肥前の熊・龍造寺隆信の人生波乱万丈
天正七年(1579年)11月26日、肥前の熊と呼ばれた龍造寺隆信が、筑紫・肥後北部の平定を完了しました。
・・・という事で、今日は、ひょっとして、このブログで初登場?の隆信さんが、とても波乱万丈の人生をおくっていらっしゃいますので、個々の合戦などは、おいおい書かせていただく事にして、まずは、その波乱万丈の人生をご紹介したいと思います。
・・・・・・・・・・・
豊後(大分県)の大友宗麟、薩摩(鹿児島県)の島津義久とともに「九州三強の一角」と言われた備前(佐賀・長崎県)の龍造寺隆信さん。
享禄二年(1529年)に龍造寺周家(ちかいえ)の長男として生まれますが、7歳の時に龍造寺家ゆかりの宝琳寺で出家し、大叔父・豪覚に預けられます。
その頃から、僧侶とは思えない大胆さ、豪快さを持った人だったという事ですが、彼の血筋は、龍造寺家では、あくまで分家にあたる血筋で、このまま行けば僧侶としての道を全うしていたのかも知れませんが、彼が17歳の天文十四年(1545年)1月23日・・・一大事件が起こってしまいます。
主君にあたる少弐資元(しょうにすけもと)が大内義隆から攻撃を受けた時、救援しなかった事で、謀反の疑いがかけられ、少弐氏の重臣・馬場頼周(よりちか)に、祖父・家純、父・周家、叔父・頼純など、龍造寺家の主だった人々が、皆、騙まし討ちされてしまったのです(1月23日参照>>)。
ただ一人生き残った曽祖父・家兼が、報復しようとしますが、家兼はすでに90歳を過ぎたおじいちゃん・・・結局、翌年の春に亡くなってしまうのです。
しかし、その家兼が遺言を残したのです。
「中納言(隆信の事)には素質がある。この龍造寺家を建て直す者は中納言しかいない。還俗(げんぞく=僧侶から一般人に戻る事)させろ。」と・・・。
彼は曽祖父の遺言通りに僧侶をやめ、まずは胤信(たねのぶ)と名乗り、本家の龍造寺胤栄(たねみつ)とともに、龍造寺家のために奔走します。
やがて、胤栄が亡くなると、その奥さんを妻とし、本家・龍造寺家を継ぎ、晴れて正々堂々と大内義隆と手を結び、義隆の隆を貰って、名前を隆信と改めます。
(やっぱ大内と関係あったんやん!)
そして、永禄二年(1559年)1月11日には、かつての主君であった少弐氏の少弐時尚(ときひさ・冬尚とも)を晴気城(佐賀県)に攻めて、城主・千葉胤頼(たねより)を討ち、時尚自身をも自害に追い込み、名門・少弐氏を滅亡へと追いやるのです(1月11日参照>>)。
そんな、ノリノリの隆信さんにも、ピンチの時はありました。
それが、元亀元年(1570年)・・・当時、九州最強だった大友宗麟に佐賀城を攻められた時。
しかし、この時は、従兄弟の鍋島直茂の働きによって危機を脱しました(8月20日参照>>)。
そして、いよいよ、最高潮の天正七年(1579年)11月26日・・・筑紫・肥後北部の平定です。
その頃の彼の豪快ぶりが垣間見えるエピソードが残っています。
まさに、上り調子の隆信に恐れをなした大友配下の戸次鑑連(へつぎあきつら)が和睦を申し入れ、その和議が成立した後、「お祝いに」と、太刀や馬・酒などの贈り物を持った使者がやって来た時の事。
普通、この戦国の世では、酒などの飲食物は毒が入っている可能性もあり、飲まないのが常識とされていましたが、隆信は使者の目の前で、茶碗三杯の酒を率先して飲み干し、「名将・鑑連が、そのような姑息なマネはしない!」と言いながら、盃を使者に投げたと言います。
度胸のすわった人ですね~。
しかし、そんな隆信さん。
家督を嫡男の政家に譲って、隠居生活に入ってからおかしくなってきます。
そのお酒に溺れてしまうのです。
波乱万丈の人生を送った人が、ふと、引退すると、そうなってしまうモンなんですかねぇ。
だんだん、おかしな状態になって来ると、当然、家臣の離反・・・という事も起きてします。
そんな中で、隆信は、娘婿の小田鎮光(しげみつ)が、大友氏に寝返ったのを知ると、「婿なので、悪いようにはしないから、一度話し合おう」という手紙を娘に書かせ、酒宴の席に誘っておいて騙まし討ちするという姑息な手段を使ったり、幼い人質をはりつけにして殺害するという残忍な行為に走ったりするようになり、家臣の心はますます離れていきます。
やがて、太り過ぎて、馬にも乗れなくなった隆信に決定打が襲いかかります。
家臣・有馬晴信が離反し、島津と手を結んだのです。
これには、周囲も動揺します。
「許すか!」とばかりに隆信は、5万という大軍を率いて晴信を攻撃・・・天正十二年(1584年)3月24日に起こった『沖田畷の合戦』です(3月24日参照>>)。
しかし、この時も、自分は太り過ぎて動けないのに、兵には無謀な突進のみを命令するという、現役の頃と比べると、まるで別人・・・以前の面影まったく無しの采配ぶりだったと言います。
結局、彼はこの合戦で命を落とす事になります。
有馬と連合を組んでいた島津方によって討ち取られた隆信の首は、その後、龍造寺家に返される事になりますが、なんと、龍造寺家は受け取りを拒否!
しかたなく、国境の願行寺というお寺に葬られます。
龍造寺家にとって『不運のドクロに用は無い』・・・のだそうです。
若き頃、曽祖父の兼家は、彼の中に、人並み外れた大器を見たはずです。
隆信に会った事のある宣教師は、彼の事を「シーザーのような人物である」と書き残しています。
『肥前の熊』の異名を持つ龍造寺隆信・・・家全体のギクシャク感を残す事になった晩年の彼の行動は、その後、龍造寺家そのものをも没落させてしまう事になります。
残念ですね~最後まで勇猛な隆信さんを見てみたかったです~。
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コメント
死に時を間違えましたね。
殺されても名前と影響力の残ったシーザーと何と違うことでしょう。
関係ないですが、私の知り合いで、九州のほうで病院を経営している一族(その人はお医者さんではありませんが)のいる方は、少弐氏の末裔だと言っていました。
投稿: 乱読おばさん | 2007年11月26日 (月) 10時38分
ホントですね~
戦乱の世ですから、ある程度姑息で、ある程度残忍でないと生き残ってはいけませんが、酒に溺れて精神錯乱はいただけませんねぇ・・
ところで、末裔のかたは、そのまま少弐という苗字なんでしょうか?
メチャメチャめずらしい苗字じゃないですか?
なんか、カッコイイ苗字・・・
投稿: 茶々 | 2007年11月26日 (月) 17時44分
2日の新春時代劇SPを見ました。7時間一気に見ましたが、「1580年以降の出来事」を省略した感があります。官兵衛の作戦がうまくいけば関が原の戦いが長引けば、戦いのどさくさにまぎれて黒田家が(少なくとも)九州を制圧、と言う事もありえましたね。その作戦の経緯はNHKの「江 姫たちの戦国」で見ましょう。
ただ「2人の軍師」を見ると、「6時間x2日」(トータルなら昔と同じ「2時間づつの6部構成」)でもいいと思います。こうすれば「1月2日」にこだわる事がないです。7時間で収めきるには短いです。見るのには長いですが(笑い)。
ちなみに去年の新春時代劇SPの登場人物の1人が、黒田家と対峙した龍造寺家の姫と言う設定でした。
投稿: えびすこ | 2011年1月 5日 (水) 11時58分
えびすこさん、こんにちは~
7時間という長丁場だったのでHDに撮って、別番組が始まるまでの冒頭部分を見てましたが、あの雰囲気だと途中までしかやらないのか?と思ってました。
最後のほうにチョコッとだけ見たら、ずいぶんと晩年までやってたので驚きました。
「二人の軍師」という題目なら、軍師として活躍した時代に集中しても良かったのではないかと思いますが、まだ全編を見てないので…
投稿: 茶々 | 2011年1月 5日 (水) 13時50分
「龍造寺隆信の配慮と決断、カエサルに似たり!」
鍋島氏の出自をを少弐氏とする説がありますよね。
龍造寺氏から鍋島氏への政権禅譲には、鍋島氏による少弐氏復讐劇だった・・・なんてストーリーをお遊びで考えたことがありました。
(現実的にはあり得ない話ですが)
同様に淀君による豊臣氏滅亡は、浅井氏復讐劇だったとか。
(あれも単に権力もって人がおかしくなっただけとは思いますが)
佐賀に8年間住んで、「鍋島様」という言葉はよく聞き、学校の授業でも鍋島氏の話を聞かされ(校名が「鍋島小学校」だったので当然かもしれませんが)、佐賀の銘菓の名前になっているぐらいですが、「龍造寺」というと、とんと聞いたことが無いあたりが、歴史の中に埋もれてしまった龍造寺氏というものを実感します。
投稿: よっすぃー | 2011年2月14日 (月) 13時14分
よっすぃーさん、こんにちは~
やはり「鍋島様」「鍋島様」なのですね~
お酒に溺れなければ龍造寺さんもイイ人だったのかも…
投稿: 茶々 | 2011年2月14日 (月) 14時21分