聖徳太子のために再建された謎と不思議の法隆寺
昨日の山背大兄王(11月1日参照>>)の関連で、今日は、法隆寺のお話を・・・。
日本最初の世界遺産で、聖徳太子を祀る法隆寺・・・。
現在、金堂に安置されている薬師如来像の光背の銘文によれば、「推古十五年(607年)に、聖徳太子が父の用明天皇の病気治癒を祈願して建立した」と書かれています。
また、『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』では推古六年(598年)の建立とされ、『日本書紀』には推古十四年(606年)と書かれています。
多少の違いはあれ、このくらいの誤差は仕方ないかな?という感じなんですが、その同じ『日本書紀』の天智九年(670年)の4月のところには「法隆寺災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえも)余ること無し」・・・つまり「全焼した」と書かれてあります。
その後の平安時代のいくつかの書物には、「和銅年間(708年~714年)に再建をした」という記述もあります。
この、日本書紀の中の全焼説は、長い間、論争を呼んできました。
・・・というのも、美術史・建築史の観点から見れば、現在の法隆寺の伽藍は、飛鳥時代の建築様式で建てられているわけで、同じ斑鳩にある法輪寺や法起寺なども、金堂内部に飛鳥様式が使用されているものの、塔などは、あきらかに天武朝の様式である事が確認されています。
「もし、法隆寺も、後の時代に再建されているなら、別の様式が取り入れられているだろう」と考えられますが、現存の法隆寺は、『高麗(こま)尺』と呼ばれる大化の改新以前にしか使用されていなかった測定基準を用いて建築されているのです。
注:今、燃えた・燃えないと論じているのは、法隆寺の西院の事です。
ご存知のかたも多いでしょうが、法隆寺は金堂や五重塔が建つ西院と、例の救世観音が納められている8角形の夢殿のある東院とに分かれていますが、この東院は、天平十一年(739年)に、すでに平城京に都が移り、廃墟のようになっていた聖徳太子一族の住まい・斑鳩宮跡を、「このままではしのびない・・」と、安倍内親王(後の孝謙天皇・9月11日参照>>)が、創立した事が定説となっていますので、こちらは論争には入りません。
そして、現在の西院の南東には、『若草伽藍』と呼ばれる塔や金堂の建っていた跡が見られる事から、先ほどの論争の「法隆寺は全焼した」との主張でも、斑鳩寺と呼ばれていた当時は、若草伽藍と西院が同時に建っていて、若草伽藍が全焼し、西院だけが残ったのだとの考えが多くありました。
しかし、そんな論争に終止符を打つ時がやってきます。
昭和十四年(1939年)の発掘調査で、若草伽藍の跡地から、四天王寺式の配置(本家HPの【仏教建築の時代変化】参照>>)の塔や金堂跡がはっきりと確認されたのです。
さらに、西院・若草伽藍両方の中心線の方向から考えて、同時に建っていると考えるのは不可能だという事、しかも、そこから発掘された瓦は、西院のそれよりも古いという事もわかりました。
つまり、聖徳太子が創建した斑鳩寺と呼ばれた若草伽藍が焼失し、その後、現在の法隆寺・西院が再建されたという事で、今のところ、この説が定説となっているようです。
しかし、さらなる謎も残ったままです。
先ほども書いたように、再建されたのなら、なぜ?飛鳥時代の様式なのか?という事も、そして、第一、再建の年数すらはっきりしません。
特に、 現存する五重塔には、すごく興味をそそられます。
実は、その柱の下には、火葬された骨が埋められていましたが、誰の物なのか?
塔の中で一番重要であろう舎利を収める容器に、肝心の舎利が無いのはなぜか?
それらの答えは未だに出ていません。
さらに、その五重塔の相輪部分(屋根の一番上の部分です)には、なぜか4本のカマが装着されています。
このカマは、豊作の時には上にのぼり、凶作の時には下にさがるという伝説がありますが、なぜ、着けられているのかは謎です。
一般的には、「雷という魔物を寄せ付けないため」とされていますが、はたして、寄せ付けたくない魔物は、本当に雷だったのでしょうか?
昨日の記事で、日本書紀には「蘇我入鹿に攻撃された山背大兄王一族が、法隆寺の五重塔にて自害した」とある事を書かせていただきましたが、年代からいっても、この時の五重塔は現存する五重塔ではなく、焼失した斑鳩寺(若草伽藍)の五重塔です。
聖徳太子が、父・用明天皇の病気治癒を祈願して建てた斑鳩寺の跡に、聖徳太子を偲んで創建された太子を祀る法隆寺・西院。
孝謙天皇が、まさに天然痘の恐怖の中、荒れ放題の斑鳩宮に、太子を偲んで創建した夢殿・・・そして、その中に安置された救世観音・・・。
藤原一族にとって、聖徳太子を偲ぶという事が、どういう事か?
五重塔の大きなカマで、防ぎたかったのは何なのか?
何となく見えて来るような気もしますが、あくまで妄想の世界です。
もちろん、たとえ法隆寺が再建されていたとしても、世界最古の木造建築である事には変わりなく、たとえ、聖徳太子一族の鎮魂のために建てられたとしても、その魅力が薄れる事はありません。
いや、むしろ、謎が深まれば深まるほど、さらに魅力を増していくようです。
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