あの東郷ターンを生んだ武田信玄の甲州水軍
昨日の水軍つながりで、今日は、今年の大河の主役(主役は勘助か・・・)武田信玄の水軍について、書かせていただきます。
・・・・・・・・・
海の無い甲斐の国を治める武田信玄にとって、水軍を持つ事は長年の夢。
「海を制する者は宇内(天と地の間)を制す」
と、ご本人もおっしゃってるように、海への進出には並々ならぬ情熱を持っていました。
そんな信玄が本格的に水軍を編成したのは、今川義元亡き後の駿河を攻略した永禄十一年(1568年)頃からの事です(12月13日参照>>)。
念願の海を手に入れた信玄さん・・・しかし、さすがに甲斐の国の昔ながらの家臣たちには、海の知識はほとんどありません。
まずは、今川の旧臣で清水港を拠点としていた岡部長宗、興津港の伊丹康直らを船大将に登用します。
それから、伊勢・駿河の海を把握しつくしていた後北条氏の間宮武兵衛・間宮御酒丞(みきのじょう)らをヘッドハンティング!
さらに、伊勢の北畠氏の旧臣・小浜景隆と向井正勝には、50の艪(ろ)を持つ大型の安宅船(昨日のブログを見てちょ>>)を与えて、船隊の指揮をまかせます。
・・・と、仕方が無い事ですが、ほとんど助っ人による寄せ集め軍団。
それでも、信玄は、清水を拠点とした駿河湾の制海権を掌握するため、来るべき、VS後北条氏との海戦を想定した、緻密な海上作戦をも考えていたのです。
それは、孫子の兵法(3月11日参照>>)をベースにした船隊の陣形を持つ甲州水軍独特の物です。
その基本の陣形は二つ・・・
まずは、『天地人の構え』
これは、船団を三手に分け、1手は正面から、他の2手は左右から敵の側面を狙う・・・という陣形です。
もう一つは、『陰陽の構え』
これは、船団を二手に分け、1手は正戦、もう1手は奇襲攻撃をかける・・・という物です。
『陰陽の構え』は、波の様子、気象条件によって『天地人の構え』が行えないとき用の作戦です。
結局、信玄が、この水軍を出して、実際に海戦をする事はありませんでしたが、天正八年(1580年)3月15日に、息子の勝頼が駿河・浮島ヶ原の合戦で、北条氏直の水軍を迎え撃ち、水軍強しの北条氏と互角に戦っています。
武田氏滅亡の後、この甲州水軍の叡智は、向井・間宮・小浜らによって、徳川家康の水軍へと受け継がれ、山鹿素行といった軍学者が『甲州流軍学書』として書き残しました。
東郷はかなりの信玄兵法ファン。
信玄の出生地である甲府の積翠寺に「信玄出生の地」なる碑を建立したくらいです。
東郷が、あの日本海海戦で、信玄の『天地人の構え』『陰陽の構え』を駆使し、ロシアのバルチック艦隊を破って、世界をアッと言わせたのは、信玄が水軍を組織した300年後の明治三十八年(1905年)の事でした。(5月27日参照>>)
「 戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事
- 浅井&朝倉滅亡のウラで…織田信長と六角承禎の鯰江城の戦い(2024.09.04)
- 白井河原の戦いで散る将軍に仕えた甲賀忍者?和田惟政(2024.08.28)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
- 本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防(2024.04.03)
コメント