「トイレの日」なのでトイレの歴史
11月10日は、「いい(11)ト(10)イレ」の語呂合わせで、日本トイレ協会が制定した「トイレの日」なのだそうです。
もう一つ、日本衛生設備機器工業会が制定した8月10日も「トイレの日」なのですが、とりあえず・・・という事で、今日はたぶん・・・いえ、絶対に教科書には載らない「トイレの歴史」について書かせていただきます。
その恥ずかしさからか、何となくタブー視された感があるトイレ談義ですが、考えて見れば食べるのと同じくらい人間にとっては重要な事です。
なので、本文中には、少々不適切な発言があるかも知れませんが、本人はいたってマジメに歴史として書いておりますので、そこんところはご理解くださいませ。
・・・・・・・・・
そもそも遠くは紀元前4500年・・・その頃のインダス文明には、すでに下水が完備され、「流れる水に用をたす」というトイレの観念があったにも関わらず、ヨーロッパには、18世紀頃のあの美しい宮殿にさえもトイレがなく、「水に流す」という観念がなかった・・・それほど、トイレ文化というものは、多種多様に分かれている物なのです。
日本では、水が豊富だったせいか、神代の昔から「小川の上に板を渡し、その上にまたがって用をたす」という一種の水洗トイレのようになっていました。
やがて、そこに簡単な小屋を掛けて、周囲の視線をさえぎるといった感じになります。
トイレの最もポピュラーな昔の呼び方『厠(かわや)』は、この「川屋」からきている・・・というのが一般的な語源です。
もう一つ、なぜか、トイレは北東=鬼門の方角に造られる事が多く、家の北側にあるので「側屋」が「厠」になったとも言われています。
万葉・奈良時代の頃までは、そんな感じで、もよおしたら外に出て川で・・・という風に行っていましたが、平安時代の寝殿造の頃からは(12月17日:【平安貴族の住宅事情】参照>>)、樋(ひ)箱・まり箱といった「おまる」のような物に致した後、川に捨てに行っていました。
樋というのは、いわゆる雨樋(あまどい)の「とい」で、やはり昔からの「モノは水に流す」という事からそう呼ばれたのでしょう。
一般庶民や農村などでは、穴や桶にためておいて、田畑の肥料に使うようになります。
やがて、室町時代になると北山文化・東山文化、そして禅宗の普及によってトイレは飛躍的に発展します。
書院造には畳敷きのトイレが設置され、上級の武士などは必要以上に広く、その器にも塗りを施し、美しさも競われます。
ただし、「大きいほう」の後に紙で拭くのは、まだまだ先・・・有史以来、日本人は、主に手で拭いていました。
小野小町も静御前も拭いてました。
だからこそ、トイレの横には必ず「手水(ちょうず)」が設置され、しっかりと手を洗う習慣ができたのです。
手以外では・・・
・石・・・イタイ!
・茎・・・ピンポイントやなぁ
・ワラ・・・う~んワイルド~
・海草・・・どっから持ってくる?
・木片・・・ゆるい時はビミョー
・葉っぱ・・・許される範囲だ
・・・などが使用されていたようで、あの「♪コレッくらいの、おべんと箱に、おにぎりおにぎりチョィットつめて・・・♪」の歌でお馴染みの、「す~じの通った蕗(ふき)」などは、葉っぱをソレに利用していた事で、「フキ」という名前になった言われているくらいです。
この頃は、まだ、紙は貴重品ですから・・・紙で拭くようになるのには、やはり江戸時代まで待たなくてはなりません。
ところで、この室町時代のトイレの発展に一役買ったのは禅寺で、トイレの事を別名『雪隠(せっちん)』とも呼ぶのは、中国にある禅寺の名前からきているのです。
禅寺には、たくさんの修行僧がいます。
その修行をする最も重要な場所が、坐禅をくむ「禅堂」という建物なのですが、その禅堂の横には必ず「東司(とうす)」という建物が置かれるのです。
この東司がトイレです。
京都・東山にある東福寺には、日本最古で最大の東司が現存しています。
通称「百間便所(百雪隠・ひゃくせっちん)」と呼ばれる東福寺の東司の床には、ズラ~っと穴が・・・もちろん数は百より少ないと思いますが・・・。
手前3つが大用、奥が小用で、ちゃんと手洗い場も同じ建物内にあります。
もちろん、直接ではなく、この穴の上に、桶や壷を置いてするのですが、東司の使用に関しては、ちゃんとルールも決まっていました。
まず、着衣を整え(急ぐ時はたいへんだ!)、人の迷惑にならないようちゃんと列に並び、怒る事、笑う事は禁止(前の人で音が出た際はこらえきれないかも・・・)。
中の人をせかしたりしない(確かに・・・)、そして、する前にも手を洗い、右手に水の入った桶を持って左手で扉を押して入ります。
中に入ったら、厠に登り(高くなっていたようだ)、足場に足を置いて、桶に座って用をたし、備え付けの木製の三角柱で拭き、使用後、この木製の道具は、水の入った筒に戻します。
右手に桶を持って水を注ぎ、左手でそれを受けて、まわりをきれいにしてから、桶を持って外に出ます。
係りの所に桶を返したら、手を洗うのですが、まず石で洗い、それから水で3度洗い、今度は土で洗い、またまた3度水で洗い、次に橘の実を粉にした物でもみ洗い、最後にまたまた水で、腕のほうまで洗う事・・・だそうです。
けっこう清潔です。
しかも、東司内には、給湯用の釜や、手を乾かすための香炉まであったというから驚きです。
もう、このあたりで、トイレの入り方のマナーは確立されていたに等しい感じですね。
やがて、戦国時代になって茶の湯が流行すると、茶室の待合などに、「砂雪隠」なるものが設けられます。
これは、砂を敷きつめたところに、足場となる石を数個配置したもので、高貴なお方専用・・・千利休が豊臣秀吉のために考え出したと言われています。
そして、江戸時代・・・将軍のトイレには、一間(約1.8m)四方の部屋に、白木でできた「御用箱」なる物と、塗りの「御樋箱」なる二つの箱が設置されています。
(たぶん「塗り」が小用)
この二つには、どちらも底の部分に引き出しがついていて、中に紙が敷かれています。
将軍様が御用をあそばすと、すぐに引き出しが引き出され、新しい引き出しと交換するシステムになっていました。
この木の箱が、やがて陶器に変わるのは、文政の終わりから天保にかけての頃(1829年頃)で、あの滝沢馬琴も、天保三年(1832年)の日記の中で、「今日、ウチは陶器のヤツに取り替えるんだ」と、まるでテレビがやってくる三丁目のように喜んでいます。
ただ、当時は、排泄物は立派な肥料なので、「道端や庭などに桶を置いておいて、たまると農家の野菜と交換したりしていた」という話も残っているので、けっこう道端で通りすがりの人が、桶に向かって・・・いや、背を向けて、半かがみになっておしりを突き出した感じでやってたみたいですね。
もちろん、女の人も・・・。
それに関しては、目撃した馬琴さんも「恥じるいろなく、笑う人なし」って書いてますから、別に普通だったんでしょう。
まぁ、着物だと何となく見え難い感がありますから、いいですけど(ええんかい!)、ジーンズだと、丸見えになるので、やっぱり今はできませんね。
そう言えば、以前大阪の泉布観に行った時のブログに貼ったトイレの写真をもう一度ご紹介しておきます。
泉布観は、造幣局の応接所として明治四年(1871年)に建てられた大阪最古の洋館ですが、もうすでに現在の和式トイレ(今は少ないですが・・・)と、変わりのない物になっています(3月25日:泉布観のページへはコチラから>>)。
しかも、水洗とは、驚きですね。
今日のイラストは、話題が話題なので、とってもいい香りがしそうな爽やかな雰囲気で・・・
一応、秋桜・・・コスモスのつもりです。
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