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2007年11月21日 (水)

山中鹿之介の一騎討ち~第二次・月山富田城攻防戦

 

永禄九年(1566年)11月21日、月山富田城を包囲中の毛利元就が、降伏を申し出た尼子義久の助命を約束しました

・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)12月24日・・・出雲(鳥取県・東部)に君臨する尼子氏の当主・尼子晴久が急死し、まだ若い嫡男・義久家督を継ぎます(12月24日参照>>)

これをチャンス!と見て取った毛利元就は、徐々に月山富田(がっさんとだ)を攻め落とす準備を始めます。

実は元就がこの月山富田城を攻めるのは初めてではありません。

天文十一年(1542年)から翌年にかけて・・・しかし、その時代はまだまだ中国地方も群雄割拠の時代で、周防(山口県・東部)大内義隆との協力体制での参戦でした。

ところが、いざ、合戦が始まると、義隆と意見は食い違うわ、その間に寝返りが多発するわで、結局大軍を動員したわりには、城も落とせず撤退・・・引き分けとなって、くたびれもうけの合戦となりました。

あれから、20年余り・・・その間に、その大内氏の重臣だった陶隆房(すえたかふさ・晴賢)を、戦国屈指の奇襲戦・厳島の戦い(10月1日参照>>)で破り、若き当主・大内義長自刃(4月3日参照>>)に追い込み、ターゲットを尼子氏に絞り始めた矢先の当主交代(12月24日参照>>)・・・まさにチャンス到来です。

今度は、じっくりと・・・確実に・・・
元就は、まず、石見(島根県・西部)に進撃し、石見銀山を落とします。

しかし、まだ、尼子氏の本拠地・月山富田城へは行きません。

次に永禄六年(1563年)には、出雲白鹿(はくろく)手中に収めます(8月13日参照>>)が、この時も城を奪っただけで、まだ、行きません。

しかし、これらの事は、確実に月山富田城をじわじわと孤立させていくのは確かです。

そして、永禄七年(1564年)、おもむろに腰を上げた元就は、3万という大軍で月山富田城を包囲するのです。

守る尼子氏が1万という数でしたが、それでもまだ包囲しただけ、攻めには取りかかりません。

翌・永禄八年3月には、この戦いが初陣となる元就のかわいい嫡孫・輝元と、次男・元春の息子・吉川元長が合流し、いよいよ役者が揃いました。

そして、4月17日・・・菅谷口から小早川隆景(元就の三男)が、塩谷口から吉川元春&元長が、そして獅子守口から元就と輝元が・・・三方向から一斉に月山富田城に攻撃を仕掛けました・・・『富田三面作戦』です。

もちろん、尼子氏もそれぞれの攻め口に、総大将の義久以下、尼子秀久(義久の弟)尼子倫久(みちひさ・義久の弟)などの将を配置しての応戦です。

しかし、ここまで来ても、やはり元就は慎重。
無理をせず、深入りせず・・・

敵が、少しでも、自分の予想より反撃してきた時点で、すかさず兵を退き、練りに練った富田三面作戦にも関わらず、引き分けという形で、自ら幕を下ろしました。

でも、包囲を解いたわけではありません。
元就のじっくり作戦は、まだ続いているのです。

そんなにらみみ合いが続く9月のある日、この合戦で最も有名な名場面が展開されます。

当時、毛利の臣下であった品川大膳(だいぜん)には、一つの思惑がありました。

それは、毛利方にも聞こえていた噂・・・尼子氏には、名だたる重臣に物怖じすることなく、堂々と意見を述べる血気盛んな21歳の若武者がいると・・・。

大膳は、この合戦で、その生意気な若者の鼻をへし折ってやろうと、棫木狼介(たらきおおかみのすけ)と名を改めます。
(大河ドラマでは品川狼之介になってましたが・・・)

なぜなら、その若武者の名は、山中鹿介(鹿之介)幸盛・・・そう、相手が鹿なら、こちらは狼になって鹿を食ってやろうというのです(名前変えてまで?(^o^;))

そんな狼が、この日、敵情を視察するため、城のまわりを巡回中の鹿之助を目にします。絶好のチャ~ンス!

狙いを定めキリキリと弓を引く狼・・・それを知らずウロチョロする鹿は、まさに絶体絶命。
しかし、運良く、後方からその様子を見ていた人物がいたのです。

秋川庵介という人物が機転をきかせて、素早く狼介の弓の弦を切って落としました。

その、騒ぎに、自分が狙われていた事を知った鹿之介は、怒涛のごとく走り、すかさず太刀を抜いて、狼介めがけて飛び掛ります。

狼介も太刀で応戦します。
・・・が、太刀さばきの鋭い鹿之介にちょっと苦戦。

大柄な狼介は「組み討ちをしよう」と、その負けん気の強さを逆手にとって挑発します。

若さゆえ、その誘いに乗って戦いは組み討ちへと発展。

しかし、組み討ちでは、やや鹿之介が不利・・・そりゃぁそうだろ!こんな大男に、とてもじゃないが勝てません。

案の定、組み伏せられ、またもや絶体絶命のピ~ンチ!

すかさず、短刀を取り出した鹿之助。
下から狼介を刺し、勝負をつけました。

ズルイっちゃ~ズルイんだけど、合戦ですから・・・「兵は詭道(きどう)なり」by孫子>>でおます。

この知らせを聞いた尼子陣営では
「出雲の鹿が、石見の狼に勝った~!」
と大喜びです。

しかし、しかし、尼子のダンナ、そんなに手放しで喜んでる場合やおまへんで~

実は、この間、元就は、ただ包囲を続けていたわけではありません。

そう、見えない所で着々と、地固め作戦を繰り返していたのです。

攻防戦も終盤になってようやくその成果が出始めます。

尼子氏の傘下であった水軍・湯原氏が毛利方に寝返ってしまい、瀬戸内海の制海権はすべて毛利の物となってしまいます。

海が使えなくなった尼子氏は、兵糧の補給に悩まされる事になり、さらに、元就は鳥取・西部に展開する砦を奪取します。

もはや、完全に、兵糧が断たれました。

こうなると、月山富田城の中からも、毛利方に降る者が後を絶たなくなり、当主・義久は、自分と二人の弟の計3名の助命と、一部家臣の所領の安堵を条件に11月19日に降伏を決意し、元就が11月21日に起請文を送って、その条件を守る事を約束したのです。

11月28日・・・月山富田城が開城され(11月28日参照>>)、義久らは、すぐさま長門奈古(山口県)幽閉され、彼らは幽閉されたその地を出る事なく、その生涯を閉じます。

ここに、南北朝の雄・佐々木道誉を祖に持つ尼子氏が事実上滅亡しました。
 

Sikanosukeikkiuticc
今日のイラストは、
もちろん、カッコイイ鹿之介くんの勇姿で・・・

ところで、ご存知のように、諦めきれない不屈の人・・・いや、しつこいくらいの再起マニア・鹿之介が、このまま納まるわけがありません。

そう、山陰の麒麟児・鹿之介くんは、立ち上がります・・・そんな戦記7月3日のブログでどうぞ>>
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