佐々成政の北アルプスさらさら越え
天正十二年(1584年)11月11日、織田信長の次男・織田信雄が、独断で、羽柴(豊臣)秀吉との講和を受諾しました。
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織田信長が本能寺の変(6月2日参照>>)で倒れた時、信長とともに長男・信忠が亡くなり、その後継者の候補は、柴田勝家の推す三男・神戸信孝と次男・信雄、そして、羽柴秀吉の推す信忠の息子・三法師の三人。
信長の死後に開かれた後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)の中で、秀吉が重臣・丹羽長秀を抱き込んだ事と、滝川一益が会議に遅れた事により、後継者は三法師に決定しますが、もちろんそれは、幼い三法師の後見人となって、天下の実権を握ろうする秀吉の策略です。
清州会議の決定に納得のいかない織田家一番の家臣=柴田勝家を賤ヶ岳の合戦で破り(4月21日参照>>)、三男・信孝は自害(5月2日参照>>)に追い込んだものの、途中まで、秀吉の味方だった次男の信雄が、徐々に、秀吉の勢いに脅威を感じはじめます。
やがて、この信雄が徳川家康を頼った事から、天正十二年(1584年)3月、「秀吉VS家康+信雄」の戦いが勃発します。
この時の一連の合戦が小牧長久手の戦いと呼ばれる戦いです。
(3月12日:亀山城攻防戦>>)
(3月13日犬山城攻略戦>>)
(3月17日羽黒の戦い>>)
(3月28日・小牧の陣>>)
(長久手の戦い4月9日>>)
(蟹江城攻防戦6月15日>>)
はっきり言って、この小牧・長久手の戦いは、家康・信雄連合軍の勝利。
しかし、もはや天下に一番近いところにいる秀吉・・・政治的には大勢は変わらず、敗戦後も、相変わらず秀吉有利でした。
そんな中、秀吉が下手に出て、信雄に和睦の話を持ちかけます。
家康を入れず、信雄だけにこの話を持っていったところが、秀吉の作戦勝ちですね。
天正十二年(1584年)11月11日(15日の説もあります)、信雄は、伊賀と伊勢半国の割譲を条件に講和を、独断で受け入れてしまいます。
もともと、「信長の後継者は誰か?」というところから始まった一連の戦いです。
担がれていた主役が、勝手に「神輿(みこし)」を下りてしまっちゃぁ~、他の武将に戦うための大義名分は無くなってしまうわけで・・・(11月16日参照>>)。
家康は、次男・於義丸(後の結城秀康)を、秀吉の養子として大坂に送る事で、小牧・長久手の戦いの幕を引きました。
中心人物の相次ぐ講和で困惑したのは、地方で戦っていた武将たちです。
家康の誘いで、反・秀吉側にまわり紀州で戦っていた根来衆も、四国で戦っていた長宗我部元親も・・・
中でも、困り果てたのは、越中・富山の佐々成政(さっさなりまさ)です。
織田派だった成政は、それこそ信雄のために家康側に味方し、去る8月に秀吉側の前田利家と一戦交えてもいます(8月28日末森城の攻防戦・参照>>)。
西に加賀(石川県)の前田利家、東には、これまた秀吉派の越後(新潟県)の上杉景勝がいます。
さぁ、どうする?成政。
「何とか、家康に会って話がしたい・・・」
もちろん、彼は、今回の講和にも反対だったので、直接会ってその事も説得したかったのです。
そこで、成政、一世一代の決断・・・真冬の北アルプス立山越えを決行するのです。
11月23日、成政は城を出ると、立山の麓・芦峅寺(あしくらじ)に行って、村の猟師に道案内を頼みます。
実は、この芦峅寺の猟師さんたち・・・あの昭和の一大プロジェクト・黒部ダムの建設の時にも、名だたる冬山登山家がさじを投げ出したという極寒の立山に、多くの機材を担いで道案内をし、「彼らなくしてはダムの建設は成しえなかった」と言わせた人々・・・その人たちのご先祖様なのです。
黒部ダム建設の時は、関わったスタッフがこの芦峅寺の猟師さんのズゴワザに気づくまで、しばらくの時間を要したようですが、地元の成政さんは、さすが!、すでに彼らの腕を知っていたようです。
富山には、この時の話が民話として伝えられています。
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成政一行が雪深い山道を歩いていると、遠くにあかりが見えます。
近づくと小屋があって、中では老人が二人、囲炉裏(いろり)にあたっています。
「あんたら、なんで、こんな山ん中に住んどられるんがけ?」
・・・と、成政が聞くと、二人は源平の合戦で敗れた悪七兵衛景清(あくしちひょうえのかへきよ)と、五十次郎嵐兵衛盛継(いがらしじろうひょうえのもりつぐ)という平家の武将だと名乗ります。
驚いた成政が、源平の合戦が400年前の出来事である事を告げると、老人たちも「もう、そんなに月日が経ったのか・・・」と驚きます。
景清・盛継と言えば、平家でもその名が知れた猛者・・・ここは、本物なら、ぜひ、その力を見せてくれ・・・と成政が頼むと、老人たちは、サッと雪の中に飛び出し、それぞれ山のような大きな岩を、軽々と持ち上げたかと思うと、「エイッ!」と谷底へ投げ落としました。
成政は、この二人不思議な老人から、信州に抜ける道を教えてもらい、無事に山越えをする事ができましたが、二人の老人は成政に道を教えた途端、かき消されるように姿を消し、小屋も跡形もなく消え、一面の雪世界が残っただけだったそうです。
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命がけの立山越えを決行した成政ご一行が、信濃(長野県)上諏訪に到着したのが12月1日、そこから南に下って、やがて12月25日(12月4日とも)、遠江・浜松城に到着・・・
家康に面会して、秀吉との徹底抗戦を主張しましたが、残念ながら、彼の望みは聞き入れてはもらえず、結局、とぼとぼと、もと来た道を帰る事になるのですが、考えてみれば、近代装備を持たない中での、冬の北アルプス越えは、登山史上に残る快挙です。
はっきりしたルートはわかりませんが、佐良峠という峠を越えていったという事で、この成政の北アルプス越えを『さらさら越え』と呼ぶそうです。
わたくし、仕事の関係で十年ほど富山に住んでおりましたが、地元という事もあって、富山では、今でも佐々成政ファンの人がかなり多いです。
JR富山駅では、人気の「ますのすし」と一緒に「佐々成政弁当」も売られているくらいですから・・・。
上記の富山の民話・・・さすがに、平家の落ち武者登場は現実にはありえない話ですが、そんな成政ファンの富山の人たちが、「奇跡にも近い快挙を成し遂げたわが殿様には、天が味方についとるがいね~」といった気持ちで、後世に伝えていったものではないかと思っております。
★その後の成政さんについては
【小牧長久手余波&越中征伐前哨~阿尾城の戦い】>>
【秀吉VS佐々成政~富山城の戦いin越中征伐】でどうぞ>>
今日のイラストは、
さらさら越えの佐々成政さん。
今日は信雄さんが、勝手に講和を結んじゃった日ですが、やはり話題の主役は成政さんなので・・・
バックは、冬の間眠っていた立山が、立山アルペンルートの開通とともに目覚める5月・・・以前、雪の大谷を見に行った時の写真を使用しました~場所は室堂付近です。
小牧長久手・関連ページ
●3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
●3月12日:亀山城の戦い>>
●3月13日:犬山城攻略戦>>
●3月14日:峯城が開城>>
●3月17日:羽黒の戦い>>
●3月19日:松ヶ島城が開城>>
●3月22日:岸和田城・攻防戦>>
●3月28日:小牧の陣>>
●4月9日:長久手の戦い>>
:鬼武蔵・森長可>>
:本多忠勝の後方支援>>
●4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
●5月頃~:美濃の乱>>
●6月15日:蟹江城攻防戦>>
●8月28日:末森城攻防戦>>
●10月14日:鳥越城攻防戦>>
●11月15日:和睦成立>>
●11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
●翌年6月24日:阿尾城の戦い>>
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コメント
先週の日曜日に、安田城跡に行ってきました。
天気が良くって、ナカナカ快適な日和で、歩きまわってきました。まぁ~規模が小さいからたか知れてますけど~
投稿: 山は緑 | 2009年10月 5日 (月) 22時00分
山は緑さん、こんばんは~
安田城跡・・・行って来られたんですかぁ?
懐かしいです~
天地人では、佐々成政が出るかと期待していたんですが、少し残念でしたね。
投稿: 茶々 | 2009年10月 6日 (火) 01時42分
百人余りの供を連れて行ったのに、越中に帰る時には‘7人に’減ったそうです。
投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月16日 (土) 16時13分
クオ・ヴァディスさん、こんにちは~
殿様が無事だったですが、過酷な山越えだったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2015年5月16日 (土) 16時41分