慶長の役・終結~悲惨な戦の残した物は…
慶長三年(1598年)11月20日、最後まで駐留していた島津隊が撤退し、豊臣秀吉が2度目に起した朝鮮出兵・慶長の役が終結をしました。
・・・・・・・・・
後北条氏の小田原城を落とし(7月5日参照>>)、奥州の雄・伊達政宗を傘下に引き入れ、いよいよ天下を手中に収めた豊臣秀吉・・・
それは、野望か征服欲か、内紛を防ぐためか(3月26日参照>>)、はたまた最愛の息子を失った悲しみか、それとも、日本を取り巻く世界の事か(10月12日参照>>)・・・秀吉の真意は不明なれど、とにかく秀吉は、この時、無謀とも思える朝鮮出兵を開始します。
文禄元年(1592年)から文禄二年にかけて行われた第一次・朝鮮出兵=文禄の役(4月13日参照>>)は、一旦、休戦となりますが、強気の秀吉が出した講和の条件は無理難題の7か条。
結局、慶長元年(1596年)9月1日に謁見した明国(中国)の使者からの返答に納得がいかない秀吉は、再度、朝鮮に出兵する決意をするのです。
今回の陣営は・・・
第一軍:小西行長・加藤清正
第二軍:同上
第三軍:黒田長政・島津豊久・橋本元種
第四軍:鍋島直茂・鍋島勝茂
第五軍:島津義弘
第六軍:長宗我部元親・藤堂高虎
第七軍:蜂須賀家政・生駒一正・脇坂安治
第八軍:毛利秀元・宇喜多秀家
の合計8軍で、総勢14万の大軍でした。
秀吉軍は、慶長二年(1597年)春・・・2月頃から、慶尚道(キョンサンド)など、朝鮮半島南部から上陸し、二手に分かれて北上を続けます。
7月15日には、藤堂高虎・脇坂安治らの水軍が巨済島(コジェド)沖で、李氏朝鮮軍の水軍を破り、8月15日には、二手に分かれた西側の軍が南原(ナンモン)城を落とすという、まさに破竹の勢いで進軍します。
しかし、秋頃からは、その勢いに陰りが見え始めます。
せっかく進んだ軍隊が後退する事を恐れた加藤清正は、慶尚道の蔚山(ウルサン)に護りの城を構築しようとします。
しかし、「そうはさせるか!」と、その城を包囲する明軍。
建築途中の城に籠城して対抗する清正らでしたが、なんせ未完成ですから、その兵糧と水の確保もままならない状態で、苦戦を強いられる事になります(12月22日参照>>)。
何とか耐え抜いて、年を越した慶長三年(1598年)の1月4日。
毛利秀元が率いる援軍が駆けつけ、激戦の末、明軍の包囲を解く事に成功しました。
この頃から、明軍・朝鮮軍だけでなく、民衆の抵抗も激しくなり、秀吉軍は各地で敗戦を経験し、見るからに劣勢の嵐が強くなっていくのです。
そんなこんなの8月18日、海を隔てた日本で、とんでもない自体が起こります。
その年の端午の節句以来、病に臥せって伏見城で療養中だった秀吉が亡くなってしまったのです(8月18日参照>>)。
生前、秀吉が任命した徳川家康・石田三成ら五大老と五奉行は、協議の結果、秀吉の死を伏せたまま、李氏朝鮮・明国との停戦交渉を開始します。
10月初めには、その停戦交渉が成立し、秀吉軍の撤退を伝える使者が朝鮮半島を駆け巡りますが、そうとは知らない島津隊は、10月1日に慶尚道の泗川(サチョン)で、敵を相手に奮戦しています。
李氏朝鮮と明軍からの急襲に、島津隊が答えた形の合戦でしたが、なんせ伝達手段が限られている時代で、敵陣への停戦命令も、いつ届いたのやらわかりませんから・・・。
やがて、10月の中旬頃には、各隊に連絡が届き、最前線で奮闘中だった加藤清正・鍋島直茂・黒田長政らも撤退を開始します。
そして、この文禄の役で、窮地に陥った小西隊や加藤隊を助け、勇猛な大活躍をした島津隊が、最後の最後・・・慶長三年(1598年)11月20日に撤退を開始し、25日に完了・・・ここに、慶長の役は終戦を迎えたのです。
結局、出兵をした張本人が死に、その本心もわからないまま、多くの兵や民衆の命を奪ったばかりか、朝鮮半島の地も荒らし、何の成果も見られないまま、この戦いは終った事になります。
また、以前【陣形・陣立のお話】(9月8日参照>>)でもお話しましたように、戦国の合戦での評価は自己申告制で、「その申告を証明する目撃者や証拠の品がなくては認めてもらえない」というのが一般的でした。
遠い異国での戦争であるがゆえ、自分の武勇を証明する証拠として、討ち取った敵の耳を塩漬けにして持ち帰ったり、工芸や科学の技術者・学者などの文化人を連れ帰るという、悲しい出来事をも起してしまいました。
そんな、朝鮮から連れてこられた中に、この戦いで人生を大きく狂わされたおたあジュリアもいましたが、彼女のお話は以前書かせていただきましたので・・・(9月1日参照>>)。
しかし、その非人道的行為も、いかに命を賭けて戦ったか、いかに頑張ったかを秀吉に伝え、少しでも褒章に預かろうという思いからの行動・・・しかし、戦いから帰ってみると、肝心の秀吉は、もういません。
しかも、今の世が必要とするのは、武勇優れた一騎当千の武者ではなく、内政を巧みにこなす政治家タイプの武将でした。
朝鮮半島で、命を賭けて戦った武将の多くは、どちらかと言えば、勇猛果敢な武勇に秀でた者たち・・・そんな体育会系の武将たちが、まともな恩賞もないばかりか、逆に国内で事務的な事を行っていた文系の武将が大手をふって歩く状態に耐え切れない事は火を見るよりも明らかです。
やがて、彼らの確執は、豊臣家分裂へと向かい、そこには、実際に半島には渡海しなかった事で(1月26日参照>>)、その軍事を温存する事ができた徳川家康の入り込むチャンスが出来てしまう事になるのです。
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★徳川家康の入り込む余地・・・つまり関ヶ原の合戦へと動き始める石田三成・襲撃事件は3月4日のページでどうぞ>>
★その後の朝鮮との関係改善交渉については【朝鮮出兵後の関係改善に尽くした宗義智】でどうぞ>>
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コメント
この朝鮮出兵で島津義弘が持っていった食料のひとつがお菓子として残っています。
「いこもち」といいます。
白くてあんこの入ってない和菓子で、もち米を使ってますがもっちり感はそれほどなく、あっさりしてます。
硬いぎゅうひみたいです。
あと島津家別邸の磯邸園には義弘が連れて行った猫を奉る「猫神社」があります。
猫の目で時間を測った、といわれてますが、当てにならないんですけどね(^^;)
猫グッズがかわいいです♪
投稿: 味のり | 2007年11月20日 (火) 08時14分
味のりさん、おはようございます~
へぇ~、そうなんですか?
大陸への出兵・・・いったいどんな兵糧を持っていったのか、とても興味がありましたが、なるほど、和菓子のような物なら日持ちしますよね~。
ペットを連れていってもいいなんて・・・あっ・・・そうか、時間を計るためだからペットじゃないんですね。
ひこにゃんに負けるな!猫グッズ・・・
勉強になりました~
投稿: 茶々 | 2007年11月20日 (火) 08時48分
こんにちは♪
いつも見させていただいておりますが、
書き込みは初めてだったと思います(多分。。汗)
よろしくお願いします☆
秀吉の無謀な朝鮮出兵・・・
この戦争の最大の落し物(?)が、
「唐辛子」なんだそうです(汗)
唐辛子自体、大陸から日本に来た物ですが、半島はスルーしていたようです。
秀吉軍は、寒さ対策に持っていったのかな?
ちなみに、このネタは「チャングム料理教室」
(ドラマ「チャングム」関係者による韓国料理番組)
で紹介されていたので、
日本側の「こじつけ」ではないようです(笑)
朝鮮出兵がなければ、キムチが今ある形ではなかったかも??
味のりさん同様、食べ物ネタですね~(汗)
投稿: リューザキ | 2007年11月20日 (火) 09時32分
リューザキ様、はじめまして~
コメントありがとうございます。
な、な、なんと!
あの唐辛子が・・・?
これは驚きですね~
何も得る物が無かったと思われていた朝鮮出兵に、キムチ誕生が関わっていたとは・・・
おもしろいネタをありがとうございます~
早速、誰かに言いたくなりますね。
投稿: 茶々 | 2007年11月20日 (火) 16時53分