教大師・最澄
実は、最澄も、この同じ遣唐使船に乗って唐に渡っているのです(6月4日参照>>)

空海より7歳年上の最澄は、かなりのエリートで、すでに、この時、高僧の名を欲しいままにしていた超有名人です。
中国に行ったこの時も、彼の費用は全部国が負担する言わば特待生

それに比べて、空海はまったくの無名・・・費用もすべて実費。
つまり、空海は遣唐使ではなく、遣唐使船にお金を払って乗せてもらっていた私費留学生です。

ところが、二年経って、日本に帰って来た時には、最澄と肩を並べるくらいの出世をし、弘仁三年(812年)には、空海が最澄に「灌頂(かんじょう)を与えています(12月14日参照>>)

灌頂とは、密教の伝法・授戒の儀式・・・言わば、澄が空海の弟子になったという事です。
もちろん、これは、最澄が空海の下という意味ではありません。
ご存知のように、最澄と空海は別の宗派の人ですから・・・。

わかりやすく言うと、「日本語の権威が、語学の見聞を広めるために英語の達人に教えを乞う」という感じでしょうか。
しかし、そこまで肩を並べる高僧になったわけです。

このギャップが人々の、心をくすぐるのでしょう。

山奥の寂しい村に、ふらっとやって来たみすぼらしい坊さんが、実は高僧・空海であった・・・という、日本人が大好きな「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「裸の大将」「ごくせん」に流れるパターンです。

もちろん、空海が全国行脚(全国かどうかも微妙)をしている時代は、まだ無名ですから、いちいち名乗る事もないでしょうし、葵の紋の入った刀や印籠を持ってるわけでもありませんから・・・。

「あの時のお坊さんがひょっとして・・・」という庶民の期待と夢が、数々の伝説となって、弘法大師の偉業として残っているのだと思います。

その伝説が、人々の心の中に、良い思い出として残り、苦しい時の生きる希望となるのであれば、それこそが弘法大師の偉業と言えるものなのでしょう。

さて、今夜は丹波に雪が降るのでしょうか・・・いや、きっと降っている事でしょう。
「ほら、見てみ、今年もお大師さんが、来やはった・・・」
 

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今日のイラストは、
昔話『あと隠しの雪』の一場面で・・・

真っ白に雪が積もった日の朝は、とても明るく、とても静か・・・世界が変わって見えますね。
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2007年11月22日 (木)

時空を越えた合コンを開いたら・・・結果発表

 

『時空を越えた合コンを開いたら?』という荒唐無稽なアンケートに、ご協力をきただきましてありがとうございました~。

どうしても時代を動かすのが男性中心の歴史の世界で、なかなかその心の奥底をのぞき見る事のできない女性陣・・・という事でしたが、意外にも予想を超える方々のご協力をいただきまして、うれしい限りでございます~。

本日は、その結果発表と、次に展開します新たなアンケートへのご協力のお願いをさせていただこうかと思います。

・・・・・・・・

まずは、結果発表から・・・

  得票数
お市の方 18
額田王 16
千姫 15
静御前 13
絵島 6
清少納言 4
ねね 4
御船千鶴子 3
和泉式部 1
高橋お伝 1
藤原薬子 0

 
やっぱ、強かったですね~
歴代の美人女優がこなしてきた役どころの女性たちは・・・

私の予想では、お市の方千姫の一騎打ちに、静御前が割り込んで三つ巴・・・って感じだったんですが、意外だったのは、額田王ですね~。

ここまで、魅力があるとは・・・これならぜひ一度、大河ドラマの主役に抜擢してあげてほしいですね。
でも、あの時代って、セットとか衣装とかが大変なんでしょうね。
あんまり、ドラマになった事のない時代ですからね。

それにしても、この四人がダントツでしたね。
やっぱ、女優さんの威力が大きいんでしょう。

石原さとみちゃんの静御前はカワイかったですからね~ちょっと舞いがラジオ体操っぽかったですが・・・

昨年の大河のお市さん=大地さんは、主役の年齢に合わせたためか、ちょっと年齢的に・・・?って感じも無きにしもあらずでしたが、美人は美人なので魅力的な事にはかわりないですね。

千姫さんも、美人のイメージですね。
私が小さい時、大阪城で大名行列のようなお祭りがあったんですが・・・
小さすぎて何のお祭りだったのか?それ以外にどんな事が行われていたのか?まったく覚えてないんですが、その行列の中で、ひと際目立っていた、千姫役の星ゆり子さん。
その美しさだけは、脳裏に焼きついていて、今でもはっきりと覚えています。

だいたい、この四強の次に、大奥の絵島さんがつけてる・・・っていうのも、やっぱ映画の仲間由紀恵さんのイメージに他ならないでしょうからね。

ところで、このアンケートは「合コン」という設定だったので、それぞれの女性陣に自己紹介をしていただいてます。
「今からでも、彼女たちの事が知りたい」とおっしゃるかたは、コチラから自己紹介のページへどうぞ>>>

空想癖満載のアンケートにご協力いただいたかた・・・本当にありがとうございました

・・・・・・・

そして、いつものように、新しいアンケートのお願いです。

今度のアンケートは、もしタイムマシン乗って、チョコッとだけその時代で暮らすとしたら、どの人の政権下の時代に行ってみたいか?という、またまた空想的なアンケートですが・・・

このブログを、よりおもしろくするためにも、ぜひぜひ、ご協力を・・・
個人的な偏見で選んでしまった人選の理由など、くわしくは、コチラのもう一つのページでご覧くださいませ>>
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アンケート・どの時代がいいですか?

 

本日から、新しいアンケートを展開させていただきます。

またまた空想的なアンケートですが、少しでもブログを楽しくできたら・・・と、本人はいたって懸命に試行錯誤しております~ぜひ、今回も清き一票をご投票くださいませ。

今度のアンケートは、
「もし、タイムマシンがあって、その時代で何日か暮らすとしたら、誰の政権下のどの時代で暮らしてみたいですか?」
という質問なのですが・・・

人選に関しましては・・・
個人的ではありますが、一応、天下を掌握して、新たな時代を形成したと思われる方々に集まっていただきました。

  1. 卑弥呼さんは、
    やっぱ女王ですから・・・どんな時代なのか、無限に想像をかき立てられる時代でもあります。
  2. 仁徳天皇は、
    初代の天皇ではありませんが、やはり、天皇が政治を行うという事の基礎を固めた方ではないか?と・・・
  3. 蘇我馬子さんは、
    個人的には、天皇に代わって新たな政権を奪取した方だと思っていますが、とにかく、まだまだ続く万系一世の天皇制の中で、初めて、天皇家ではない人がリーダーシップを取った・・・的なところをかわせていただきました。
  4. 藤原不比等さんは、
    この後、長々と君臨する藤原家の基礎となる人、天皇家をサポートしながら、見事、天下を掌握しましたし、律令国家を実現した人でもありますしね。
  5. 藤原道長さんは、
    その不比等の流れですが、平安時代という、日本独特の文学・文化が飛躍的に発展した時代の代表的人物でもありますので・・・
  6. 平清盛さんは、
    言わずと知れた武士の始まり。。たった一代で終った感はありますが、同族同士で血で血を洗う抗争を繰り広げた源氏に比べて、死ぬも生きるも一族もろとも・・・何か、諸行無常、盛者必衰を感じさせてくれます。
  7. 源頼朝さんは、
    日本初の武士政権・・・鎌倉幕府という物を、おっ立てた人ですから・・・やっぱ、外せないですね~。
  8. 足利尊氏さんは、日本の文化の基礎となる室町時代を立ち上げましたからね~わび・さび・日本庭園・四畳半・・・まぁ、文化が花開いたのは、3代目・義満と8代目義政さんの頃ですが、おおもとは尊氏さんなので、室町時代の代表という事で・・・
  9. 織田信長さんの
    存在は外せませんよね。氏・素性、年功序列を撃ち破った人材登用・・・やはり、危険な香りが漂うからこそ、活気溢れる時代となった安土の頃は魅力的です~。
  10. 豊臣秀吉さんの
    下水に道路網・・・天下の台所・大阪の発展の基礎を築いた桃山時代は文化的にもすばらしい時代。
    大阪人は、けっこう太閤さんの政治に、満足していてような気配もありますよね。
  11. 徳川家康さんは、
    やっぱ、江戸時代の代表・・・という事で・・・。
    尊氏さんの室町同様、江戸時代という物が確立されたのは家光さんの時代でしょうが、300年の平和は、歴史上燦然と輝いていますから・・・。
  12. 初代・内閣総理大臣・伊藤博文君。
    近代民主主義の代表として・・・まぁ、民主主義と言っても、問題は多々ありますが、一応、タイムマシンに乗ってどこかに行く・・・という設定上、あまりに近い年代ではおもしろくないので、この明治という時代を最後に持ってきました~。

・・・という事で、
歴史好きの私にとっては、どの時代も魅力的~

そりゃ、実際にそこのに永住するとなったら、こうしてパソコンに向かってホイホイできる今が一番イイに決まってますが、チョコッと覗いて見るなら・・・

どうぞ、みなさんも、行ってみたい時代、会ってみたい人・・・みたいな感覚でお気軽に投票してみてください。
どうぞ、よろしくお願いします。

このアンケートは締め切りました~
結果は、コチラからどうぞ>>
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2007年11月21日 (水)

山中鹿之介の一騎討ち~第二次・月山富田城攻防戦

 

永禄九年(1566年)11月21日、月山富田城を包囲中の毛利元就が、降伏を申し出た尼子義久の助命を約束しました

・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)12月24日・・・出雲(鳥取県・東部)に君臨する尼子氏の当主・尼子晴久が急死し、まだ若い嫡男・義久家督を継ぎます(12月24日参照>>)

これをチャンス!と見て取った毛利元就は、徐々に月山富田(がっさんとだ)を攻め落とす準備を始めます。

実は元就がこの月山富田城を攻めるのは初めてではありません。

天文十一年(1542年)から翌年にかけて・・・しかし、その時代はまだまだ中国地方も群雄割拠の時代で、周防(山口県・東部)大内義隆との協力体制での参戦でした。

ところが、いざ、合戦が始まると、義隆と意見は食い違うわ、その間に寝返りが多発するわで、結局大軍を動員したわりには、城も落とせず撤退・・・引き分けとなって、くたびれもうけの合戦となりました。

あれから、20年余り・・・その間に、その大内氏の重臣だった陶隆房(すえたかふさ・晴賢)を、戦国屈指の奇襲戦・厳島の戦い(10月1日参照>>)で破り、若き当主・大内義長自刃(4月3日参照>>)に追い込み、ターゲットを尼子氏に絞り始めた矢先の当主交代(12月24日参照>>)・・・まさにチャンス到来です。

今度は、じっくりと・・・確実に・・・
元就は、まず、石見(島根県・西部)に進撃し、石見銀山を落とします。

しかし、まだ、尼子氏の本拠地・月山富田城へは行きません。

次に永禄六年(1563年)には、出雲白鹿(はくろく)手中に収めます(8月13日参照>>)が、この時も城を奪っただけで、まだ、行きません。

しかし、これらの事は、確実に月山富田城をじわじわと孤立させていくのは確かです。

そして、永禄七年(1564年)、おもむろに腰を上げた元就は、3万という大軍で月山富田城を包囲するのです。

守る尼子氏が1万という数でしたが、それでもまだ包囲しただけ、攻めには取りかかりません。

翌・永禄八年3月には、この戦いが初陣となる元就のかわいい嫡孫・輝元と、次男・元春の息子・吉川元長が合流し、いよいよ役者が揃いました。

そして、4月17日・・・菅谷口から小早川隆景(元就の三男)が、塩谷口から吉川元春&元長が、そして獅子守口から元就と輝元が・・・三方向から一斉に月山富田城に攻撃を仕掛けました・・・『富田三面作戦』です。

もちろん、尼子氏もそれぞれの攻め口に、総大将の義久以下、尼子秀久(義久の弟)尼子倫久(みちひさ・義久の弟)などの将を配置しての応戦です。

しかし、ここまで来ても、やはり元就は慎重。
無理をせず、深入りせず・・・

敵が、少しでも、自分の予想より反撃してきた時点で、すかさず兵を退き、練りに練った富田三面作戦にも関わらず、引き分けという形で、自ら幕を下ろしました。

でも、包囲を解いたわけではありません。
元就のじっくり作戦は、まだ続いているのです。

そんなにらみみ合いが続く9月のある日、この合戦で最も有名な名場面が展開されます。

当時、毛利の臣下であった品川大膳(だいぜん)には、一つの思惑がありました。

それは、毛利方にも聞こえていた噂・・・尼子氏には、名だたる重臣に物怖じすることなく、堂々と意見を述べる血気盛んな21歳の若武者がいると・・・。

大膳は、この合戦で、その生意気な若者の鼻をへし折ってやろうと、棫木狼介(たらきおおかみのすけ)と名を改めます。
(大河ドラマでは品川狼之介になってましたが・・・)

なぜなら、その若武者の名は、山中鹿介(鹿之介)幸盛・・・そう、相手が鹿なら、こちらは狼になって鹿を食ってやろうというのです(名前変えてまで?(^o^;))

そんな狼が、この日、敵情を視察するため、城のまわりを巡回中の鹿之助を目にします。絶好のチャ~ンス!

狙いを定めキリキリと弓を引く狼・・・それを知らずウロチョロする鹿は、まさに絶体絶命。
しかし、運良く、後方からその様子を見ていた人物がいたのです。

秋川庵介という人物が機転をきかせて、素早く狼介の弓の弦を切って落としました。

その、騒ぎに、自分が狙われていた事を知った鹿之介は、怒涛のごとく走り、すかさず太刀を抜いて、狼介めがけて飛び掛ります。

狼介も太刀で応戦します。
・・・が、太刀さばきの鋭い鹿之介にちょっと苦戦。

大柄な狼介は「組み討ちをしよう」と、その負けん気の強さを逆手にとって挑発します。

若さゆえ、その誘いに乗って戦いは組み討ちへと発展。

しかし、組み討ちでは、やや鹿之介が不利・・・そりゃぁそうだろ!こんな大男に、とてもじゃないが勝てません。

案の定、組み伏せられ、またもや絶体絶命のピ~ンチ!

すかさず、短刀を取り出した鹿之助。
下から狼介を刺し、勝負をつけました。

ズルイっちゃ~ズルイんだけど、合戦ですから・・・「兵は詭道(きどう)なり」by孫子>>でおます。

この知らせを聞いた尼子陣営では
「出雲の鹿が、石見の狼に勝った~!」
と大喜びです。

しかし、しかし、尼子のダンナ、そんなに手放しで喜んでる場合やおまへんで~

実は、この間、元就は、ただ包囲を続けていたわけではありません。

そう、見えない所で着々と、地固め作戦を繰り返していたのです。

攻防戦も終盤になってようやくその成果が出始めます。

尼子氏の傘下であった水軍・湯原氏が毛利方に寝返ってしまい、瀬戸内海の制海権はすべて毛利の物となってしまいます。

海が使えなくなった尼子氏は、兵糧の補給に悩まされる事になり、さらに、元就は鳥取・西部に展開する砦を奪取します。

もはや、完全に、兵糧が断たれました。

こうなると、月山富田城の中からも、毛利方に降る者が後を絶たなくなり、当主・義久は、自分と二人の弟の計3名の助命と、一部家臣の所領の安堵を条件に11月19日に降伏を決意し、元就が11月21日に起請文を送って、その条件を守る事を約束したのです。

11月28日・・・月山富田城が開城され(11月28日参照>>)、義久らは、すぐさま長門奈古(山口県)幽閉され、彼らは幽閉されたその地を出る事なく、その生涯を閉じます。

ここに、南北朝の雄・佐々木道誉を祖に持つ尼子氏が事実上滅亡しました。
 

Sikanosukeikkiuticc
今日のイラストは、
もちろん、カッコイイ鹿之介くんの勇姿で・・・

ところで、ご存知のように、諦めきれない不屈の人・・・いや、しつこいくらいの再起マニア・鹿之介が、このまま納まるわけがありません。

そう、山陰の麒麟児・鹿之介くんは、立ち上がります・・・そんな戦記7月3日のブログでどうぞ>>
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2007年11月20日 (火)

慶長の役・終結~悲惨な戦の残した物は…

 

慶長三年(1598年)11月20日、最後まで駐留していた島津隊が撤退し、豊臣秀吉が2度目に起した朝鮮出兵・慶長の役が終結をしました。

・・・・・・・・・

後北条氏小田原城を落とし(7月5日参照>>)、奥州の雄・伊達政宗を傘下に引き入れ、いよいよ天下を手中に収めた豊臣秀吉・・・

それは、野望征服欲か、内紛を防ぐためか(3月26日参照>>)、はたまた最愛の息子を失った悲しみか、それとも、日本を取り巻く世界の事(10月12日参照>>)・・・秀吉の真意は不明なれど、とにかく秀吉は、この時、無謀とも思える朝鮮出兵を開始します。

Bunrokunoekipusan700a 文禄元年(1592年)から文禄二年にかけて行われた第一次・朝鮮出兵=文禄の役(4月13日参照>>)は、一旦、休戦となりますが、強気の秀吉が出した講和の条件は無理難題の7か条。

結局、慶長元年(1596年)9月1日に謁見した明国(中国)の使者からの返答に納得がいかない秀吉は、再度、朝鮮に出兵する決意をするのです。

今回の陣営は・・・
第一軍:小西行長・加藤清正
第二軍:同上
第三軍:黒田長政・島津豊久・橋本元種
第四軍:鍋島直茂・鍋島勝茂
第五軍:島津義弘
第六軍:長宗我部元親・藤堂高虎
第七軍:蜂須賀家政・生駒一正・脇坂安治
第八軍:毛利秀元・宇喜多秀家
合計8軍で、総勢14万の大軍でした。

秀吉軍は、慶長二年(1597年)春・・・2月頃から、慶尚道(キョンサンド)など、朝鮮半島南部から上陸し、二手に分かれて北上を続けます。

7月15日には、藤堂高虎・脇坂安治らの水軍が巨済島(コジェド)沖で、李氏朝鮮軍の水軍を破り、8月15日には、二手に分かれた西側の軍が南原(ナンモン)を落とすという、まさに破竹の勢いで進軍します

しかし、秋頃からは、その勢いに陰りが見え始めます。

せっかく進んだ軍隊が後退する事を恐れた加藤清正は、慶尚道の蔚山(ウルサン)護りの城を構築しようとします。

しかし、「そうはさせるか!」と、その城を包囲する明軍

建築途中の城に籠城して対抗する清正らでしたが、なんせ未完成ですから、その兵糧と水の確保もままならない状態で、苦戦を強いられる事になります(12月22日参照>>)

何とか耐え抜いて、年を越した慶長三年(1598年)の1月4日
毛利秀元が率いる援軍が駆けつけ、激戦の末、明軍の包囲を解く事に成功しました。

この頃から、明軍・朝鮮軍だけでなく、民衆の抵抗も激しくなり、秀吉軍は各地で敗戦を経験し、見るからに劣勢の嵐が強くなっていくのです。

そんなこんなの8月18日、海を隔てた日本で、とんでもない自体が起こります。

その年の端午の節句以来、病に臥せって伏見城で療養中だった秀吉が亡くなってしまったのです(8月18日参照>>)

生前、秀吉が任命した徳川家康・石田三成五大老と五奉行は、協議の結果、秀吉の死を伏せたまま、李氏朝鮮・明国との停戦交渉を開始します。

10月初めには、その停戦交渉が成立し、秀吉軍の撤退を伝える使者が朝鮮半島を駆け巡りますが、そうとは知らない島津隊は、10月1日に慶尚道の泗川(サチョン)で、敵を相手に奮戦しています。

李氏朝鮮と明軍からの急襲に、島津隊が答えた形の合戦でしたが、なんせ伝達手段が限られている時代で、敵陣への停戦命令も、いつ届いたのやらわかりませんから・・・。

やがて、10月の中旬頃には、各隊に連絡が届き、最前線で奮闘中だった加藤清正・鍋島直茂・黒田長政らも撤退を開始します。

そして、この文禄の役で、窮地に陥った小西隊や加藤隊を助け、勇猛な大活躍をした島津隊が、最後の最後・・・慶長三年(1598年)11月20日撤退を開始し、25日に完了・・・ここに、慶長の役は終戦を迎えたのです。

結局、出兵をした張本人が死に、その本心もわからないまま、多くの兵や民衆の命を奪ったばかりか、朝鮮半島の地も荒らし、何の成果も見られないまま、この戦いは終った事になります。

また、以前【陣形・陣立のお話】(9月8日参照>>)でもお話しましたように、戦国の合戦での評価は自己申告制で、「その申告を証明する目撃者や証拠の品がなくては認めてもらえない」というのが一般的でした。

遠い異国での戦争であるがゆえ、自分の武勇を証明する証拠として、討ち取った敵の耳を塩漬けにして持ち帰ったり、工芸や科学の技術者・学者などの文化人を連れ帰るという、悲しい出来事をも起してしまいました。

そんな、朝鮮から連れてこられた中に、この戦いで人生を大きく狂わされたおたあジュリアもいましたが、彼女のお話は以前書かせていただきましたので・・・(9月1日参照>>)

しかし、その非人道的行為も、いかに命を賭けて戦ったか、いかに頑張ったかを秀吉に伝え、少しでも褒章に預かろうという思いからの行動・・・しかし、戦いから帰ってみると、肝心の秀吉は、もういません。

しかも、今の世が必要とするのは、武勇優れた一騎当千の武者ではなく、内政を巧みにこなす政治家タイプの武将でした。

朝鮮半島で、命を賭けて戦った武将の多くは、どちらかと言えば、勇猛果敢な武勇に秀でた者たち・・・そんな体育会系の武将たちが、まともな恩賞もないばかりか、逆に国内で事務的な事を行っていた文系の武将が大手をふって歩く状態に耐え切れない事は火を見るよりも明らかです。

やがて、彼らの確執は、豊臣家分裂へと向かい、そこには、実際に半島には渡海しなかった事で(1月26日参照>>)、その軍事を温存する事ができた徳川家康の入り込むチャンスが出来てしまう事になるのです。

・‥…━━━☆

徳川家康の入り込む余地・・・つまり関ヶ原の合戦へと動き始める石田三成・襲撃事件3月4日のページでどうぞ>>

その後の朝鮮との関係改善交渉については【朝鮮出兵後の関係改善に尽くした宗義智】でどうぞ>>

・‥…━━━☆
 

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2007年11月19日 (月)

横綱は免許制?相撲の最高位・横綱誕生秘話

 

寛政元年(1789年)11月19日、横綱土俵入りの元祖谷風梶之助が横綱免許を受けました。

・・・・・・・・・

以前、「垂仁天皇の時代(3世紀前半頃)、七夕の夜に格闘技の天覧死合(←しあいがこんな字なんです(ToT))が行われた事が『日本書紀』に記されていて、それが、日本最古の相撲とされている事、それ以来七夕の夜には格闘技(相撲)が恒例行事として行われていたようだという事」を書かせていただきました(7月7日参照>>)

そのように、神様への奉納として相撲が行われていた時代を含めると、やはり、日本の国技?と言うだけあって、相撲の歴史はかなり古いのです。

それ以来、合戦の合間の武士の体力づくりや、子供の遊び、神社のお祭りなどなど・・・相撲は、日本全国に広まっていきますが、やがて織田信長の時代を経て「織田信長と相撲大会」参照>>)、神様への奉納とは別の、現在のような興行、あるいは、プロスポーツといった形になった相撲には、番付なる物が誕生し、江戸・元禄時代に大人気となります。

番付が誕生して以来、江戸時代を通じて、番付の最高位は、ずっと『大関』だったのですが、この頃でも、神代の昔からのなごりとして、お城やお屋敷などを建築する際の、地鎮祭の儀式の中の一つとして、大関二人を呼んで、お祓いのための『地踏み』をしてもらう・・・という事が行われていました。

儀式の時には、力士がしめ縄=綱を締めて行った事から、この儀式をする事を『横綱之伝を許す』と、言っていましたが、綱をつける事のできる立派な力士に『横綱の免許』なる物を与えたのが横綱の始まりでした。

・・・で、寛政元年(1789年)11月19日に、谷風梶之助4番目の横綱免許を受けたわけですが・・・つまりは、横綱というのは、番付の地位ではなくて、この地鎮祭の儀式をする力士へ渡されるお許しみたいな物だったのです。

ですから、横綱の免許を持っていても番付は大関という事になります。

そして、この時、免許を受けた谷風と、もう一人免許を受けた小野川(第5代)という力士が、恒例の相撲の場所の時に、しめ縄を締め、地鎮祭で行う儀式を観客に見せたところ、これが大受け。
大人気となります。

「これはいい!」って事で、それ以来、通常の場所でも『横綱の土俵入り』として、儀式を見せるようになったのです。
それでも、まだ、番付の最上位は大関で、横綱は免許・・・という形でした。

さらに、時代はさがって、幕末の頃。
陣幕久五郎という横綱が、神社に記念碑を建てる事を思いつき、寄付金を集めるための文書に、歴代の横綱免許を受けた力士の名前を書き、そこに番号をふったのです。

その時から、『第○代・横綱』というように呼ばれるようになったのですが、それでも、まだ、番付の最上位は大関で、横綱は大関の中で免許を受けた力士・・・という形でした。

やがて、明治二十三年(1890年)五月場所・・・その場所は、それ以前から大関だった西ノ海剱山という二人の大関に、さらに、鳴門小錦という二人の新しい大関が誕生した場所で、四人の大関がひしめく場所となったのです。

困ったのは番付作成担当者・・・。
しかたなく、その前の場所の成績がおもわしくなかった西ノ海と剱山を、東西それぞれの『張り出し大関』という形で番付を作成します。

ところが、その番付を目にした西ノ海が激怒!

実は、西ノ海はすでに横綱の免許を受けていたのです。
今場所、大関になった二人は、新大関ですから、当然免許はまだ受けてません。

横綱の免許を受けるのに、試験があるのか、何があるのか、知らないのですが、だいたいにおいて、免許という物は、持ってない人より持っている人のほうが上というのは、想像がつきますよね。

・・・で、その西ノ海は、「横綱の免許持ってる俺が、張り出しとはどうゆうこっちゃ!」と、相撲協会にクレームの嵐!
「こんなんやったらやってられへん!休場してモンゴルに帰ってやる!」と大騒ぎです。

そこで、しかたなく、苦肉の策として、番付表はそのままに、西ノ海の名前のところに「横綱」という事を明記したのです。

それ以降、番付表には、横綱の免許を持っている力士には、横綱であるという事を書く事が習慣となりました。

そうなると、さきほども言いましたように、免許を持ってるのと持ってないのとでは、持ってる方が上みたいな気がする・・・という事で、しだいに大関より横綱のほうが上という印象が、見る側のほうにも強まってくるようになります。

そして、明治四十二年(1909年)、とうとう相撲協会は、横綱を正式な位とし、力士の最高位に位置づける事になったのです。

・・・て事は、一番最近横綱になった力士は第69代・白鵬関。
でも、その代数も、最初のほうの力士の位は大関だったって事ですね。
長~い歴史の相撲の中で、意外にも新しい・・・ちょっと驚きました~。

Zinmakukesyoumawasi

今日のイラストは、記事本文の中にも出てきた東京・富岡八幡に記念碑を建立した『第十二代横綱・陣幕久五郎の化粧まわし』で・・・。
カッコイイので、綱も書かせていただきました~。

ところで、今書いてて気づいたんですが、第4代の谷風さんから、第12代の陣幕さんまで、約70年の間に横綱が8人・・・けっこう少ない気がするんですが、やっぱ、横綱免許は難しかったんですかね・・・。
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2007年11月18日 (日)

石舞台古墳のあるじは?

 

今日、11月18日『土木の日』なのだそうです。

明治十二年(1879年)に、日本で最初の工学系の学協会・日本工学会が設立された事と、『土木』という文字を分解すると「十一」と「十八」になる事から昭和六十二年(1987年)に制定された記念日だそうです。

土木技術・・・というと、ついつい思い出してしまう古墳・・・思い出したら、もう、頭から離れないので、今日は古墳について書かせていただきます。

以前、古墳については、仁徳天皇陵の大きさや埴輪の使用目的について(3月22日参照>>)チョコッと書かせていただきましたので、本日は、奈良県明日香村にある石舞台古墳を中心に、古墳のお話を進めさせていただきます。

・・・・・・・・・

古墳と言えば、ついつい仁徳天皇陵(大山古墳)のような、鍵穴の形をした前方後円墳を思い出してしまいますが、実はあの形は意外に少ないのです。

Kofunnokataticc 約20万ほどある古墳の中で、その90%が円墳と呼ばれる丸い形の古墳です。

大きく差があいて、その次が方墳と呼ばれる四角い形の物です。

今から1700年前の3世紀の後半から~7世紀にかけて多く造られ、この時代を古墳時代と呼びますが、ご存知のように、古墳というのは、古代の王や豪族たちのお墓・・・その大きさは、権力の大きさでもありました。

お墓ですから、山のように見えるその古墳の中には、必ずその遺体を葬るお部屋・石室があります。

石を積上げた部屋を造って、そこに遺体の入った石棺を安置したのです。
仁徳天皇陵の場合は、丸い部分の真ん中あたりにそのお部屋があります。

・・・・・・・・・・

Isibutaiphotocc 有名な奈良県明日香村石舞台は、昔は「その舞台の上でキツネが踊った」なんて伝説もありましたが、もちろん、これは舞台ではありません。

この石舞台は先ほど説明した古墳の石室の部分なのです。
写真などで見ると、このように石の部分だけを見てしまうので、一見古墳のように見えませんが、この石舞台が造られた当時は、この上に土が盛ってあって、小山のように見えていたはずです。

石舞台は一辺が55m、高さ2m以上もある方墳・・・最初にご紹介した古墳のいろいろな形の中の四角いヤツです。

高さが2m以上・・・というのは、つまり先ほど言いましたように、上に盛られたはずの土が無くなっているので、高さがわからないという事です。

Isibutaisouzoucc 「こんな感じかな?」と想像図を描いてみましたが、この赤い矢印のところの点線で囲った部分が石室のある部分ですから、現在の石舞台は、この部分だけを見ているという事です。

今はまわりに木や草花が植えられているため、ちょっとわかり難いですが、今でも、石舞台のまわりは四角い土手のようになっていて、よ~く見ると、方墳だった部分が確認できますよ。

Isibutaimeizicc もちろん、これは近代の発掘調査のおかげで、江戸時代には、この四角い形の部分は、すっかり埋まっていて、巨石だけが露出し、すでに『石舞台』という名前で呼ばれ、謎の巨石として観光名所になっていたそうです。

それにしても、なんと言っても興味があるのは、こんな大きな石をどうやって運んだのか?という事ですね。

もちろん、それまで発見されていた様々な史料から、おそらく、丸太を石の下に置き、コロのように使って、縄で引っ張って転がして・・・という風に想像はされていましたが、あくまで、コロを使用という事だけで、あとは想像するしかありませんでした。

しかし、昭和五十三年(1978年)、大阪は藤井寺三ツ塚古墳から巨石運搬に使用されたと思われる『修羅』が発掘され、古代史に画期的な変化をもたらしました。Syuracc 現在、この修羅を復元した物が、近くの道明寺天満宮に展示されています。
これを、見れば一目瞭然・・・「こうして運んだんだなぁ」と、風景が目に浮かぶようですね。

ところで、石の運び方とともに、気になるのはやはり、この石舞台が誰のお墓なのか?という事ですね。

この被埋葬者については、一般的には、蘇我馬子ではないか?と言われていますが、実は、私も、今のところそうではないか?と思っています。
(あくまで、今のところ・・・です。新たな発見があるかも知れませんので・・)

その理由は、まず、大きさです。
55m四方・・・というのは、かなりの大きさです。

もしかしたら、この記事を読んでいただいている方の中にも、「石舞台を見に行った事があるけれど、回りが四角くなってるなんて気づかなかったよ」という方がいらっしゃるんじゃないですか?

当然です。
気づかないくらい大きいのです。
Isibutaiphuto2cc この写真・・・ちょっと見にくいんですが、まわりに木があるため、これ以上遠くへ離れると、木に隠れてしまってよけいにわかり難いので、ここが限界なのですが、左に見える石舞台・・・そして右はしが階段になって、土手のようになっているのがわかりますか?

ここが、方墳の跡なのですが、これでも上部で、この下にさらに広い下部があったわけですから、その大きさが想像できるという物です。

しかも、この石舞台古墳が造られたのは、古墳時代でも後期です。
仁徳天皇陵が河内平野に造られた時代には、それこそ大きさを競うように巨大古墳が造られましたが、古墳時代も後期になってからは、徐々にその大きさは小さくなっていました。
その時代に、この大きさです。

埋葬された人物が、よほどの権力者であった事がわかります。

さらに、この石舞台古墳のまわりには、この古墳が造られるために潰された、小さな古墳の跡も見てとれるのです。

先日、【宗峻天皇・暗殺事件のページ(11月3日参照>>)でも書かせていただきましたように、私は蘇我馬子→蝦夷→入鹿の蘇我氏三代は、当時政権を握っていた王ではないか?と思ってします。

以前の政権を倒して、新政権をうち立てた馬子なら、昔の古墳を壊して・・・という事にも納得できますし、その大きさにもうなずけます。

そして、その後、『乙巳の変』(6月12日参照>>)で入鹿が暗殺され蘇我氏は滅亡・・・つまり、再び政権交代が起きたわけです。

この石舞台の壊れっぷりも、その政権交代があった事を考えれば納得です。

たとえば、同じく明日香村で有名な高松塚古墳なども、すでに鎌倉時代に盗掘され、穴が開けられているにも関わらず、古墳の形そのもは、古墳とわかる状態でした。

死者とともに、多数の副葬品が納められている古墳は、多くの場合盗掘という憂き目に遭います。
宝物を求めて盗賊は、歴史もクソも関係なく進入しますからね。

しかし、、さきほども書きましたように、この石舞台古墳は、昔の人が気づいた時には、すでに「石舞台=謎の巨石」と思うくらい壊れていた事になります。

石室が露出するくらい壊れた(あるいは壊された?)という状況は・・・

まるで、それ以前の歴史書が末梢され、新たに記紀が編さんされるが如く、前政権を末梢したい新政権が徹底的に破壊したような・・・そんな気がしてならないのです。

・‥…━━━☆

石室の造り方など、「もっとくわしく~」という方は、本家HPの【もっと古墳を知ろう】のページを見てくだされ>>
ビジュアル図解で説明しています~内容ちょっとかぶってますが・・・。
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2007年11月17日 (土)

独眼竜・政宗を智将に変えた人取橋の合戦

 

天正十三年(1585年)11月17日、父の弔い合戦と称して兵を挙げた伊達政宗と、畠山・佐竹・芦名の連合軍が、瀬戸川(阿武隈川の支流)に架かる一本橋付近で繰り広げた戦い『人取橋(ひととりばし)の合戦』がありました。

・・・・・・・・・・・

Datemasamune650 やがて奥州の覇王となる、ご存知、独眼竜・伊達政宗

幼い頃、疱瘡にかかり、片目を失明した政宗は、母親から見放され、卑屈になり、ひきこもりになりかけていたところを、名僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)という超一流の家庭教師によって救われる事になります。

やがて、その眠れる竜が華々しい初陣を飾ったのは15歳の時・・・3年間にわたるその戦いで、侵略されていた伊達の旧領を取り戻すという快挙を成し遂げ、奥州にその名が知られる事となります。

ちょうど、畿内では、織田信長本能寺で自刃(6月2日参照>>)、主を襲った明智光秀羽柴(豊臣)秀吉が討った山崎の合戦(6月13日参照>>)があった頃・・・この頃の南部奥州はまさに群雄割拠の時代でした。

政宗が三春城主・田村清顕(きよあき)の娘・(めご)と結婚していた事で、田村郡の田村家とはつながりができていましたが、会津(福島県)芦名家岩瀬郡二階堂家白河郡白河家石川郡石川家、そして、常陸(茨城県)佐竹家といった彼らが、この先、若き独眼竜の前に立ちはだかる事になります。

政宗の勇猛果敢ぶりに、天正十二年(1584年)には一旦は和睦を結んで、平穏な日々を過ごす東北の雄たち・・・その間に18歳になった政宗は、父・輝宗の家督を継ぎ、第十七代・伊達家の当主となります。

ちょうど、紀州・四国と次々と平定の範囲を広げていた破竹の勢いの秀吉も、東北には、未だ手付かずの状態。

勢いがあるとは言え、政宗もまだまだ若い・・・誰も突出した武将のいない状態の東北では、平穏を装いながらも、誰もが虎視眈々と仙道の制覇を狙っていたのです。

仙道とは、仙台・信夫(しのぶ)・安達・安積・岩瀬・白河を通る東北地方を縦断する道の事・・・戦国を通して、「京を制する者は天下を制する」と言われたように、東北では「仙道を制する者は東北を制する」と言われていたのです。

仙道は東北の武者が関東へと向かう道・・・そこを制することができたなら、京への道も開ける事にもなります。

そんな中、翌年の天正十三年(1585年)、伊達家に属していた小浜城(福島県・安達)主・大内定綱が会津の芦名氏に寝返るという事件が起こります。

血気盛んな政宗がそれを許すはずはありません。
すぐさま挙兵して定綱が籠る小手森城へ攻め寄せます。

定綱の軍と、それを支援する芦名軍を次々と撃破する伊達の軍勢・・・定綱は、密かに小手森城を脱出し、畠山義継二本松城(福島県二本松)へ救いを求めて逃げ込みます。

勢いのある伊達軍を前に、「とにかく、ここで戦ってはまずい」と判断した義継は、政宗の叔父・伊達実元(さねもと)を通じて和睦を申し入れてきます。

その時の条件は、畠山の領地の大部分を伊達家の物に・・・そして、嫡男・国王丸人質として差し出す事。

政宗にとって、悪い条件ではありません。

天正十三年(1585年)10月6日和睦は成立し、この一件は決着がつきました。

しかし、和睦が成立した2日後・・・
そのお礼にと、すでに隠居していた政宗の父・輝宗のもとを訪れた畠山義継。

なごやかムードで終った会見の後、見送りに出た輝宗に刀を突きつけ、馬にて拉致したのです。

逃げる義継・・・父の急を聞いて救出に向かう政宗。
義継以下30人ほどの畠山勢は、阿武隈川のほとりまでやってきます。
川を渡れば、二本松城。

「そうはさせるか!」と、鉄砲隊で取り囲む伊達勢・・・しかし、義継たちの集団の中には、拉致された父がいます。

ちゅうちょする伊達勢に、輝宗が叫びました。
「構わん!わしもろとも撃て!」
涙を呑んで、狂ったように鉄砲を撃つ伊達勢・・・義継はもちろんですが、輝宗も、ここで命を落とします。

ん~っと、実はこの父殺害の一件。
腑に落ちないところが多々あるのですが、今日は『人取橋の合戦』のお話なので、この一件の検証は、その日(10月8日参照>>)にさせていただく事として、今日のところは、「しかたなく父を撃った」という通説を採用させていただいて、次に進ませていただきます。

なんせ、人取橋での戦いは、この父の弔い合戦なのですから・・・。

輝宗の初七日が過ぎてまもなく、政宗は、「父の敵討ち」という大義名分を掲げて、二本松城の畠山を攻めるべく挙兵します。

迎え撃つ畠山・・・人質になるはずだった国王丸のもとには、「このまま伊達の勢力を拡大させてはならない」と考える諸将らが集います。

この決戦のおおもととなった大内定綱はもちろん、常陸の佐竹義重、会津の芦名亀王丸以下、岩城常隆石川昭光白河義親・・・反伊達派総動員の連合軍の軍勢は、なんと!3万の大軍となります。

迎える政宗はわずか8千。

天正十三年(1585年)11月17日両軍は、瀬戸川周辺の一本橋付近でぶつかります。

無謀とも言えるこの合戦は、予想通りの激戦となりました。

政宗の老臣・鬼庭左月(おにわさげつ=鬼庭良直)が討死します(2019年11月17日参照>>)
一族の伊達成美(しげざね)も、側近の片倉景綱も、一時、苦境に立たされます。

しかし、とんでもない兵力の差のわりには、一進一退で、死に物狂いで何とか頑張り続ける伊達勢。

この時、伊達勢が、瀬戸川にかかる一本橋を渡る敵兵を、一人ずつ待ち伏せして討ったとも言われ、その事で、この一本橋が、後に「人取橋」と呼ばれるようになったのだとか・・・。

やがて、日は暮れ、政宗は夜襲を警戒しつつ野営をし、明日の戦いに備えます。

ところが、この時、敵勢の中でも最も主力だった佐竹の軍勢が、謎の撤退をし始めていたのです。

実は、この出兵の間に手薄になった本拠地・常陸に、水戸城主・江戸重道が急襲をかけていたのです。

慌てて本拠地に帰還する佐竹勢。

主力の撤退に士気が下がる連合軍。
さらに、追い討ちをかけるように、安房(千葉県南部)里見勢乱入の噂も立ち始めます。

戦意を失った連合軍は、石川・・・芦名・・・と、次々と戦場を離れて行き、合戦は中途半端な形で幕を閉じます。

とにもかくにも、政宗自身は、最大のピンチから脱出し、態勢を整えるチャンスを貰った事になります。

ならば、「態勢を立て直して、ここで、一気に二本松城を攻め落とし・・・」と、誰しもが予想するところですが、政宗は、そうはしませんでした。

今まで、血気にまかせて繰り返してきた戦い・・・しかし、二本松城を攻めれば、その勢いを恐れる反伊達家の東北の武将たちが連合を組む事を、この合戦で身を持って知ったのです。

この時から、政宗の戦い方が変わります。
力まかせ、勢いまかせの突進から、知謀の将へと変わるのです。

関東北条氏とよしみを通じて佐竹を圧迫したり、芦名に牽制をかけてみたり・・・。

やがて、一皮向けた独眼竜は、『摺上原(すりあげはら)の合戦』(6月5日参照>>)で芦名氏に勝利し、23歳にして奥州の覇王となるのです。
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2007年11月16日 (金)

労働者のヒーロー・煙突男登場!

 

昭和五年(1930年)11月16日、日本初の『煙突男』が登場しました。

・・・・・・・

時は世界恐慌の真っ只中です。

一年前の、昭和四年(1929年)の10月24日、突如として起こったニューヨーク株式取引所での株価大暴落!

「暗黒の木曜日」と呼ばれたこの日から、一旦はもち直したものの、五日後に再び大暴落=「悲劇の火曜日」が発生します。

アメリカから押し寄せた世界恐慌の波は、またたく間に日本を飲み込み、不況にあえぐ日本はさらなる打撃を受けるのです。

そうなると、当然、経営者は労働者の犠牲によって、この不況を切り抜けようとしますが、

安い賃金に過酷な労働で我慢の限界に達した労働者たちだって、当然、各地で、反ストやデモ行進、籠城など・・・経営者に対して、徐々に過激な手段に出るようになります。

そんなこんなの昭和五年(1930年)11月・・・
富士紡川崎工場では、2千人の女子工員が、待遇の改善を叫んで、2ヶ月にも及ぶストライキの真っ最中だったのです。

しかし、もはや行動を起してから2ヶ月・・・最初に事を起こした時のテンションの高さは徐々に下がり始め、逆に組合側の疲労の高さは頂点に達しようとしています。

「もう、要求は聞き入れられないのか?・・・」
女子工員たちのなかにも、あきらめムードが漂います。

そんなこんなの疲れきった朝、突然、その男は救世主のように現れます

男の名は、田辺潔
横浜市電気局に勤める25歳に若者でした。

彼は、その工場の高さ40mの煙突にのぼり、赤旗を振って「賃下げ反対!首切り反対!」叫びます。

もちろん、経営者側は降りるように説得しますが、「組合の要求が受け入れられるまで降りない」と、男は踏ん張ります。

さらに、警察まで登場しての説得にも応じず、130時間以上も、この煙突の上で粘り続けました(トイレが心配・・・)

しかし、相手は鬼の経営者と泣く子も黙る特高警察・・・「たった一人の男が頑張ったところで、やっぱ、ムリなんじゃないの?」と思った瞬間!

11月16日、闘争は急転直下で解決します。

経営者側の全面降伏です。

経営者側が、組合側のすべての要求を、ほぼ呑む形で、男は4日ぶりの地上に降り立ちます。

なんと、経営者側に要求を呑むように説得したのは、警察でした。

それこそ、泣く子も黙る特高警察に、経営者も言う事を聞くしかありません。

実は、この工場の側を、東海道線が走っていて、煙突からは、まさに真下にその線路が見下ろせる形になっていました。

11月16日は、その東海道線を、岡山から帰路についた天皇陛下のお召し列車が通る事になっていたのです。

時代は、大日本帝国の時代・・・天皇陛下を上から見下ろすなど、とんでもない事。

まして、彼は目立ちまくりの赤旗を所持しています。

もし、煙突男が陛下の目にふれでもしたら・・・責任を問われるのは、地元警察だけではありません。

内務省のお役人だってヤバイ。

お召し列車の通過に慌てる警察・・・それを聞いて慌てる経営者側。

経営者側が無条件降伏を申し出たのは、お召し列車通過の2時間前・・・男が、煙突から降りたのは、お召し列車通過の、わずか10分前の事でした。

はからずも、労働者たちに勝利をもたらした天皇陛下は、何事もなく無事、多摩川橋梁を通過されたのです。

結果、柳の下の2匹目のドジョウを狙って、第二・第三の『煙突男』が登場したのは、言うまでもありません。

翌・昭和六年(1931年)には、富士製紙神崎工場の闘争で、隣の東洋紡の煙突に・・・。

昭和七年(1932年)には、尼崎日本エレベーターの闘争で、大阪医科大学病院の煙突に・・・。

まぁ、これらの時は、お召し列車が通らないので、さすがに最初の時のような「会社側の前面降伏」という快挙には至りませんでしたが、経営者側にとって、労働運動が、いかに脅威であるかを見せつける結果となった事は確かでしょう。

ところで、一夜にして労働者のヒーローとなった彼のその後は・・・

3年後の昭和八年(1933年)、横浜・山下公園の掘割で変死体となって発見されるのです。

当時の新聞記事では、「自殺」となっていますが・・・果たして・・・。

ヒーローという物は敵も味方も作ります。

彼を取り巻く環境が180度変わり、自分の思い描いていたその後とは、まったく違う人生になったのも確かでしょう。

真実は、彼自身の心の中に・・・。

Entotuotokocc 今日のイラストは、
『煙突男』で・・・

安易な発想でこんな感じになりました~
もう少しカッコイイ場面を描ければ良かったのですが・・・
煙突に登る・・・となると、この風景しか思いつきませんね~
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2007年11月15日 (木)

意外に最近?11月15日の七五三の由来

 

11月15日「七五三」ですね。

「子供の無事な成長を喜び、この先の幸福を願う、親心」
その気持ちさえあれば、由来もへったくれもいらないとは思いますが、まぁ、お話は荷物にはならないので、どうぞ、知識の一つとして、持って帰ってくださいませ~。

・・・・・・・・・・

最近は、11月15日にこだわらず、前後の日曜日にやったり、もっと早い神社がすいてて、写真屋さんの割引がある時期にする人も増えましたが、一応、正式には、11月15日に3歳の男女、5歳の男子、7歳の女児が晴れ着に着飾って、神社にお参りに行き、お祓いをし、千歳飴を貰って帰り、近所や親戚に飴を配る・・・というのが、一般的な「七五三の祝い」と言われる物です。

いかにも、古式ゆかしい伝統行事のように思ってしまいますが、実は、このような形式になったのは、明治になってからの事なのです。

よく、武士の元服などの儀式と混同してしまいがちですが(特に男の子は・・・)、こちらは、むしろ、農民や町人といった庶民の儀式だったのです。

それゆえ、地方によって、日にちもまちまち、形式もまちまちに行われていた一連の行事が、明治に入って11月15日に一緒に行われるようになったのです。

ですから、個々の行事に関しては、それそれ歴史が古いので、伝統行事と言えば、伝統行事ですね。

11月15日という日にちについては、
陰陽道の説く、一年中で最高の吉日に当たるのがこの日で、江戸時代に5代将軍・徳川綱吉の息子・徳松の祝儀を大々的に行った事から、庶民の間に、「この日は良い日なんだ~」という印象が植えつけられたのと、農村では11月が収穫の季節であり、祭りが鬼が出ない満月の15日に行われる事が多かったためだと思われますが、明治になって7歳・5歳・3歳が一緒に、11月15日に祝うようになるまでは、どの行事も、お正月の吉日やその子の誕生日といった、それそれに違う日にやっていた行事だったんです。

まずは、3歳の子供『髪置き』・・・

これは、昔の子供は赤ちゃんの間は、みんな丸坊主に剃っていた髪の毛を、「この日から伸ばすぞ!」という行事で、その日から頭頂部を伸ばして、いずれくくり始める・・・という、言わば赤ちゃん卒業の行事です。

江戸時代になってからは、さすがに女児だけは、坊主ではなく、伸ばしていた髪を一つに結ぶという『髪立て』という儀式に変わったところもあるそうですが、“赤ちゃんを卒業”という意味は同じです。

次は、5歳の男の子が初めて袴をはく『袴着(はかまぎ)・・・

多くは、子供を碁盤の上に立たせて、恵方に向かせ、袴を左足で踏み、右足から履かせるという儀式を行いますが、普通に袴を履かせるだけ・・・というのもありました。

そして、最も重要なのは7歳の女の子の儀式『帯解き』・・・

これは、それまで着ていた紐つきの幼児の着物をやめ、大人と同じ四つ身の着物を着て帯を締める儀式です。
これは、『四つ身祝い』『紐解き』『紐落し』などと呼ぶ地方もありました。

この7歳が大事なのは、ここが大人と子供の別れ道とされていたからです。

昔は「七歳までは神のうち」とされていて、それまでは、神社のお祭りなどで、神様の代役、あるいは神様に近い重要な役目をする事が多かったのですが、7歳からは、その地の氏神様の氏子となり、村の「子供組」などに参加して、集団生活を経験させるスタートとなる年齢が7歳だったのです。

♪通りゃんせ 通りゃんせ
 ここはどこの細道じゃ
 天神様の細道じゃ
 この子も七つのお祝いに
 お札を納めに参ります
 行きはよいよい帰りはこわい・・・♪

この歌の「行きはよいよい、帰りは怖い」の部分。
七つのお祝いなのに、なんで?帰りは怖いのか?

それは、さきほどの「七歳までは神のうち」に関連しています。

神様だった子供は、人間になるにあたって、一つの目に見えない精神的な、あるいは霊的な節目を越えなければなりません。

実はその時、その中で人間になれない子がいるのです。
当然、その子は神様のもとに据え置かれる事になるのです。
「神様に連れていかれる」・・・つまり、神隠しを意味しているのです。

神様に連れていかれるかも知れないから「こわい」・・・でも、それを踏み越えれば子供は大人の仲間入りとなるのです。

3歳・5歳・7歳という年齢なのは、奇数を陽数とする中国の思想からきている数字であると思われますが、今も、7歳になると小学校に入学して、初めて(幼稚園は義務教育ではないので・・・)集団生活をする・・・というのは、このなごりなのかもしれませんね。

ただし、先ほども言いましたように、明治の頃までは、これらの行事はお誕生日にやったり、正月にやったり、あるいは、“帯解き”の行事を3歳ですませてしまうところもあったり、逆にまったく何もやらなかったり・・・と地方によって様々でした。

ごくごく簡単に言いますと、それまでは、庶民の間で、日にちも様式も各地でバラバラに行われていた子供が大人になるための行事が、明治に入ってひとまとめになったのが七五三・・・という事ですね。

Titoseamecc 今日のイラストは、
『千歳飴』の袋に書いてありそうな華やかな絵を書いてみました~

この千歳飴に何度、治療ずみの歯の埋めてるヤツを取られたことか。
最近のは、一つ一つ紙に包まれた普通の飴ちゃんが入ってる事もあるそうですが・・・。
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2007年11月14日 (水)

天武天皇も奥さんに怒られた?日本のギャンブル「双六」の歴史

 

11月14日は、全国遊技業協同組合が設立した「パチンコの日」だそうです。

・・・・・・・・・

パチンコの元になったのは、アメリカで生まれたコリントゲーム

スマートボールとも言いますが、台が斜めになっていて、「玉をはじくとコロコロ転がって釘をすり抜けながら連なった穴に入り、縦横斜めに並べばOK!」という、卓球とともに温泉には欠かせないアレです。

昔は、夏休みの工作なんかに作ったりもしました。

そんなコリントゲームの台が縦になって日本に伝わり、昭和五年(1930年)11月14日には名古屋で、パチンコ店・第一号の営業が許可されたそうですが、全国的に大流行し始めるのが、太平洋戦争が終ってまもなくの頃・・・。

娯楽の少なかった時代に、突如として現れ、またたく間に大ヒットとなったのです。

それにしても、パチンコに限らず、そして、洋の東西を問わず、どうして人はこんなにギャンブルが好きなんでしょうねぇ??

以前、『いい碁の日』(1月15日参照>>)にも書かせていただきましたが、ああいうのを見ると、「時代が変わっても同じなんだなぁ」って、遠い昔の人に親しみを感じたりします。

ドイツの賭博研究家(そんな肩書きあるんや!)の名言に、「賭け事は人類とともに発生している」というのがありますが、ホント、おっしゃる通り、きっと、ヤリでマンモスを追っかけてた時代からあったんじゃないか・・・なんて気もしますね。

文字よりも先に誕生してたりなんかして・・・

ただ、こういう系は記録に残り難いような???
記録として残ってないと歴史としては語れませんからね~。

・・・で、日本で最も古いギャンブルの記録は・・・やはり『日本書紀』にあります。

「天武天皇十四年、大安殿に御し、王卿をして博戯せしむ」
天武十四年と言えば、西暦685年

いい碁のページに書きましたように、囲碁が中国から伝えられたのが大宝律令の701年頃とすると、やはり、こちらのほうが15年早い事になります。

・・・で、この時、何をして賭けごとが行われたかと言いますと、それは「双六(すごろく)です。

Hikonebyoubu6sugoroku1200a
「彦根屏風」に描かれた双六に興じる人々(彦根市蔵)

これは、今、皆さんが思い描く双六ではなく、『盤双六』という、約30cm~40cmくらいの双六盤に向かい合って、二人で勝負する双六です。

白と黒のコマを15ずつ持ち、竹筒に入った2個のサイコロを振り、出た目の数だけコマを進め、早く相手の陣地にたどり着いたほうが勝ち・・・というルールでした。

もちろん、この時は、「天皇自らが勝負する」という事ではなくて、おそらく「天覧試合」という形で行われたのでしょうが、天武天皇以下、多くの人の目を釘付けにした事は確かでしょうね。

『万葉集』には、
♪ひとふたの 目のみにはあらず 五つ六つ
  三つ四つさえあり 双六のさい♪

・・・なんて歌も詠まれているくらいですから、きっと宮中で大流行したんでしょうね。

・・・で、そうなってやりすぎると怒られるのが世の常です。

もちろん、日本書紀には、「天武天皇が嫁の持統天皇に怒られた」とは書いていません。

日本書紀は政府の公式文書ですから、もし、仮に怒られたとしても、そんな事は書くわけないですし・・・。

実は、天武天皇は、この双六の天覧試合のあった翌年・686年に亡くなっているのですが、その後を継いで、持統天皇として即位したのが奥さんの鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)・・・その夫の死から、わずか3年後の持統三年(689年)12月8日に、『双六禁止令』を出しています。

なんか、想像ですが「奥さん、メッチャ怒ってはりますやん!」
・・・て、感じしませんか?

しかし、この禁止令は、その後も度々出されているので、やっぱ、いくら禁止しても、人間、なかなかやめる事ができなかったんでしょうね。

多少の金品も動いていたようですし・・・。

やがて、室町時代の頃には、この盤双六は完全にバクチと化してしまい、その後の江戸時代には、双六の道具の一部であったサイコロのみで賭ける・・・そう、あの時代劇でよく見る「丁か?半か?」というバクチの王道をたどる事になります。

こうして、盤双六がすたれる一方で、逆に、『絵双六』という、お正月によく見るお馴染みの双六が登場してきます。

このパターンの双六は、寛文年間(1661年~1673年)に、『仏法双六』と呼ばれる物が最初とされています。

仏法双六は、わかりやすい絵が書かれた物で、「良い目が出ると極楽に行き、悪い目が出ると地獄に落ちる」という人生ゲームさながらの双六でしたが、これは天台宗の教えを、若い僧に目で見てわかるように教える教材として生まれた物でした。

やがて、こちらは江戸時代には、「江戸をスタートして京都であがり」となる『道中双六』や、「田舎から出てきた少年が、ちゃんこ番から幕下になり、苦労の末、やがて横綱になる(かわいがりは無し)という『出世双六』など、子供の遊びの定番として今に伝えられるようになったのです。

以上、今日は、『パチンコの日』という事で書き始めたのに、途中から、双六の話になってしまいました~
パチンコやらないもので・・・申し訳ないっす<(_ _)>
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2007年11月13日 (火)

京都の紅葉の穴場・今熊野観音寺と来迎院

 

今日は、京都の紅葉のお話です。

今年は夏が暑かったせいで、やっと近畿の紅葉も色づきはじめましたね~。
この季節になったら、オススメしようと、思っていた私の一押しの場所があるんです~。

このブログのフォトアルバムに昨年の紅葉の写真をupしているので、見て下さってるかたもいらっしゃるかも知れませんが、私がオススメするのは、京都・東山にある今熊野観音寺来迎院です。

Kouyoutoufukuzicc テレビなどでも、紅葉の名所として紹介される東福寺・・・
確かに東福寺はすばらしいのですが、その分人の数もスゴイのです。

平日だろうが、天気が悪かろうが人人人・・・で、ゆっくりと紅葉を愛でる・・・という風にはいきません。

だからと言って、京都・・・いえ全国でも屈指の名所ですから、紅葉の季節に京都を訪れたのに、東福寺を外す・・・というのももったいない・・・。
天通橋からの眺めは、「紅葉の海」と称されるように、一面の紅葉を眼下に望む事ができます。

Kouyoutoufukuzitizucc ただ、私が言いたいのは、ほとんどのかたが東福寺だけを見物して帰ってしまわれる事です。

確かに、遠方から来られたかたにとっては、「清水も見たいし、嵐山も見たいし・・・」というお気持ちもわかります。

・・・が、ぜひとも、今年は、東福寺に行かれましたら、その足で泉湧寺まで歩いてみてください。

東福寺→今熊野観音寺→来迎殷→泉湧寺と回っても、2~3時間・半日あればOK!

Kouyouimakumanokannonnzi2cc

東福寺の北門から、今熊野観音寺の別れ道まで、2~30分くらいだったと思います。
・・・とにかく歩くのに苦にならない距離で、今熊野観音寺から来迎院・泉湧寺は、お隣同士と言ってもいいくらいの近さです。

Kouyouimakumanokannonnzicc今熊野観音寺と来迎院は知る人ぞ知る紅葉の名所・・・穴場です。
山を包む紅葉の中、ゆっくりと、たっぷりと、その美しさに感動できます。

空海が自ら観音像を刻んで安置したのが始まりとされる今熊野観音寺・・・本堂の前には、枝の先から下へ、一ヶ月かけてゆっくりと色を変える樹齢350年の「五色カエデ」という名木があり、西国三十三ヵ所観音霊場・第十五番めの札所にもなっています。

Kouyouraigouinniwacc お隣(と言っても、今熊野観音寺の境内が広いので、その分は少し歩きます)の来迎院は、境内の紅葉はもちろんの事、含翠(がんすい)の庭という庭園の紅葉も魅力です。

Kouyouraigouintyasitucc  

このお庭には、含翠軒という茶室があるのですが、この茶室は、忠臣蔵(12月14日参照>>)で有名な大石内蔵助が建てた物・・・彼はここで、茶会と称しては何度も、赤穂の浪士と密談を交わしたと言われています。

まさに、時間の流れが止まったかのような静けさ・・・紅葉を独り占めって感じです。

そして、またまたお隣の泉湧寺へ・・・
泉湧寺は有名なお寺なので、行かれたかたも多いでしょうが(私も小学校の遠足で行きました~)、ご存知のように、境内には紅葉はありません。

Kouyousennyuzicc 奥まったところに、御所から移築された御座所という建物があり、その御座所にある庭園が紅葉の名所です。

こちらの紅葉は、お庭ですから、色とりどりの木々と石や灯籠の、計算されつくした配置に、これまた感動です。

そして、もし、まだ時間がおありでしたら、東大路通りを北へ2~30分ほどで、以前ブログでご紹介した長谷川等伯の襖絵のある智積院(2月24日参照>>)へ行けます。

智積院のお隣は、あの伏見城の血天井のある養源院(7月19日参照>>)
そのおとなりは、有名な三十三間堂・・・と、歴史ファンにはたまらない名所揃いですが、東福寺から三十三間堂まで巡る場合は、やはり4~5時間は必要です。

さぁ、この秋、京都へお起しの皆様・・・たっぷりと紅葉を愛でて、楽しい旅になる事を願っております~。
もちろん、私も、たっぷりと楽しませていただきます。

・‥…━━━☆

東福寺から泉湧寺へのくわしい行き方はHPでどうぞ>>

 
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2007年11月12日 (月)

里見VS後北条~鎌倉・鶴岡八幡宮の戦い

 

大永六年(1526年)11月12日、安房の戦国大名里見氏が、相模後北条氏の拠点である鎌倉を攻撃しました。

・・・・・・・

戦国時代の幕開け、華やかにその舞台に踊り出た相模(神奈川県)北条早雲

Houzyouuzituna300a その早雲からバトンを渡された二代目・北条氏綱でしたが、時代は、まさに群雄割拠・下克上の真っ只中で、隣国・安房(千葉県南部)里見氏とは、常に一触即発の関係にありました。

大永五年(1525年)には、里見の水軍が三浦半島に押し寄せ、上陸作戦を試みましたが、この時は、後北条方の奮戦により、水際で防ぐ事ができました。

そして、翌年・大永六年(1526年)11月12日里見氏は、再び江戸湾を船で越え、三浦半島に攻め寄せました。

この時の里見の軍勢は、大小合わせて数百隻の軍船を率いた大軍ですから、今回ばかりは小競り合いでは収まらない、本格的な侵略戦争の色濃いもの・・・って言っても、この時代は取ったり取られたり、初代の早雲だって他人の事、言えた義理じゃありませんからね~。

鎌倉に上陸しようと、怒涛のごとく押し寄せる里見の水軍・・・北条もあわてて船を出して応戦します。

しかし、水際の戦いでは、周到な準備の末に挑んで来た里見に軍配が上がります

里見方は、軍船の正面におとりの人形をしつらえ、散々、北条を挑発し、相手が疲れ果てたころあいを見計らって、今度は一斉に、石や木材を投げつける・・・その間に別動隊が岩陰に潜み、前に出た北条勢に、からめ手から奇襲をかける・・・といった作戦で、12月15日見事!鎌倉への上陸に成功します。

勢いづいた里見軍は、そのまま西方向へと進み、鎌倉の市街戦へと突入しました。

ご存知、鎌倉は鶴岡八幡宮の門前町・・・この戦いの兵火によって、鶴岡八幡宮は社殿などを失ってしまいます。

しかし、さすがに戦争を試みた里見氏も、この鶴岡八幡宮を焼くつもりは、さらさら無かったようで、源氏の守護神である宮を焼いてしまった事を、ことのほか後悔していたようです。

なぜなら、結局、この後すぐ、軍船を引き連れて安房に戻ってしまうからです。

もちろん、北条の守りの強さもあったでしょうが、意気込んで多勢の軍船を率いてきたわりには、あっさりと帰ってしまうのです。

・・・よって、この戦いは、北条の勝利と見る説と、里見の勝利と見る説とに別れる事になります。
ま・・・このブログ上では、引き分けという事で・・・。

ところで、この合戦。
北条側の大将は当然、二代目の北条氏綱という事になりますが、里見側の大将が、里見義豊(よしとよ)なのか?、里見義堯(よしたか)なのか?というところが、また微妙なのです。

大軍を率いてやって来た大将が諸説ある・・・というのもヘンな話ですが、それは、里見氏の内紛・後継者争いによるものなのです。

新田氏の流れをくむという里見氏の三代目当主・里見義通(よしみち)が亡くなって、その後継者は長男の義豊が受け継ぐのですが、彼が幼いという理由で、義通の弟・実堯(さねたか)が後見人として着く事になります。

しかし、一旦実権を握った実堯は、何年たっても義豊に当主の座を戻しません。

実は、今日の鶴岡八幡宮の戦いも、一人前になったかどうか、義豊の実力を見る合戦であったのですが、この合戦が終った後も、なんだかんだと言って居座り続けます。

先代からの重臣からは徐々に不満も出始めた所で、義豊は、実堯を襲撃し殺害するのです。

しかし、それを目の当たりにした実堯の息子・義堯が黙っていません。
もう~名前がややこしいなぁ~
とにかく、義豊と義堯はいとこ同士って事です。

天文三年(1534年)4月6日「父の仇討ち」と称して兵を挙げて稲村城を攻撃した『稲村城の戦い』で義豊を自害に追い込んだ義堯・・・結局、この後、里見の家督は義堯の息子へと受け継がれるのです。

この一連の内紛は、鶴岡八幡宮の戦いの後に起こった出来事なのですが・・・つまり、ここで勝者となった義堯が、自分が本来の後継者である義豊を討った事を正当化するために、歴史を書き換えた可能性があるとされているのです。

近年見つかった古文書によれば、「義豊は家督を継いだ時にはすでに元服していて、叔父・実堯が後見人になる事はなかった」とされていて、それなら、鶴岡八幡宮の戦いの大将は義豊・・・という事になります。

しかし、従来の通説によれば、合戦当時は事実上、実堯が家督を継いでいて、その息子の義堯が大将という事になります。

とにかく、戦国時代という時代はまだまだ序の口・・・当主が変ろうがどうしようが、これから先、北条VS里見の抗争は、足利家の公方を巻き込んで、更なる展開を見せる事になります。

・‥…━━━☆

北条VS里見の【第一次・国府台合戦】へはコチラからどうぞ>>
 

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2007年11月11日 (日)

佐々成政の北アルプスさらさら越え

 

天正十二年(1584年)11月11日、織田信長の次男・織田信雄が、独断で、羽柴(豊臣)秀吉との講和を受諾しました

・・・・・・・・・・

織田信長本能寺の変(6月2日参照>>)で倒れた時、信長とともに長男・信忠が亡くなり、その後継者の候補は、柴田勝家の推す三男・神戸信孝と次男・信雄、そして、羽柴秀吉の推す信忠の息子・三法師の三人。

信長の死後に開かれた後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)の中で、秀吉が重臣・丹羽長秀を抱き込んだ事と、滝川一益が会議に遅れた事により、後継者は三法師に決定しますが、もちろんそれは、幼い三法師の後見人となって、天下の実権を握ろうする秀吉の策略です。

清州会議の決定に納得のいかない織田家一番の家臣=柴田勝家を賤ヶ岳の合戦で破り(4月21日参照>>)、三男・信孝は自害(5月2日参照>>)に追い込んだものの、途中まで、秀吉の味方だった次男の信雄が、徐々に、秀吉の勢いに脅威を感じはじめます。

やがて、この信雄が徳川家康を頼った事から、天正十二年(1584年)3月、「秀吉VS家康+信雄」の戦いが勃発します。

この時の一連の合戦が小牧長久手の戦いと呼ばれる戦いです。
 (3月12日:亀山城攻防戦>>)
 (3月13日犬山城攻略戦>>)
 (3月17日羽黒の戦い>>)
 (3月28日・小牧の陣>>)
 (長久手の戦い4月9日>>
 (蟹江城攻防戦6月15日>>)

はっきり言って、この小牧・長久手の戦いは、家康・信雄連合軍の勝利

しかし、もはや天下に一番近いところにいる秀吉・・・政治的には大勢は変わらず、敗戦後も、相変わらず秀吉有利でした。

そんな中、秀吉が下手に出て、信雄に和睦の話を持ちかけます

家康を入れず、信雄だけにこの話を持っていったところが、秀吉の作戦勝ちですね。

天正十二年(1584年)11月11日(15日の説もあります)、信雄は、伊賀伊勢半国の割譲を条件に講和を、独断で受け入れてしまいます。

もともと、「信長の後継者は誰か?」というところから始まった一連の戦いです。

担がれていた主役が、勝手に「神輿(みこし)を下りてしまっちゃぁ~、他の武将に戦うための大義名分は無くなってしまうわけで・・・(11月16日参照>>)

家康は、次男・於義丸(後の結城秀康)を、秀吉の養子として大坂に送る事で、小牧・長久手の戦いの幕を引きました

中心人物の相次ぐ講和で困惑したのは、地方で戦っていた武将たちです。

家康の誘いで、反・秀吉側にまわり紀州で戦っていた根来衆も、四国で戦っていた長宗我部元親も・・・

中でも、困り果てたのは、越中・富山佐々成政(さっさなりまさ)です。

織田派だった成政は、それこそ信雄のために家康側に味方し、去る8月に秀吉側の前田利家一戦交えてもいます(8月28日末森城の攻防戦・参照>>)

西に加賀(石川県)の前田利家、東には、これまた秀吉派の越後(新潟県)上杉景勝がいます。

さぁ、どうする?成政。
「何とか、家康に会って話がしたい・・・」
もちろん、彼は、今回の講和にも反対だったので、直接会ってその事も説得したかったのです。

そこで、成政、一世一代の決断・・・真冬の北アルプス立山越えを決行するのです。

11月23日、成政は城を出ると、立山の麓・芦峅寺(あしくらじ)に行って、村の猟師に道案内を頼みます。

実は、この芦峅寺の猟師さんたち・・・あの昭和の一大プロジェクト・黒部ダムの建設の時にも、名だたる冬山登山家がさじを投げ出したという極寒の立山に、多くの機材を担いで道案内をし、「彼らなくしてはダムの建設は成しえなかった」と言わせた人々・・・その人たちのご先祖様なのです。

黒部ダム建設の時は、関わったスタッフがこの芦峅寺の猟師さんのズゴワザに気づくまで、しばらくの時間を要したようですが、地元の成政さんは、さすが!、すでに彼らの腕を知っていたようです。

富山には、この時の話が民話として伝えられています。

・・・・・・・・・・・・・

成政一行が雪深い山道を歩いていると、遠くにあかりが見えます。
近づくと小屋があって、中では老人が二人、囲炉裏(いろり)にあたっています。

「あんたら、なんで、こんな山ん中に住んどられるんがけ?」
・・・と、成政が聞くと、二人は源平の合戦で敗れた悪七兵衛景清(あくしちひょうえのかへきよ)と、五十次郎嵐兵衛盛継(いがらしじろうひょうえのもりつぐ)という平家の武将だと名乗ります。

驚いた成政が、源平の合戦が400年前の出来事である事を告げると、老人たちも「もう、そんなに月日が経ったのか・・・」と驚きます。

景清・盛継と言えば、平家でもその名が知れた猛者・・・ここは、本物なら、ぜひ、その力を見せてくれ・・・と成政が頼むと、老人たちは、サッと雪の中に飛び出し、それぞれ山のような大きな岩を、軽々と持ち上げたかと思うと、「エイッ!」と谷底へ投げ落としました。

成政は、この二人不思議な老人から、信州に抜ける道を教えてもらい、無事に山越えをする事ができましたが、二人の老人は成政に道を教えた途端、かき消されるように姿を消し、小屋も跡形もなく消え、一面の雪世界が残っただけだったそうです。

・・・・・・・・・・・

命がけの立山越えを決行した成政ご一行が、信濃(長野県)上諏訪に到着したのが12月1日、そこから南に下って、やがて12月25日(12月4日とも)遠江・浜松城に到着・・・

家康に面会して、秀吉との徹底抗戦を主張しましたが、残念ながら、彼の望みは聞き入れてはもらえず、結局、とぼとぼと、もと来た道を帰る事になるのですが、考えてみれば、近代装備を持たない中での、冬の北アルプス越えは、登山史上に残る快挙です。

はっきりしたルートはわかりませんが、佐良峠という峠を越えていったという事で、この成政の北アルプス越えを『さらさら越え』と呼ぶそうです。

わたくし、仕事の関係で十年ほど富山に住んでおりましたが、地元という事もあって、富山では、今でも佐々成政ファンの人がかなり多いです。

JR富山駅では、人気の「ますのすし」と一緒に「佐々成政弁当」も売られているくらいですから・・・。

上記の富山の民話・・・さすがに、平家の落ち武者登場は現実にはありえない話ですが、そんな成政ファンの富山の人たちが、「奇跡にも近い快挙を成し遂げたわが殿様には、天が味方についとるがいね~」といった気持ちで、後世に伝えていったものではないかと思っております。

★その後の成政さんについては
【小牧長久手余波&越中征伐前哨~阿尾城の戦い】>>
【秀吉VS佐々成政~富山城の戦いin越中征伐】でどうぞ>>
 

Sarasaragoecc 今日のイラストは、
さらさら越えの佐々成政さん。

今日は信雄さんが、勝手に講和を結んじゃった日ですが、やはり話題の主役は成政さんなので・・・

バックは、冬の間眠っていた立山が、立山アルペンルートの開通とともに目覚める5月・・・以前、雪の大谷を見に行った時の写真を使用しました~場所は室堂付近です。

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
翌年6月24日:阿尾城の戦い>>
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2007年11月10日 (土)

「トイレの日」なのでトイレの歴史

 

11月10日は、「いい(11)(10)イレ」の語呂合わせで、日本トイレ協会が制定した「トイレの日」なのだそうです。

もう一つ、日本衛生設備機器工業会が制定した8月10日「トイレの日」なのですが、とりあえず・・・という事で、今日はたぶん・・・いえ、絶対に教科書には載らない「トイレの歴史」について書かせていただきます。

その恥ずかしさからか、何となくタブー視された感があるトイレ談義ですが、考えて見れば食べるのと同じくらい人間にとっては重要な事です。

なので、本文中には、少々不適切な発言があるかも知れませんが、本人はいたってマジメに歴史として書いておりますので、そこんところはご理解くださいませ。

・・・・・・・・・

そもそも遠くは紀元前4500年・・・その頃のインダス文明には、すでに下水が完備され、「流れる水に用をたす」というトイレの観念があったにも関わらず、ヨーロッパには、18世紀頃のあの美しい宮殿にさえもトイレがなく、「水に流す」という観念がなかった・・・それほど、トイレ文化というものは、多種多様に分かれている物なのです。

日本では、水が豊富だったせいか、神代の昔から「小川の上に板を渡し、その上にまたがって用をたす」という一種の水洗トイレのようになっていました。

やがて、そこに簡単な小屋を掛けて、周囲の視線をさえぎるといった感じになります。

トイレの最もポピュラーな昔の呼び方『厠(かわや)は、この「川屋」からきている・・・というのが一般的な語源です。

もう一つ、なぜか、トイレは北東=鬼門の方角に造られる事が多く、家の北側にあるので「側屋」が「厠」になったとも言われています。

万葉・奈良時代の頃までは、そんな感じで、もよおしたら外に出て川で・・・という風に行っていましたが、平安時代の寝殿造の頃からは(12月17日:【平安貴族の住宅事情】参照>>)(ひ)まり箱といった「おまる」のような物に致した後、川に捨てに行っていました。

樋というのは、いわゆる雨樋(あまどい)「とい」で、やはり昔からの「モノは水に流す」という事からそう呼ばれたのでしょう。

一般庶民や農村などでは、穴や桶にためておいて、田畑の肥料に使うようになります。

やがて、室町時代になると北山文化・東山文化、そして禅宗の普及によってトイレは飛躍的に発展します。

書院造には畳敷きのトイレが設置され、上級の武士などは必要以上に広く、その器にも塗りを施し、美しさも競われます。

ただし、「大きいほう」の後に紙で拭くのは、まだまだ先・・・有史以来、日本人は、主に手で拭いていました。
小野小町静御前も拭いてました。

だからこそ、トイレの横には必ず「手水(ちょうず)が設置され、しっかりと手を洗う習慣ができたのです。

手以外では・・・
・・・イタイ!
・・・ピンポイントやなぁ
ワラ・・・う~んワイルド~
海草・・・どっから持ってくる?
木片・・・ゆるい時はビミョー
葉っぱ・・・許される範囲だ
・・・などが使用されていたようで、あの「♪コレッくらいの、おべんと箱に、おにぎりおにぎりチョィットつめて・・・♪」の歌でお馴染みの、「す~じの通った蕗(ふき)などは、葉っぱをソレに利用していた事で、「フキ」という名前になった言われているくらいです。

この頃は、まだ、紙は貴重品ですから・・・紙で拭くようになるのには、やはり江戸時代まで待たなくてはなりません。

Toufukuzitousugaikancc ところで、この室町時代のトイレの発展に一役買ったのは禅寺で、トイレの事を別名『雪隠(せっちん)とも呼ぶのは、中国にある禅寺の名前からきているのです。

 
禅寺には、たくさんの修行僧がいます。
その修行をする最も重要な場所が、坐禅をくむ「禅堂」という建物なのですが、その禅堂の横には必ず「東司(とうす)という建物が置かれるのです。
この東司がトイレです。

Toufukuzitousucc 京都・東山にある東福寺には、日本最古で最大の東司が現存しています。

通称「百間便所(百雪隠・ひゃくせっちん)と呼ばれる東福寺の東司の床には、ズラ~っと穴が・・・もちろん数は百より少ないと思いますが・・・。

手前3つが大用、奥が小用で、ちゃんと手洗い場も同じ建物内にあります。
もちろん、直接ではなく、この穴の上に、桶や壷を置いてするのですが、東司の使用に関しては、ちゃんとルールも決まっていました。

Tousunaibucc

まず、着衣を整え(急ぐ時はたいへんだ!)、人の迷惑にならないようちゃんと列に並び、怒る事、笑う事は禁止(前の人で音が出た際はこらえきれないかも・・・)
中の人をせかしたりしない(確かに・・・)、そして、する前にも手を洗い、右手に水の入った桶を持って左手で扉を押して入ります。

中に入ったら、厠に登り(高くなっていたようだ)、足場に足を置いて、桶に座って用をたし、備え付けの木製の三角柱で拭き、使用後、この木製の道具は、水の入った筒に戻します。

右手に桶を持って水を注ぎ、左手でそれを受けて、まわりをきれいにしてから、桶を持って外に出ます。

係りの所に桶を返したら、手を洗うのですが、まず石で洗い、それから水で3度洗い、今度は土で洗い、またまた3度水で洗い、次に橘の実を粉にした物でもみ洗い、最後にまたまた水で、腕のほうまで洗う事・・・だそうです。

けっこう清潔です。
しかも、東司内には、給湯用の釜や、手を乾かすための香炉まであったというから驚きです。

もう、このあたりで、トイレの入り方のマナーは確立されていたに等しい感じですね。

やがて、戦国時代になって茶の湯が流行すると、茶室の待合などに、「砂雪隠」なるものが設けられます。

これは、砂を敷きつめたところに、足場となる石を数個配置したもので、高貴なお方専用・・・千利休豊臣秀吉のために考え出したと言われています。

そして、江戸時代・・・将軍のトイレには、一間(約1.8m)四方の部屋に、白木でできた「御用箱」なる物と、塗りの「御樋箱なる二つの箱が設置されています。
(たぶん「塗り」が小用)

この二つには、どちらも底の部分に引き出しがついていて、中に紙が敷かれています。
将軍様が御用をあそばすと、すぐに引き出しが引き出され、新しい引き出しと交換するシステムになっていました。

この木の箱が、やがて陶器に変わるのは、文政の終わりから天保にかけての頃(1829年頃)で、あの滝沢馬琴も、天保三年(1832年)の日記の中で、「今日、ウチは陶器のヤツに取り替えるんだ」と、まるでテレビがやってくる三丁目のように喜んでいます。

ただ、当時は、排泄物は立派な肥料なので、「道端や庭などに桶を置いておいて、たまると農家の野菜と交換したりしていた」という話も残っているので、けっこう道端で通りすがりの人が、桶に向かって・・・いや、背を向けて、半かがみになっておしりを突き出した感じでやってたみたいですね。

もちろん、女の人も・・・。
それに関しては、目撃した馬琴さんも「恥じるいろなく、笑う人なし」って書いてますから、別に普通だったんでしょう。

まぁ、着物だと何となく見え難い感がありますから、いいですけど(ええんかい!)、ジーンズだと、丸見えになるので、やっぱり今はできませんね。

Senpukantirecc そう言えば、以前大阪泉布観に行った時のブログに貼ったトイレの写真をもう一度ご紹介しておきます。

泉布観は、造幣局の応接所として明治四年(1871年)に建てられた大阪最古の洋館ですが、もうすでに現在の和式トイレ(今は少ないですが・・・)と、変わりのない物になっています(3月25日:泉布観のページへはコチラから>>)
しかも、水洗とは、驚きですね。

Kosmoscc 今日のイラストは、話題が話題なので、とってもいい香りがしそうな爽やかな雰囲気で・・・

一応、秋桜・・・コスモスのつもりです。
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2007年11月 9日 (金)

「えと」十二支の由来・意味と年賀状イラスト

 

そろそろ年賀状を準備しないといけない時期ですね~
皆様はもう、準備されましたか?

私はまだまだ・・・、年賀状に使えそうなイラストをいくつか書いてみましたが・・・って事で、今日は、書いたイラストを見ていただきなから、干支(えと)・十二支の由来なんぞお話させていただこうかと思います。

2008indoormamacc_3

十二支は、もともと中国のの時代(紀元前1500年頃)に、一年を12ヶ月に分けた月の呼び方として使われはじめました。

「支」木の枝を表し、12段階の草木の生長ぶりをその名称として使用したのです。

Nezumiindoormamacc_2 12個あるうちの最初は、来年のえと・「子(ね)ですよね。
この「子」というのは、「根(ね)の事で、草木の種が発芽の準備をし始めるスタートの時・・・冬至を含む12月(旧暦の11月)の事を、こう呼びました。

十二支にそれぞれの動物が当てられるようになったのは、戦国時代(中国の戦国時代なので紀元前400年頃です)からで、これは文字を読めない人々のために、絵で月を表すよう考え出された物で、本来のの名前が持つ草木の様子に、動物の特徴や雰囲気を当てはめたものなのです。

「冬至という陰と陽の別れ道=すべてが0になって新しくスタート」するという事で、「前足の指が4本で後ろ足の指が5本=五陽四陰の動物=ネズミ」という事でネズミになったそうですが、ちょっと、この選び方がわかり難いので、次のわかりやすい「丑」で、もう一度説明します。

「丑(うし)「紐(ひも)からきています。
紐がからまる様子が、種から芽が出始めた草木が、うねうねと地中の中を這う様子に似ているので、その季節にあたる月=1月(旧暦12月)が、この名前で呼ばれる事になり、その性質が従順で忍耐強く、ジッと我慢して芽が春を待つ感じをイメージするところから、動物ではが選ばれたのです。

Nezumi3indoormamacc 念のためにもう一つ・・・

「寅(とら)というのは「演」からきているのですが、この「演」という字はもともとの語源が「延」で、のばすという意味を持っています。
(余談ですが、ワザをのばすので演技と言います)

草木が地中から芽を出してのびていく季節にあたる月=2月(旧暦の1月)という事です。
そこで、動物は、のびのびと威勢のいい感じになりました。

へたくそな説明ですが、ちょっとわかっていただけましたでしょうか?

では、残りの、それぞれの月の草木の様子を表す元になった文字とその意味を書きますので、えとの動物がイメージできるかどうか、試してみてください。

「卯(う)=「茆(しげる)3月(旧暦:2月):地上に芽を出した草木が活発に地面を這うように茂る。動物=うさぎ

「辰(たつ)」=「振(ふるう)4月(旧暦:3月):春もたけなわで、草木の成長も最高潮!元気いっぱい活力旺盛!血気盛んなヤンチャが腕を振るいまくり~。動物=

「巳(み)」=「巳(やむ)5月(旧暦:4月):草木の生長がいっぱいいっぱいで、これ以上は成長しない・・・つまり大人になったって事、いい感じに落ち着いたってとこですね。動物=へび

「午(うま)」=「忓(つきあたる)6月(旧暦:5月):成長のピークが過ぎて衰退の道をたどりだした頃・・・ちょっと寂しい・・・。動物=

「未(ひつじ)」=「味(あじ)7月(旧暦:6月):草木の生長は止まったけど、今度は実がなる季節・・・実が徐々に甘味を出していく月です。動物=ひつじ

「申(さる)」=「呻(うめく)8(旧暦:7月):果実が成熟して、その実がギュッ引き締まる感じを表しています。動物=

「酉(とり)」=「糸酋(ちぢむ)←すみません漢字がみつかりませんでした~糸へんに酋という字です9月(旧暦:8月):果実が成熟しきったピークの状態・・・これからはちょっと下り坂。動物=

「戌(いぬ)」=「滅(ほろぶ)10月(旧暦:8月):草木が枯れて死んでいく状態ですが、冬に備えて根に英気を集める状態でもあります。動物=

「亥(い)」=「閡(とざす)11月(旧暦10月):草木は果て、生命の力が種の内部にしっかりと収まっている様子。動物=いのしし

Kotobukiindoormamacc 以上、「何となくわかる」ってのもあれば、「んん?」っていうのもありますが・・・

 

 

 

 

・・・で、まずは、月の呼び名としてスタートした十二支が、後になって年や時刻・方角を表すのにも使用されるようになったんです。

日本には月の呼び名は「睦月」「如月」なんていうのがありますから、本来、中国で月の名前として考え出された十二支が、逆に、年・方角・時刻・・・という物のほうに定着したんでしょうね。

でも、十二支の4番めが「卯」で、4月が「卯月」というのは、何か関係があるんでしょうか?
また、調べなくては・・・

ところで、今日ご紹介したイラスト・・・気に入ったのがあれば、コピーして使っちゃってくださっても結構ですので、どうぞ!

2010年用の寅のイラストは、2009年12月1日のページ【いよいよ師走~年賀状の由来と年賀状イラスト】へどうぞ>>

これまでブログにupした画像で、年賀状に使えるイラストを集めた【年賀状に使えるイラスト集】もよろしく>>
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2007年11月 8日 (木)

奈良の都の住宅事情~貧しい庶民の実態

 

神亀元年(724年)11月8日、「平城京の美観を良くするため、身分の高い者やお金持ちに瓦葺や丹(たん)塗りを許可する」という詔りが出されました・・・とありますので、今日は、奈良の都の住宅事情・農民の暮らしについて書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・

♪あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の
  (にほ)ふがごとく 今盛りなり♪
と、歌に詠まれた奈良の都・平城京・・・
Heizyoukyusuzakumoncc 写真は、奈良の平城宮跡・・・現在復元中の大極殿から朱雀門を見たところ(遠くのほうに見えるのが朱雀門です)で、これでも広~いと感じますが、ここは宮殿の跡。
都はもっと広かったわけですからね。

Heizyoukyoutizucc よく、この平城宮跡平城京跡と思ってしまいがちですが、地図を見ていただけば一目瞭然!
この何も無い広い場所は、今で言うところの永田町のような場所です。
都は、生駒山の麓あたりから、東は東大寺、南は現在の郡山市あたりまでありました。

教科書などに載っているような平城京の模型などを見ると、波のように重なる甍(いらか)に朱塗りの柱が整然と・・・と、想像してしまいますが、上記のように『神亀元年(724年)11月8日、平城京の美観を良くするために瓦葺や丹塗りを許可』とあるところを見れば、和銅三年(710年)に平城京に都を遷してから、このあたりまでは、けっこうなお金持ちでも、瓦葺の屋根ではなかった事がわかります。

おそらく、平城宮の宮殿と一部の高級官僚だけが、あのような建物に住んでいたんでしょうね。

とは言え、以前、平城京遷都のページで書きましたように、そんな美しい都を、実際に造営したのは、かりだされた農民たちです(3月10日参照>>)

平城京の人口は約20万人と言われていますが、そのうちの19万人は貧しい農民たち。

律令制度によって、農民たちは厳しい支配下に置かれ、それぞれに与えられた田で採れた稲を納める『祖』、労働力を捧げる『庸(よう)、各地の特産物を献上する『調』という三つの税を徴収されるばかりか、働き盛りの男手には、任期一年間の衛士(えじ・宮殿の門番とか…)や任期三年の防人(2月25日参照>>)なる任務がまわってくる事もあるわけです。

そんな血税は、以前、大宝律令の完成のページ『今も昔も役人天国(8月3日参照>>)でご紹介したように、一部の高級官僚のメッチャ高い給料になるんです~またまた腹が立ってきましたね~。

そんな庶民の家は・・・というと、実は、まだ古墳時代の竪穴式住居
木材や瓦は高くて買えませんし、自分たちで建てるのだってムリですからね。

古墳時代と違うところと言えば、外にあったかまどが、中に造られるようになったくらいで、ほとんど変わらない物にず~っと住んでたんです。

ですから、国が『平城京の美観を良くするために瓦葺や丹を許可』・・・いや『命令』したって、一部のお金持ちしか建て替えなんてできません。

この頃の大臣たちは、大陸からお客様が来た時なんかは、これらの農民の家が見えないように案内・・・まるでオリンピック委員会を案内する○国のような事やってたんですよ。

かの『万葉集』に、山上憶良(やまのうえのおくら)が作った、有名な『貧窮問答歌』というのがあります。

長いので、おおまかな内容を書かせていただきますが・・・

憶良が問いかけます
「風雨の激しい夜・・・まして、それに雪がまじってるような夜は、メッチャ寒いから、アラ塩をちょっとづつかじって、粕汁飲んで・・・それでも寒いから麻のふとんかぶって、家中の服を重ね着するけど、まだ寒い・・・僕でもこんなミジメやのに、もっと貧しい君らはどうしてんのん?」

農民が答えます
「人として生まれ、人並みに働いてんのに、綿も入ってないペラペラの服しか着られへん。
つぶれかけた小屋で、地面にじかにワラ敷いて、オトンとオカンは俺の頭のほうに、嫁はんと息子は俺の足のほうに、身を寄せ合うようにして・・・あまりの苦痛に飯を炊く事も忘れて、
(こしき・かまどの上に乗せて米を蒸す道具)にはクモの巣はってしもとるがな。
せやのに、役人がムチ振り回して、寝てるとこまで来て呼び出しよるねん。
世の中って空しいなぁ。」

霊亀元年(715年)には、雑穀の生産を勧める詔りが出ますが、それまでは(あわ)などの雑穀の生産はされておらず、お米はほとんど税として徴収されるため、農民はいつも野菜しか食べていなかったようで、栄養状態も非常に悪かったのです。

彼らの対抗手段は、唯一、逃げる事・・・
田んぼも畑も家もほっぽらかして、行方不明になってしまえば、税を取られる事も、防人などにかりだされる事もありませんからね~。

でも、それは流浪の身になるという事・・・自分自身の存在感を考えると、つらいものがありますねぇ・・・。

今となっては、山上憶良の歌が万葉集に収められ、後世に残り、名もなき人々の生活の様子が少しでもわかった事が奇跡のように思えますね。

・‥…━━━☆

平城宮跡への行き方や地図はHPへどうぞ>>>
 .

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2007年11月 7日 (水)

あの東郷ターンを生んだ武田信玄の甲州水軍

 

昨日の水軍つながりで、今日は、今年の大河の主役(主役は勘助か・・・)武田信玄の水軍について、書かせていただきます。

・・・・・・・・・

海の無い甲斐の国を治める武田信玄にとって、水軍を持つ事は長年の夢

「海を制する者は宇内(天と地の間)を制す」
と、ご本人もおっしゃってるように、海への進出には並々ならぬ情熱を持っていました。

そんな信玄が本格的に水軍を編成したのは、今川義元亡き後の駿河を攻略した永禄十一年(1568年)からの事です(12月13日参照>>)

念願の海を手に入れた信玄さん・・・しかし、さすがに甲斐の国の昔ながらの家臣たちには、海の知識はほとんどありません。

まずは、今川の旧臣で清水港を拠点としていた岡部長宗興津港伊丹康直らを船大将に登用します。

それから、伊勢・駿河の海を把握しつくしていた後北条氏の間宮武兵衛間宮御酒丞(みきのじょう)らをヘッドハンティング!

さらに、伊勢の北畠氏の旧臣・小浜景隆向井正勝には、50の艪(ろ)を持つ大型の安宅船(昨日のブログを見てちょ>>)を与えて、船隊の指揮をまかせます。

・・・と、仕方が無い事ですが、ほとんど助っ人による寄せ集め軍団

それでも、信玄は、清水を拠点とした駿河湾の制海権を掌握するため、来るべき、VS後北条氏との海戦を想定した、緻密な海上作戦をも考えていたのです。

それは、孫子の兵法(3月11日参照>>)をベースにした船隊の陣形を持つ甲州水軍独特の物です。

その基本の陣形は二つ・・・

まずは、『天地人の構え』
これは、船団を三手に分け、1手は正面から、他の2手は左右から敵の側面を狙う・・・という陣形です。

もう一つは、『陰陽の構え』
これは、船団を二手に分け、1手は正戦、もう1手は奇襲攻撃をかける・・・という物です。

『陰陽の構え』は、波の様子、気象条件によって『天地人の構え』が行えないとき用の作戦です。

結局、信玄が、この水軍を出して、実際に海戦をする事はありませんでしたが、天正八年(1580年)3月15日に、息子の勝頼駿河・浮島ヶ原の合戦で、北条氏直の水軍を迎え撃ち、水軍強しの北条氏と互角に戦っています。

武田氏滅亡の後、この甲州水軍の叡智は、向井・間宮・小浜らによって、徳川家康の水軍へと受け継がれ、山鹿素行といった軍学者が『甲州流軍学書』として書き残しました。

Tougouheihatirou400 その軍学書を読んだうちの一人が、あの東郷平八郎です。

東郷はかなりの信玄兵法ファン。
信玄の出生地である甲府の積翠寺「信玄出生の地」なる碑を建立したくらいです。

東郷が、あの日本海海戦で、信玄の『天地人の構え』『陰陽の構え』を駆使し、ロシアのバルチック艦隊を破って、世界をアッと言わせたのは、信玄が水軍を組織した300年後の明治三十八年(1905年)の事でした。(5月27日参照>>)
 

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2007年11月 6日 (火)

水軍の転換期!石山合戦の第2次木津川海戦

 

天正六年(1578年)11月6日、織田信長の配下である九鬼水軍が、大坂湾・木津川口で、毛利の水軍600隻を撃破!
第二次木津川沖海戦がありました。

・・・・・・・・・・

これは、元亀元年(1570年)8月から天正八年(1580年)の8月まで、十年間にわたって続いた織田信長と浄土真宗の総本山・本願寺との戦い・・・石山合戦での戦いの一つです。

信長の上洛(9月7日参照>>)によって、畿内から敗走した三好三人衆(9月29日参照>>)、元亀元年頃、失地を回復の協力を得ようと本願寺への接近を試みます。

「そうは、させるか!」
・・・と、信長は、浄土真宗の総本山・石山本願寺を取り囲み、その地の明け渡しを要求します。

当時の本願寺の法主(ほっす)顕如(けんにょ)は、信長のその強引な態度に、真っ向から立ち向かう姿勢を見せて、全国の真宗門徒に決起を呼びかけます(9月12日参照>>)

元亀元年(1570年)8月・・・石山合戦の勃発です。

さらに、顕如は、2ヶ月前の6月に姉川の合戦(6月28日参照>>)で信長に敗れたばかりの越前朝倉義景北近江浅井長政ら戦国武将にも声をかけます。

9月には、その浅井・朝倉によって、北の守りに着いていた森可成(蘭丸の父)織田信治(信長の弟)が討死(9月20日参照>>)、11月には伊勢長島で発起した一向一揆(5月16日参照>>)によって、もう一人の弟・織田信興(信与)が自刃(11月21日参照>>)に追い込まれてしまいます。

あまりにも多すぎる敵に、信長は作戦を変更・・・朝廷に間に入ってもらって本願寺・浅井・朝倉と講和を結びます。

こうして、一つ一つ潰す作戦に出たのです。

最初のターゲットは、可愛い弟を死に追いやった長島一向一揆です。

抵抗を続ける一揆勢に散々苦しめられながらも、天正二年(1574年)9月に長島一向一揆を討伐します(9月29日参照>>)

その間に越前の朝倉氏(8月20日参照>>)北近江の浅井氏を倒し(8月27日参照>>)、さらには越前の一向一揆をも打ち砕きます。

天正三年(1575年)には、あらためて信長と顕如の間で講和が結ばれますが、結局それも、すぐ破られてしまいます。

翌年、顕如は安芸毛利輝元に声をかけ、信長との全面対決を決意します。
これには、信長によって京都から追いやられた足利義昭も大喜び(7月18日参照>>)

早速毛利方は水軍による兵糧の運搬という形で、本願寺に協力するのです。
それを阻止しようとする織田方の水軍・・・両者は大坂湾沖で激突します。
これが第一次木津川沖海戦(7月13日参照>>)です。

その時、毛利方の水軍として大活躍したのが、村上武吉(たけよし)率いる村上水軍でした・・・この時の指揮をとったのは武吉の息子・元吉(もとよし)

ちょうど、この頃は水軍の戦い方に、一大転換期の訪れた時期・・・水軍が、契約社員から戦国武将の正規軍に変わるのも、この頃からです。

それまでの水軍というのは、敵の領地の海岸線や、海に近い都市へ、突如、海から上陸して襲い、一気に暴れまわってサッと引き揚げる・・・言わばゲリラ戦・かく乱作戦の手法でした。

水軍どうしで戦う時も、敵の船にサッと近づき、怒涛のごとく乗り込んで刀で斬りつけるという方法・・・つまりマンツーマンのような形だったのですが、鉄砲伝来とともに、少しずつその戦闘形態が変わっていった真っ只中でした。

当時の村上水軍は、いち早く投炮碌(なげほうろく)なる武器をあみ出していました。

それは、火薬が詰った玉にヒモがついた物で、ハンマー投げのように相手に向かって投げ、地に落ちたところで爆発するという物で、この武器のおかげで、相手の船に乗ることなく、規律正しい船団を組み、一糸乱れぬ団体での攻撃を仕掛ける事ができました。

信長の水軍は、この戦術に見事に破れ、この時の救援物資は、無事、石山本願寺へ運び込まれる事となったのです。

しかし、皆さんご存知のような信長さんの性格・・・このまま黙っているわけはありません。

信長は、配下の滝川一益(かずます)九鬼嘉隆(くきよしたか)らに、甲鉄製の大きな軍船の建造を命じるのです。
そう、投炮碌に屈しない強固な鉄壁を持つ船です。

機動性バツグンの小型の快速船から、鉄砲・大砲を装備した大型の軍船へと水軍の主流が変わった瞬間でした。

やがて、2年後の天正六年(1578年)、再び、毛利方の水軍と織田方の水軍が大坂湾で戦います。

見た事もない鉄の船・・・しかも、投炮碌よりはるかに威力のある大砲・・・。

毛利方の主流であった村上水軍は、これらの攻撃に翻弄され、得意の一糸乱れぬ布陣を崩してしまいます。

11月6日第二次木津川沖海戦と呼ばれるこの戦いは、織田信長の勝利に終るのです。

これによって完全に孤立してしまった形の本願寺は、朝廷からの命令により、信長との講和へと向かう事になります(8月2日参照>>)

水軍のほうはと言いますと、この後、安宅(あたか)と呼ばれる、より大型の軍船が登場します。

信長亡き後、豊臣秀吉の傘下となった九鬼水軍の安宅船は、長さ十三間(約23m)、幅七間、数門の大砲を積み、海上から敵の城にさえ攻撃を加える事も可能だったと言います。

★追記2009年11月6日のページ>>ではさらにくわしく
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2007年11月 5日 (月)

彗星のごとき軍略家・大村益次郎の暗殺

 

明治二年(1869年)11月5日、去る9月4日に京都で襲撃された大村益次郎が、その時の傷が原因で死亡しました。

・・・・・・・・・・・・

長州(山口県)のお医者さんの息子として生まれた大村益次郎(おおむらますじろう=村田蔵六さんとも言いますが、ややこしいので、今日のところは大村益次郎さんで通させていただきます)

父の後を継ごうと医学の勉強のため、大阪緒方洪庵(おがたこうあん)適塾(6月10日参照>>)に入門します。

Tekizyukucc そこで、医学とともに、個人的に興味を持った兵学の勉強をし、オランダ陸軍の兵書を翻訳したりなんかしていましたが、彼の目的は、故郷に帰って父の後を継いで医者になる事であり、兵学はあくまで趣味という位置づけだったようです。

やがて、勉強を終え、故郷で目標通り医者になりますが、その評判はあまり良くありません。

・・・というのも、腕は確かなものの、とにかく愛想が悪い・・・。

靖国神社に銅像があるので、ご存知かもしれませんが、彼は、デコが出ていて、アゴが出ていて、目がくぼんでいて、眉毛ボーボー・・・口がへの字で、普通にしてても怒ってるように見える損な顔つき・・・。

そんな顔つきなのに、人に愛想をふるのが大キライ・・・てゆーか、ムダな事がキライな性格なのだそうで、彼にとっては、さほど親しくもない人間に笑顔をふりまくのはムダな事、物事を伝える以上に話をするのもムダな事・・・究極の合理主義だったのです。

結局、愛想の悪い医者は、三年間、流行らずじまい・・・そんな彼に、新しい就職口からお声がかかります。

それは、来るべき未来のために軍備の近代化を図ろうとしていた宇和島藩から、兵学の才能を求めての事でした。

実は、彼の兵学の才能を一番先に見つけていたのは、適塾の洪庵先生で、人材を探していた宇和島藩に彼を推薦したのです。

そうして、宇和島藩に召抱えられた益次郎でしたが、ある日、本業の医者としての仕事を頼まれます。
それは、江戸で行われる解剖の執刀でした。

もちろん、その解剖というのは、医学のための公開の解剖ですから、執刀と同時に人の体の構造について、臓器について、いろいろ説明しなければなりません。

冷静沈着に執刀を続けるかたわら、お得意の無駄の無い明確な説明をする益次郎・・・その様子を、会場でジ~ッと見つめている人物がいました。

あの桂小五郎(かつらこごろう=木戸孝允)です。

その淡々とした冷静ぶりに、隠れる才能を見出した小五郎でしたが、知り合いから益次郎の名前を聞いてびっくり。

実は、西洋との戦力の差を知った小五郎が、軍備を近代化するために、オランダ語のできる人物を探していた時、彼の名前だけは聞いたものの、あまりの身分の低さに「たいした事ないだろう」とそのまま探さずにいた人物が彼だったのです。

しかも、宇和島では、オランダ語だけではなく、兵学や医学も教える塾を開いていて、その塾には長州藩の久坂玄瑞(くさかげんずい)が入学していたにも関わらず、同郷である事さえ告げていない・・・といった変人ぶりに興味津々・・・「長州藩にこんな逸材が埋もれていたなんて!」と、大興奮の小五郎。

即座に益次郎を、翻訳者として長州に招きます。

初仕事で、オランダ語の兵書を翻訳する益次郎・・・早速その才能を見出した小五郎が間違いではなかった事が確かめられる事になります。

彼の翻訳は、ただの翻訳だけにとどまらず、見事にまとめあげた、とても理解しやすい兵書に仕上がっており、さらに近未来の兵制を考えた提案にもなっていたのです。

それは、未だ、「一騎当千の兵」の影から抜け切れない時代に、学問を身につけた指揮官の知恵のある策略によって戦う・・・という当時としては画期的なものでした。

さらに、その後、藩士に教える時も、彼の説く兵術は簡潔でわかりやすく、一つのムダもなかったと言います。

しかし、小五郎によって、その才能を見出されたものの、身分の低い彼はなかなか出世できず、しかも、「剣術もできない、馬にも乗れない者が戦を語るなど・・・」と周りの者には苦笑され続けます。

第2次長州征伐が始まった慶応二年(1866年)頃、益次郎は42歳にして、やっと司令官という立場に立ちます(6月16日参照>>)

浴衣姿にワラぞうりを履き、馬にも乗らず、片手にうちわを持って・・・およそ戦闘態勢に見えない指揮官の登場に驚く藩の兵士たち・・・しかし、そんな彼を一躍有名にする出来事がやってきます。

鳥羽伏見の戦いに始まる一連の戦い・・・特に、上野戦争では、彼の立てた作戦はことごとく成功し、すべてが彼の言った通りになります(4月4日参照>>)

それどころか、戦争の終焉の時間さえ当ててみせるのです(5月15日参照>>)
見事に勝ち進んで行く連合軍・・・。

やがて迎えた明治維新では、その才能を買われ、陸軍の実権を握る立場となります。

当然、彼の目指す軍隊は、過去の武士の兵法ではなく、西洋式の近代的な軍隊です・・・国民皆兵を訴え、着々と準備を整える益次郎。

しかし、当然の事ながら、そんな彼に納得できないのは、武士の特権を捨てきれない士族たちです。

明治二年(1869年)9月4日・・・京都に出かけた益次郎は、そんな過激分子たちに襲撃され(9月4日参照>>)、2ヶ月後の今日・11月5日、襲われた時の傷が原因で敗血症を起し、この世を去る事になります・・・まるで、すべての準備を整えて、その役目を終えたかのように・・・。

桂小五郎・・・後の木戸孝允は、よく益次郎の事を、こう語ったと言います。
「彼は、天国の松陰先生が会わせてくれた大切な友人だ」と・・・。

解剖のあった日に出会ったあの時のシーンが、運命のように感じ、小五郎の脳裏に焼きついて離れなかったのでしょうね。
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2007年11月 4日 (日)

彦根城に菊は咲かない?築城時の人柱の伝説

 

わたくしごとながら、このブログのテンプレートを、「ひこにゃん」に変えようか?と、ひとしきり悩んでみましたが、どーも、中央の本文の部分のサイズが合わない・・・。

今のデザインの幅に合わせて、写真やイラストをupしているため、それらがすべてヘンな風になってしまうんですよねぇ~。

・・・で、今のところは、このままで行こうかと諦めてはいるのですが・・・。

この「ひこにゃん」というのは、かなりの人気者なので、ご存知のかたも多いと思いますが、「国宝・彦根城・築城400年祭」(公式ページはコチラ>>)という、現在行われているイベントのキャラクターで、兜をかぶったネコのキャラクターです。

そのゆるゆる感、ダルダル感が「カワイイ!」と大評判なのだそうです。

イベントは11月25日までだそうなので、何とか終るまでには、私も彦根城に行ってみたいと思っているのですが、まだ実現できていません。
早く行かないと終っちゃう~!

・・・、で、何で今日、彦根城かと言いますと、ちょうど季節が盛りの菊の花・・・この菊の花にまつわる彦根城のお話を、ふと思い出しまして、急遽、書かせていただく事にしました。

・・・・・・・・・・

彦根城は、ご存知のように、数少ない創建当時そのままの姿を、現在に残した天守閣を持つお城です。

お城の周りには四季折々の花々が植えられ、国宝の天守閣を美しく彩ってくれています。

しかし、このお城には、「菊の花が咲かない」という伝説があるのだそうです。

私が彦根城に行ったのは、ずいぶん昔で、この伝説の事もまだ知らず、季節も秋ではなかったので、実際にその伝説が本当かどうかを、確かめたわけではないのですが・・・その伝説は、この彦根城の築城当時の物語に由来します。

徳川家康から彦根城・築城の命が出されたのは慶長八年(1603年)の事。

関ヶ原の合戦に勝利して、その慶長八年の2月に征夷大将軍になった家康・・・まさに、ノリノリの頃です。

その命を受けたのは、関ヶ原の合戦で大活躍した井伊直政の息子・直継(直勝)です。

前年の慶長七年に、関ヶ原で受けた鉄砲傷がもとで父の直政が亡くなり(2月1日参照>>)、その後を継いだばかりの直継にとって、ノリノリの家康さんのご機嫌をそこねないためにも、亡き父へのはなむけのためにも、ここは一つ、一世一代の名城を築いてみせなければ、二代目のメンツが立ちません。

翌・慶長九年(1604年)、築城が開始されます。

天守閣の本体は大津城から移築され、そこに、彦根城ならではの、さらなるアレンジが施され、着々と工事が進んでいきますが・・・、途中で、ど~もしっくり来ない・・・。

・・・というのも、大津城の天守閣が五層なのに対し、彦根城は三層・・・何がしっくり来ないかと聞かれても、明確な答えがあるわけでもないのに、途中で工事がストップしたまま、いっこうに進まなくなってしまったのです。

その報告を聞いた直継は、一言・・・
「ならば、人柱を立てよ」

人柱とは、建物や橋を建設する時に、その成功を願って捧げるいけにえの事・・・以前も、橋姫のページ(8月4日参照>>)や、茨田の堤のページ(6月25日参照>>)でご紹介しましたように、意外にも、古代より近世のほうが盛んになった風習です。

しかし、城主さまは簡単にそうおっしゃいますが、人柱になるほうはそんなに簡単にはいきません。

まして、「人柱は生娘のほうが効果がある」なんていう暗黙のルールのような物もあったりなんかする中、選ぶ家臣たちも人の子・人の親・・・若い娘を人柱に・・・なんて、おいそれと頼めるわけもありません。

そんなある日、一人の藩士が家に帰ると、妻が心配そうに声をかけます。
「まぁ、あなた、どうなさったざぁ~ますの?最近お疲れのご様子で、ワタクシ心配でございますわぁ」

どうやら、悩みに悩んでいるのが、顔に出ていたようです。
・・・で、その藩士は「コレコレこういうわけで・・・」と、妻に説明したのです。

すると、シャッ!っと襖が開いたかと思うと、藩士の娘が登場し、「そんなら、私がなったる!」と・・・。

どうやら、娘も、最近の父の様子を心配していたようで、「自分がお役に立つ事ができるなら・・・」と言ってきたのです。

当然、両親は猛反対で、娘をさんざん説得しますが、両親を押しのけ「直訴してでも、なる!」と言って聞きません。

娘の決意が固い事をさとった父は、仕方なく娘を連れて直継に会いに行くのです。

その当日・・・娘は、白無垢に身を包み、白木の箱に入れられ生き埋めにされます。

その姿は、天女のように美しく、最後の瞬間まで笑みをたたえていたと言います。

その娘の名前は「菊」と言いました。

人柱を立てた後は、ウソのように工事が順調に進み、やがて、名城・彦根城は完成するのですが、それ以来、このお城には、なぜか菊の花が根付かず、飾ってもすぐに枯れてしまうのだとか・・・

Dscn8325800
彦根城・天守

しかし、これは一般的に伝わっている伝説。

地・彦根に伝わる伝説には、この後にまだ後日談がついているのです。

それは、悲しみに打ちひしがれていた両親に、お城から出仕の命令が下され、「何事か!」と二人があわてて登城すると、ある奥の間に通され、そこで、ひとりの女性と面会します。

「お久しゅうございます・・・」
と挨拶した女性は、なんと、娘であった・・・というのです。

実は、あの時、城主・直継は、礎石の下には空の木箱だけを埋めて、お菊さんを助けていたのです。

お菊さんを直継が助けた理由には・・・
あの時「人柱を・・・」と騒いだのは重臣たちで、直継自身は人柱という行為に反対していたから
だとも・・・
「私をどうぞ・・・」という父を思う娘の健気な心に感動したから
だとも・・・
お菊さんがメッチャ美人だったから
だとも・・・イロイロな噂があります。

たとえ、その理由が「いつか、この美人を俺のモノに・・・」という、殿様のよこしまなエロ心だったとしても、とにかく助かっているのならひと安心・・・

地元では、どうやら、直継さんは、心やさしい殿様(もちろんエロ心も無し)だったというハッピーエンドの伝説のほうが根強いようなので、ひょっとしたら、今頃、彦根城には、満開の菊の花が咲き誇ってるかもしれませんね。

Hikonezyoukikucc
今日のイラストは、
やはり、季節の『菊の花』で・・・

伝説のお菊さんのように、さわやかな、華やかなイメージに描いてみました~
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2007年11月 3日 (土)

崇峻天皇・暗殺事件の謎

 

崇峻五年(592年)11月3日、第32代・崇峻天皇が、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒によって暗殺されました

・・・・・・・・・・

この1ヶ月前の10月4日、崇峻(すしゅん)天皇のもとにイノシシが献上された時の事です。

目の前で料理されるイノシシを見て天皇はこうつぶやきました。
「あぁ、いつになったら、このイノシシの首を切るみたいに、憎たらしいアイツの首を切る事ができるんやろ・・・」

その天皇のつぶやきが、6日後には時の権力者・蘇我馬子の耳に入ります。
しかも、「何やら天皇が兵を集めている」という情報・・・

「このまま、天皇の襲撃を受けてはたまらん」と、崇峻五年(592年)の11月3日、なんやかんやと理由をつけて、天皇を儀式の席に誘い出し、配下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に、崇峻天皇を暗殺をさせたのです。

・・・と、『日本書紀』には書かれています。

出ました!またまた、突っ込みどころ満載の『日本書紀』!
(前日・前々日と聖徳太子一族の話題だったもので・・・)

『日本書紀』は公式文書です。
その文書に「国家元首が、配下の者に暗殺された」なんて事を書くのは前代未聞じゃありませんか?

確かに、幕末の孝明天皇の場合も暗殺説(12月25日参照>>)として、ブログに書かせていただきましたが、あくまで疑わしいというのであって、こんなにはっきり実行犯の名前まで記録しているなんて事はありません。

しかも、事件後に黒幕である馬子が処分を受けた様子もありません。

逆に、崇峻天皇は天皇であるにもかかわらず、その日のうちに埋葬されています。

当時は、位の高い人が亡くなった時はもがりと言って、2~3年間は鎮魂の儀式をするのが慣わしでしたが、そんなものは一切無く、一般人扱いで葬られてしまっています。

そんな事しといてお咎めなしはあり得ない出来事です。

『日本書紀』の言い分では、「馬子が周到な計画を立てて実行したために、詳しい事がわからなのでお咎め無しは仕方が無い」のだそうです。

その周到な計画というのは、・・・
天皇の遺体の埋葬が素早かった事。
事前に馬子の命令で、主だった臣下の者を九州に出張させていた事。

また、実行犯である東漢直駒が、事件直後に天皇の妃に手を出しちゃった・・・という事で、馬子に処刑されているのですが、、それがいわゆる口封じであって、真実を知る者がいない・・・と言うのです。

真実を知る者がいない・・・だから処分は無し・・・でも、暗殺とハッキリ書く・・・と、まったく、つじつまが合いません。

確かに、当時は、蘇我氏の目の上のタンコブであった物部氏を倒して、頂点を掌握していた蘇我馬子です。

崇峻天皇は、馬子と額田部皇女(後の推古天皇)とが擁立した傀儡(かいらい・あやつり人形)だったとも言われています。

しかし、豪族は蘇我氏だけではありません。

もし、本当に天皇が暗殺されたのであれば、他の豪族だって、出張先の九州からでも、即刻、馳せ参じて問題にしなければなりません。

天皇暗殺は、それくらい重要な出来事です。

この一大事件を罪に問わない・・・という不可解な結末の理由について、以前書かせていただいた推古天皇のページでは、崇峻天皇の次に天皇となる推古天皇自身がこの暗殺に関与していたからではないか?という事を書かせていただきました(3月7日参照>>)

臣下の者が天皇を暗殺したのではなく、天皇家同志の争いなら、当然、罪に問われる事はありませんからね・・・。

・・・という事で、前置きが長くなりましたが(えぇ?今まで前置きやったんかい!)、今日は、もう一つ、推古天皇黒幕説とは別の推理をしてみましょう。

蘇我馬子が、崇峻天皇を暗殺したのが、事実だったとして、もう一つ、罪に問われない場合があります。

それは、蘇我馬子こそが王であった場合です。

Susyuntennoukeizucc それ以前からくすぶっていた蘇我VS物部の関係が、実際の戦争となるのは、第30代・敏達天皇の後継者争いからです。

一般的な歴史でも、敏達天皇の二人の弟の間で後継者争いが起こり、物部氏が推していた穴穂部皇子が真っ先に殺され(6月7日参照>>)、もう一人の蘇我氏が推していた弟・用明天皇が即位しますが、この戦争が終る前に亡くなり、戦争が終った後に穴穂部皇子の弟・崇峻天皇が即位した事になってます。

この物部氏を倒した時に、蘇我氏が天皇家も陵駕していたとしたら、たとえ、崇峻天皇が馬子を倒そうと兵を集めても、それは、謀反となるわけです。

よって、謀反人を成敗したところで、馬子が罪を問われる事はありません。

ひょっとしたら、蘇我馬子→蝦夷→入鹿のこの蘇我氏三代は、この時、政権を握っていたのではないでしょうか。

「西暦600年に、日本から隋に使者がやって来た」と、日本には無い歴史が中国の『隋書』に書かれていて、この時の使いが「わが国の王は男である」と言ったという話は有名です。

日本では、西暦600年は女帝・推古天皇の時代・・・この男の王が誰のことを指すのかは、今も議論されるところですが、当時、蘇我氏が政権を握っていたのなら納得できる話です。

そして、敏達天皇のひ孫に当たる天智天皇(中大兄皇子)クーデターを起し、入鹿を暗殺して、政権を奪回したのです。

クーデターとは政権の無い者が現政権に対して行う物・・・国家元首の息子がクーデターを起す必要は無いわけですから、この時、やはり、天皇家には政権が無かったと考えるほうがつじつまが合います。

ただ、『日本書紀』を編さんした藤原氏にとっては、天皇家は万世一系の一本線でつながっていていただかなければ・・・その万系一世の天皇家を支え、サポートしたのが中臣鎌足に始まる藤原氏なのですから・・・。

蘇我氏が政権を握っていた間の重要な部分を推古天皇の在位として、歴史を書き換える事によって、天皇家は一本につながります。

推古天皇という初の女性天皇の誕生も、他の女性天皇が中継ぎの役割だったのに対し、推古天皇の在位期間が非常に長い事も、この時代の政権交代を暗示しているような気がします。

あくまで推理ですが・・・
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2007年11月 2日 (金)

聖徳太子のために再建された謎と不思議の法隆寺

 

昨日の山背大兄王(11月1日参照>>)の関連で、今日は、法隆寺のお話を・・・。

日本最初の世界遺産で、聖徳太子を祀る法隆寺・・・。

Houryuuzi3acc

現在、金堂に安置されている薬師如来像の光背の銘文によれば「推古十五年(607年)に、聖徳太子が父の用明天皇の病気治癒を祈願して建立した」と書かれています。

また、『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつでは推古六年(598年)の建立とされ、『日本書紀』には推古十四年(606年)と書かれています。

多少の違いはあれ、このくらいの誤差は仕方ないかな?という感じなんですが、その同じ『日本書紀』天智九年(670年)の4月のところには「法隆寺災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえも)余ること無し」・・・つまり「全焼した」と書かれてあります。

その後の平安時代のいくつかの書物には、「和銅年間(708年~714年)に再建をした」という記述もあります。

この、日本書紀の中の全焼説は、長い間、論争を呼んできました。

・・・というのも、美術史・建築史の観点から見れば、現在の法隆寺の伽藍は、飛鳥時代の建築様式で建てられているわけで、同じ斑鳩にある法輪寺法起寺なども、金堂内部に飛鳥様式が使用されているものの、塔などは、あきらかに天武朝の様式である事が確認されています。

「もし、法隆寺も、後の時代に再建されているなら、別の様式が取り入れられているだろう」と考えられますが、現存の法隆寺は、『高麗(こま)尺』と呼ばれる大化の改新以前にしか使用されていなかった測定基準を用いて建築されているのです。

注:今、燃えた・燃えないと論じているのは、法隆寺の西院の事です。
Houryuuzikeidaizucc ご存知のかたも多いでしょうが、法隆寺は金堂や五重塔が建つ西院と、例の救世観音が納められている8角形の夢殿のある東院とに分かれていますが、この東院は、天平十一年(739年)に、すでに平城京に都が移り、廃墟のようになっていた聖徳太子一族の住まい・斑鳩宮跡を、「このままではしのびない・・」と、安倍内親王後の孝謙天皇9月11日参照>>が、創立した事が定説となっていますので、こちらは論争には入りません。

そして、現在の西院の南東には、『若草伽藍』と呼ばれる塔や金堂の建っていた跡が見られる事から、先ほどの論争の「法隆寺は全焼した」との主張でも、斑鳩寺と呼ばれていた当時は、若草伽藍と西院が同時に建っていて、若草伽藍が全焼し、西院だけが残ったのだとの考えが多くありました。

しかし、そんな論争に終止符を打つ時がやってきます。

昭和十四年(1939年)の発掘調査で、若草伽藍の跡地から、四天王寺式の配置(本家HPの【仏教建築の時代変化】参照>>)の塔や金堂跡がはっきりと確認されたのです。

さらに、西院・若草伽藍両方の中心線の方向から考えて、同時に建っていると考えるのは不可能だという事、しかも、そこから発掘された瓦は、西院のそれよりも古いという事もわかりました。

つまり、聖徳太子が創建した斑鳩寺と呼ばれた若草伽藍が焼失し、その後、現在の法隆寺・西院が再建されたという事で、今のところ、この説が定説となっているようです。

しかし、さらなる謎も残ったままです。

先ほども書いたように、再建されたのなら、なぜ?飛鳥時代の様式なのか?という事も、そして、第一、再建の年数すらはっきりしません。

特に、Houryuuzidourincc 現存する五重塔には、すごく興味をそそられます。

実は、その柱の下には、火葬された骨が埋められていましたが、誰の物なのか?
塔の中で一番重要であろう舎利を収める容器に、肝心の舎利が無いのはなぜか?

それらの答えは未だに出ていません。

さらに、その五重塔の相輪部分(屋根の一番上の部分です)には、なぜか4本のカマが装着されています。

このカマは、豊作の時には上にのぼり、凶作の時には下にさがるという伝説がありますが、なぜ、着けられているのかは謎です。

一般的には、「雷という魔物を寄せ付けないため」とされていますが、はたして、寄せ付けたくない魔物は、本当に雷だったのでしょうか?

昨日の記事で、日本書紀には「蘇我入鹿に攻撃された山背大兄王一族が、法隆寺の五重塔にて自害した」とある事を書かせていただきましたが、年代からいっても、この時の五重塔は現存する五重塔ではなく、焼失した斑鳩寺(若草伽藍)の五重塔です。

聖徳太子が、父・用明天皇の病気治癒を祈願して建てた斑鳩寺の跡に、聖徳太子を偲んで創建された太子を祀る法隆寺・西院。

孝謙天皇が、まさに天然痘の恐怖の中、荒れ放題の斑鳩宮に、太子を偲んで創建した夢殿・・・そして、その中に安置された救世観音・・・。

藤原一族にとって、聖徳太子を偲ぶという事が、どういう事か?
五重塔の大きなカマで、防ぎたかったのは何なのか?

何となく見えて来るような気もしますが、あくまで妄想の世界です。

もちろん、たとえ法隆寺が再建されていたとしても、世界最古の木造建築である事には変わりなく、たとえ、聖徳太子一族の鎮魂のために建てられたとしても、その魅力が薄れる事はありません。

いや、むしろ、謎が深まれば深まるほど、さらに魅力を増していくようです。
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2007年11月 1日 (木)

聖徳太子の子・山背大兄王を殺したのは蘇我入鹿?

 

皇極天皇二年(643年)11月1日、聖徳太子の息子・山背大兄王を蘇我入鹿が攻撃・・・山背大兄王は一族とともに自害に追い込まれます。

・・・・・・・・・・・

かの日本書紀にこのように書かれている事から、教科書なのでもそう書かれています。

攻撃した理由については、聖者・聖徳太子の息子で、彼自身も人望があった山背大兄王(やましろのおおえのおう)に対して、蘇我入鹿(そがのいるか)は自分の意のままになる古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を、次期天皇候補として推していたため山背大兄王が邪魔になった・・・というのが一般的です。

皇極天皇二年(643年)11月1日斑鳩宮にいて、入鹿の軍に襲われた山背大兄王は、一族郎党を連れ生駒に逃れます。

ところが、なぜか再び、斑鳩の法隆寺へ戻ってきます。

山背大兄王が言うには・・・
「戦えば勝つのはわかっている。しかし、私は戦いたくない」
のだそうです。

Dscn2508650a ・・・で、結局、11月11日、法隆寺に戻った山背大兄王一族は、法隆寺の五重の塔に行き、ある者はその中で山背大兄王とともに自害し、ある者は塔に上り、西に向かって飛び降り、一族の全員が亡くなったと言うのです。

「はぁ?」と突っ込みを入れたくなりますよね。

平和な時代じゃないんですよ。
血で血を洗う王権争奪戦が繰り返されていた時代に、「戦いたくないから死のう」なんて・・・しかも、「戦えば勝つのがわかってる」って本人は思ってるのに・・・

百歩譲ってそう思うなら、最初から「僕は皇位継承を辞退しますんで・・・」的な発言をしておけば、襲われなかったかもしれないわけですし・・・。

何か、違和感を感じてしまいます。

ここで、思い起こされるのは、『日本書紀は勝者の歴史である』という事です。

書紀は、あの中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)とともに大化の改新に一役買った中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)の息子・藤原不比等(ふひと)が全盛の時代に編さんされた物・・・もちろん、その編さん事業には不比等以下、藤原一門が深く関わっているのです。

そうです。
この山背大兄王の死は、藤原一族の重要な事件に関わる出来事なのです。

それは、この山背大兄王の死から2年後に起きる『乙巳(いっし)の変』・・・有名な「蘇我入鹿・暗殺事件」です。

事件の詳細は、その日のページに書いていますので(6月12日参照>>)、そちらで見ていただくとして・・・

日本書紀の記述を信じるならば、この時、中大兄・鎌足らに襲われた入鹿は、倒れながら目の前の皇極天皇に向かって「私が何をしたと言うのでしょうか?」と言い寄ったと言います。

皇極天皇も、「何事か!」と叫んで大変うろたえた様子です。

つまり、天皇もこの暗殺計画を知らなかったし、入鹿もなぜ自分が殺されなくてはいけないのかを知らなかった事になります。

そこで、中大兄皇子は天皇に向かって・・・
「王家を滅ぼして、天皇家を傾けようとた者を罰した」
と、高らかに宣言するのです。

王家とは聖徳太子とその息子・山背大兄王の一族の事で、つまりは、山背大兄王の仇を討ったのだ・・・というのです。

そして、入鹿の暗殺後に行われる大化の改新・・・と、ここで、「なるほど・・・」と納得するわけには行きません。

時代の流れを見てみると、腑に落ちない事が出てきます。

聖徳太子は、それまで百済一辺倒だった外交を、新羅といった大陸全体に向け、天皇の国際的地位を飛躍的に向上させた人です。

遣唐使制度をはじめ、あの冠位十二階も、唐を意識しての事なのは、誰もがわかっています。

この間、蘇我馬子蝦夷入鹿ら蘇我氏は、太子と対立関係にあったと思われがちですが、そうも言えません。

彼らは渡来人の子孫であり、日本に住む渡来人たちの束ね役でもありましたから、むしろ、渡来人たちの活躍に比例するように蘇我氏の権力も強くなっていっています。

ですから、おそらく、この「太子の外交政策に反対する」という事は無かったはずです。

最近では、「聖徳太子=蘇我入鹿説」まで登場するくらい、同じ視野で大陸を見ていたに違いないのです。

それに比べて、大化の改新の後はどうでしょう・・・。

ふたたび、百済一辺倒の外交に戻り、あげくの果てに百済再興を願う百済の王子を支援して出兵までし、白村江の戦いで大敗(8月27日参照>>)を喫してしまいます。

中大兄皇子や鎌足が、太子の遺志を継ぐ者とは、とても思えませんよねぇ。

そして、もう一つ、入鹿暗殺後に摩訶不思議な現象が起こっている事も見逃せません。

暗殺直後に、入鹿の首が中大兄と鎌足を追いかけまわし、二人が大慌てで逃げる・・・この話はかなり有名で、明日香村・甘樫の丘近くには入鹿の首が、力尽きて最後に落ちた場所に入鹿の首塚なる石塔もあります。

さらに斉明元年(655年)には大空を龍に乗った何物かが出現、続いて斉明七年(661年)5月には笠を深くかぶった何者かが、斉明天皇(先の皇極天皇と同一人物)の前に現れ、その2ヶ月後に天皇は亡くなり(7月24日参照>>)その葬儀の時も、その者が出現した・・・と言います。

それらの事から、いつしか「祟り」という言葉が囁かれるようになるのですが・・・このブログでは、早良親王(9月23日参照>>)崇徳天皇(8月26日参照>>)などなど、他にも怨霊伝説をいくつかご紹介していますので、もう、おわかりでしょうが、祟り&怨霊伝説という物が、殺された本人より、殺した側の人間の負い目から発生する事は明白です。

中大兄・鎌足の言い分通りなら「入鹿は大悪人で殺されても仕方が無い人間・・・俺らは仇を討ったんだ」って事ですが、それなら、なぜ?怨霊伝説などが発生するのでしょう?

諸悪の根源に正義の鉄槌を下したのなら、何の負い目も感じるはずがありません。

さらに、鎌足の子孫である藤原氏は、8世紀頃から法隆寺に多大なる支援をしはじめます。

そう、天然痘で不比等の息子たちが次々に死に、大仏建立を発案(10月15日参照>>)した頃です。

皆さんは、法隆寺の秘仏で、普段は夢殿に安置され、春と秋にだけ公開される「救世観音」様という仏像をご存知でしょうか?

この仏像は、聖徳太子の等身像と言われ、太子の生前の姿を映したものだそうですが、この救世観音は、その後頭部には、直接、光背(こうはい)が打ち込まれ、まるでミイラのように布でグルグル巻きにされて、何世紀もの間、誰も見た事が無かったというのです(6月25日参照>>)

確かに、「秘仏」と呼ばれる仏像は、他にもたくさんあります。

しかし、たいていの場合、それは「一般に公開していない」という事・・・僧侶たちが大切に保管しているという類の物で、「布でグルグル巻きにされて、誰も見た事が無い」というのとは、何か違う気がするのです。

まるで、その仏像の中に、何かを封じ込めたような・・・そんな気持ちさえしませんか?

ならば、誰が何を封じ込めたのでしょう。

そう、天皇家と藤原氏は、蘇我入鹿だけでなく、聖徳太子も怖かったという事ではないでしょうか?

そうなると、もちろん、山背大兄王を死に追いやったのは蘇我入鹿では無い事になるのですが・・・。

★聖徳太子関連で、ついでに、翌日の法隆寺再建のお話もどうぞ>>
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