横綱は免許制?相撲の最高位・横綱誕生秘話
寛政元年(1789年)11月19日、横綱土俵入りの元祖・谷風梶之助が横綱免許を受けました。
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以前、「垂仁天皇の時代(3世紀前半頃)、七夕の夜に格闘技の天覧死合(←しあいがこんな字なんです(ToT))が行われた事が『日本書紀』に記されていて、それが、日本最古の相撲とされている事、それ以来七夕の夜には格闘技(相撲)が恒例行事として行われていたようだという事」を書かせていただきました(7月7日参照>>)。
そのように、神様への奉納として相撲が行われていた時代を含めると、やはり、日本の国技?と言うだけあって、相撲の歴史はかなり古いのです。
それ以来、合戦の合間の武士の体力づくりや、子供の遊び、神社のお祭りなどなど・・・相撲は、日本全国に広まっていきますが、やがて織田信長の時代を経て(「織田信長と相撲大会」参照>>)、神様への奉納とは別の、現在のような興行、あるいは、プロスポーツといった形になった相撲には、番付なる物が誕生し、江戸・元禄時代に大人気となります。
番付が誕生して以来、江戸時代を通じて、番付の最高位は、ずっと『大関』だったのですが、この頃でも、神代の昔からのなごりとして、お城やお屋敷などを建築する際の、地鎮祭の儀式の中の一つとして、大関二人を呼んで、お祓いのための『地踏み』をしてもらう・・・という事が行われていました。
儀式の時には、力士がしめ縄=綱を締めて行った事から、この儀式をする事を『横綱之伝を許す』と、言っていましたが、綱をつける事のできる立派な力士に『横綱の免許』なる物を与えたのが横綱の始まりでした。
・・・で、寛政元年(1789年)11月19日に、谷風梶之助が4番目の横綱免許を受けたわけですが・・・つまりは、横綱というのは、番付の地位ではなくて、この地鎮祭の儀式をする力士へ渡されるお許しみたいな物だったのです。
ですから、横綱の免許を持っていても番付は大関という事になります。
そして、この時、免許を受けた谷風と、もう一人免許を受けた小野川(第5代)という力士が、恒例の相撲の場所の時に、しめ縄を締め、地鎮祭で行う儀式を観客に見せたところ、これが大受け。
大人気となります。
「これはいい!」って事で、それ以来、通常の場所でも『横綱の土俵入り』として、儀式を見せるようになったのです。
それでも、まだ、番付の最上位は大関で、横綱は免許・・・という形でした。
さらに、時代はさがって、幕末の頃。
陣幕久五郎という横綱が、神社に記念碑を建てる事を思いつき、寄付金を集めるための文書に、歴代の横綱免許を受けた力士の名前を書き、そこに番号をふったのです。
その時から、『第○代・横綱』というように呼ばれるようになったのですが、それでも、まだ、番付の最上位は大関で、横綱は大関の中で免許を受けた力士・・・という形でした。
やがて、明治二十三年(1890年)五月場所・・・その場所は、それ以前から大関だった西ノ海と剱山という二人の大関に、さらに、鳴門と小錦という二人の新しい大関が誕生した場所で、四人の大関がひしめく場所となったのです。
困ったのは番付作成担当者・・・。
しかたなく、その前の場所の成績がおもわしくなかった西ノ海と剱山を、東西それぞれの『張り出し大関』という形で番付を作成します。
ところが、その番付を目にした西ノ海が激怒!
実は、西ノ海はすでに横綱の免許を受けていたのです。
今場所、大関になった二人は、新大関ですから、当然免許はまだ受けてません。
横綱の免許を受けるのに、試験があるのか、何があるのか、知らないのですが、だいたいにおいて、免許という物は、持ってない人より持っている人のほうが上というのは、想像がつきますよね。
・・・で、その西ノ海は、「横綱の免許持ってる俺が、張り出しとはどうゆうこっちゃ!」と、相撲協会にクレームの嵐!
「こんなんやったらやってられへん!休場してモンゴルに帰ってやる!」と大騒ぎです。
そこで、しかたなく、苦肉の策として、番付表はそのままに、西ノ海の名前のところに「横綱」という事を明記したのです。
それ以降、番付表には、横綱の免許を持っている力士には、横綱であるという事を書く事が習慣となりました。
そうなると、さきほども言いましたように、免許を持ってるのと持ってないのとでは、持ってる方が上みたいな気がする・・・という事で、しだいに大関より横綱のほうが上という印象が、見る側のほうにも強まってくるようになります。
そして、明治四十二年(1909年)、とうとう相撲協会は、横綱を正式な位とし、力士の最高位に位置づける事になったのです。
・・・て事は、一番最近横綱になった力士は第69代・白鵬関。
でも、その代数も、最初のほうの力士の位は大関だったって事ですね。
長~い歴史の相撲の中で、意外にも新しい・・・ちょっと驚きました~。
今日のイラストは、記事本文の中にも出てきた東京・富岡八幡に記念碑を建立した『第十二代横綱・陣幕久五郎の化粧まわし』で・・・。
カッコイイので、綱も書かせていただきました~。
ところで、今書いてて気づいたんですが、第4代の谷風さんから、第12代の陣幕さんまで、約70年の間に横綱が8人・・・けっこう少ない気がするんですが、やっぱ、横綱免許は難しかったんですかね・・・。
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コメント
相撲の試験日はいつか
投稿: 平野祐介 | 2008年11月24日 (月) 20時53分
平野祐介さん、申し訳ありません。
勉強不足で、横綱の免許を受けとるのに、試験のようなものが、あるのかどうかすら知りません。
ひょっとしたら、日頃の成績を見ての協会の推薦のようなものなのかも・・・
今後、わかりましたら、本文に加筆させていただきます。
また、もし、お知りになりましたら、お教えくださいませ。
投稿: 茶々 | 2008年11月24日 (月) 22時31分
茶々さん、こんにちは。
風邪が長引き困っています。
ここに出ている横綱の谷風が病になった病気かもしれないです。
しんどくてたまりません。
横綱と言いますと谷風以前の横綱は不明です。特に初代は空想と思われます。谷風の弟子の雷電が師匠と違い大関です。大阪で見た展示会でも学芸員の人が良くわからないと言っていました。
西ノ海と言いますとあの子孫は井筒三兄弟です。三兄弟は横綱になりませんでしたが活躍しました。あの三人は江戸時代だと大関になったかなと思います。
横綱のしめ縄もこの夏に昔は白黒を合わせたと言っていました。明治以前と以降が歌舞伎などと同様に姿かたちを変えたのかなと思った夏の相撲展覧会でした。
投稿: non | 2017年11月18日 (土) 13時05分
nonさん、こんばんは~
以前、雷電のページに書かせていただきましたが、雷電が横綱免許を取得しなかった理由も色々と囁かれてますね。
投稿: 茶々 | 2017年11月18日 (土) 17時46分
茶々様 こんにちは
今の横審は「品格、力量が抜群」を掲げてますが、当時の横綱免許の条件はどうなんでしょう。
強いのは当たり前として、「品格」なんてあったんでしょうか。
投稿: 山根秀樹 | 2021年11月19日 (金) 14時15分
山根秀樹さん、こんばんは~
史料が見つけられずにいて、私も詳細はわからないので、あくまで流れを見ての予想ですが、
現在のような「番付最高位」ではなく、「神事をやる許可証」みたいな感じなので、なんなら、今より品格には厳しかったかも知れませんよ。
先のコメントにも書かせていただきましたが、相撲史上最強の成績を残した力士は雷電為右衛門>>雷電為右衛門ですが、雷電は横綱免許を持ってません。
相撲史上最大の謎なんて言われてるそうですが、「それは雷電が対戦相手を死なせてしまったからでは?」とも噂されてます。
もし噂が本当だとしたら、故意でなく、例え事故であっても、それがネックになったと考えられるわけで…
やはり、品位は必要だったのでは?と思っちゃいますね。
投稿: 茶々 | 2021年11月20日 (土) 03時12分