彗星のごとき軍略家・大村益次郎の暗殺
明治二年(1869年)11月5日、去る9月4日に京都で襲撃された大村益次郎が、その時の傷が原因で死亡しました。
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長州(山口県)のお医者さんの息子として生まれた大村益次郎(おおむらますじろう=村田蔵六さんとも言いますが、ややこしいので、今日のところは大村益次郎さんで通させていただきます)。
父の後を継ごうと医学の勉強のため、大阪は緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(6月10日参照>>)に入門します。
そこで、医学とともに、個人的に興味を持った兵学の勉強をし、オランダ陸軍の兵書を翻訳したりなんかしていましたが、彼の目的は、故郷に帰って父の後を継いで医者になる事であり、兵学はあくまで趣味という位置づけだったようです。
やがて、勉強を終え、故郷で目標通り医者になりますが、その評判はあまり良くありません。
・・・というのも、腕は確かなものの、とにかく愛想が悪い・・・。
靖国神社に銅像があるので、ご存知かもしれませんが、彼は、デコが出ていて、アゴが出ていて、目がくぼんでいて、眉毛ボーボー・・・口がへの字で、普通にしてても怒ってるように見える損な顔つき・・・。
そんな顔つきなのに、人に愛想をふるのが大キライ・・・てゆーか、ムダな事がキライな性格なのだそうで、彼にとっては、さほど親しくもない人間に笑顔をふりまくのはムダな事、物事を伝える以上に話をするのもムダな事・・・究極の合理主義だったのです。
結局、愛想の悪い医者は、三年間、流行らずじまい・・・そんな彼に、新しい就職口からお声がかかります。
それは、来るべき未来のために軍備の近代化を図ろうとしていた宇和島藩から、兵学の才能を求めての事でした。
実は、彼の兵学の才能を一番先に見つけていたのは、適塾の洪庵先生で、人材を探していた宇和島藩に彼を推薦したのです。
そうして、宇和島藩に召抱えられた益次郎でしたが、ある日、本業の医者としての仕事を頼まれます。
それは、江戸で行われる解剖の執刀でした。
もちろん、その解剖というのは、医学のための公開の解剖ですから、執刀と同時に人の体の構造について、臓器について、いろいろ説明しなければなりません。
冷静沈着に執刀を続けるかたわら、お得意の無駄の無い明確な説明をする益次郎・・・その様子を、会場でジ~ッと見つめている人物がいました。
あの桂小五郎(かつらこごろう=木戸孝允)です。
その淡々とした冷静ぶりに、隠れる才能を見出した小五郎でしたが、知り合いから益次郎の名前を聞いてびっくり。
実は、西洋との戦力の差を知った小五郎が、軍備を近代化するために、オランダ語のできる人物を探していた時、彼の名前だけは聞いたものの、あまりの身分の低さに「たいした事ないだろう」とそのまま探さずにいた人物が彼だったのです。
しかも、宇和島では、オランダ語だけではなく、兵学や医学も教える塾を開いていて、その塾には長州藩の久坂玄瑞(くさかげんずい)が入学していたにも関わらず、同郷である事さえ告げていない・・・といった変人ぶりに興味津々・・・「長州藩にこんな逸材が埋もれていたなんて!」と、大興奮の小五郎。
即座に益次郎を、翻訳者として長州に招きます。
初仕事で、オランダ語の兵書を翻訳する益次郎・・・早速その才能を見出した小五郎が間違いではなかった事が確かめられる事になります。
彼の翻訳は、ただの翻訳だけにとどまらず、見事にまとめあげた、とても理解しやすい兵書に仕上がっており、さらに近未来の兵制を考えた提案にもなっていたのです。
それは、未だ、「一騎当千の兵」の影から抜け切れない時代に、学問を身につけた指揮官の知恵のある策略によって戦う・・・という当時としては画期的なものでした。
さらに、その後、藩士に教える時も、彼の説く兵術は簡潔でわかりやすく、一つのムダもなかったと言います。
しかし、小五郎によって、その才能を見出されたものの、身分の低い彼はなかなか出世できず、しかも、「剣術もできない、馬にも乗れない者が戦を語るなど・・・」と周りの者には苦笑され続けます。
第2次長州征伐が始まった慶応二年(1866年)頃、益次郎は42歳にして、やっと司令官という立場に立ちます(6月16日参照>>)。
浴衣姿にワラぞうりを履き、馬にも乗らず、片手にうちわを持って・・・およそ戦闘態勢に見えない指揮官の登場に驚く藩の兵士たち・・・しかし、そんな彼を一躍有名にする出来事がやってきます。
鳥羽伏見の戦いに始まる一連の戦い・・・特に、上野戦争では、彼の立てた作戦はことごとく成功し、すべてが彼の言った通りになります(4月4日参照>>)。
それどころか、戦争の終焉の時間さえ当ててみせるのです(5月15日参照>>)。
見事に勝ち進んで行く連合軍・・・。
やがて迎えた明治維新では、その才能を買われ、陸軍の実権を握る立場となります。
当然、彼の目指す軍隊は、過去の武士の兵法ではなく、西洋式の近代的な軍隊です・・・国民皆兵を訴え、着々と準備を整える益次郎。
しかし、当然の事ながら、そんな彼に納得できないのは、武士の特権を捨てきれない士族たちです。
明治二年(1869年)9月4日・・・京都に出かけた益次郎は、そんな過激分子たちに襲撃され(9月4日参照>>)、2ヶ月後の今日・11月5日、襲われた時の傷が原因で敗血症を起し、この世を去る事になります・・・まるで、すべての準備を整えて、その役目を終えたかのように・・・。
桂小五郎・・・後の木戸孝允は、よく益次郎の事を、こう語ったと言います。
「彼は、天国の松陰先生が会わせてくれた大切な友人だ」と・・・。
解剖のあった日に出会ったあの時のシーンが、運命のように感じ、小五郎の脳裏に焼きついて離れなかったのでしょうね。
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