石舞台古墳のあるじは?
今日、11月18日は『土木の日』なのだそうです。
明治十二年(1879年)に、日本で最初の工学系の学協会・日本工学会が設立された事と、『土木』という文字を分解すると「十一」と「十八」になる事から昭和六十二年(1987年)に制定された記念日だそうです。
土木技術・・・というと、ついつい思い出してしまう古墳・・・思い出したら、もう、頭から離れないので、今日は古墳について書かせていただきます。
以前、古墳については、仁徳天皇陵の大きさや埴輪の使用目的について(3月22日参照>>)チョコッと書かせていただきましたので、本日は、奈良県明日香村にある石舞台古墳を中心に、古墳のお話を進めさせていただきます。
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古墳と言えば、ついつい仁徳天皇陵(大山古墳)のような、鍵穴の形をした前方後円墳を思い出してしまいますが、実はあの形は意外に少ないのです。
約20万ほどある古墳の中で、その90%が円墳と呼ばれる丸い形の古墳です。
大きく差があいて、その次が方墳と呼ばれる四角い形の物です。
今から1700年前の3世紀の後半から~7世紀にかけて多く造られ、この時代を古墳時代と呼びますが、ご存知のように、古墳というのは、古代の王や豪族たちのお墓・・・その大きさは、権力の大きさでもありました。
お墓ですから、山のように見えるその古墳の中には、必ずその遺体を葬るお部屋・石室があります。
石を積上げた部屋を造って、そこに遺体の入った石棺を安置したのです。
仁徳天皇陵の場合は、丸い部分の真ん中あたりにそのお部屋があります。
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有名な奈良県明日香村の石舞台は、昔は「その舞台の上でキツネが踊った」なんて伝説もありましたが、もちろん、これは舞台ではありません。
この石舞台は先ほど説明した古墳の石室の部分なのです。
写真などで見ると、このように石の部分だけを見てしまうので、一見古墳のように見えませんが、この石舞台が造られた当時は、この上に土が盛ってあって、小山のように見えていたはずです。
石舞台は一辺が55m、高さ2m以上もある方墳・・・最初にご紹介した古墳のいろいろな形の中の四角いヤツです。
高さが2m以上・・・というのは、つまり先ほど言いましたように、上に盛られたはずの土が無くなっているので、高さがわからないという事です。
「こんな感じかな?」と想像図を描いてみましたが、この赤い矢印のところの点線で囲った部分が石室のある部分ですから、現在の石舞台は、この部分だけを見ているという事です。
今はまわりに木や草花が植えられているため、ちょっとわかり難いですが、今でも、石舞台のまわりは四角い土手のようになっていて、よ~く見ると、方墳だった部分が確認できますよ。
もちろん、これは近代の発掘調査のおかげで、江戸時代には、この四角い形の部分は、すっかり埋まっていて、巨石だけが露出し、すでに『石舞台』という名前で呼ばれ、謎の巨石として観光名所になっていたそうです。
それにしても、なんと言っても興味があるのは、こんな大きな石をどうやって運んだのか?という事ですね。
もちろん、それまで発見されていた様々な史料から、おそらく、丸太を石の下に置き、コロのように使って、縄で引っ張って転がして・・・という風に想像はされていましたが、あくまで、コロを使用という事だけで、あとは想像するしかありませんでした。
しかし、昭和五十三年(1978年)、大阪は藤井寺の三ツ塚古墳から巨石運搬に使用されたと思われる『修羅』が発掘され、古代史に画期的な変化をもたらしました。 現在、この修羅を復元した物が、近くの道明寺天満宮に展示されています。
これを、見れば一目瞭然・・・「こうして運んだんだなぁ」と、風景が目に浮かぶようですね。
ところで、石の運び方とともに、気になるのはやはり、この石舞台が誰のお墓なのか?という事ですね。
この被埋葬者については、一般的には、蘇我馬子ではないか?と言われていますが、実は、私も、今のところそうではないか?と思っています。
(あくまで、今のところ・・・です。新たな発見があるかも知れませんので・・)
その理由は、まず、大きさです。
55m四方・・・というのは、かなりの大きさです。
もしかしたら、この記事を読んでいただいている方の中にも、「石舞台を見に行った事があるけれど、回りが四角くなってるなんて気づかなかったよ」という方がいらっしゃるんじゃないですか?
当然です。
気づかないくらい大きいのです。
この写真・・・ちょっと見にくいんですが、まわりに木があるため、これ以上遠くへ離れると、木に隠れてしまってよけいにわかり難いので、ここが限界なのですが、左に見える石舞台・・・そして右はしが階段になって、土手のようになっているのがわかりますか?
ここが、方墳の跡なのですが、これでも上部で、この下にさらに広い下部があったわけですから、その大きさが想像できるという物です。
しかも、この石舞台古墳が造られたのは、古墳時代でも後期です。
仁徳天皇陵が河内平野に造られた時代には、それこそ大きさを競うように巨大古墳が造られましたが、古墳時代も後期になってからは、徐々にその大きさは小さくなっていました。
その時代に、この大きさです。
埋葬された人物が、よほどの権力者であった事がわかります。
さらに、この石舞台古墳のまわりには、この古墳が造られるために潰された、小さな古墳の跡も見てとれるのです。
先日、【宗峻天皇・暗殺事件】のページ(11月3日参照>>)でも書かせていただきましたように、私は蘇我馬子→蝦夷→入鹿の蘇我氏三代は、当時政権を握っていた王ではないか?と思ってします。
以前の政権を倒して、新政権をうち立てた馬子なら、昔の古墳を壊して・・・という事にも納得できますし、その大きさにもうなずけます。
そして、その後、『乙巳の変』(6月12日参照>>)で入鹿が暗殺され蘇我氏は滅亡・・・つまり、再び政権交代が起きたわけです。
この石舞台の壊れっぷりも、その政権交代があった事を考えれば納得です。
たとえば、同じく明日香村で有名な高松塚古墳なども、すでに鎌倉時代に盗掘され、穴が開けられているにも関わらず、古墳の形そのもは、古墳とわかる状態でした。
死者とともに、多数の副葬品が納められている古墳は、多くの場合盗掘という憂き目に遭います。
宝物を求めて盗賊は、歴史もクソも関係なく進入しますからね。
しかし、、さきほども書きましたように、この石舞台古墳は、昔の人が気づいた時には、すでに「石舞台=謎の巨石」と思うくらい壊れていた事になります。
石室が露出するくらい壊れた(あるいは壊された?)という状況は・・・
まるで、それ以前の歴史書が末梢され、新たに記紀が編さんされるが如く、前政権を末梢したい新政権が徹底的に破壊したような・・・そんな気がしてならないのです。
・‥…━━━☆
石室の造り方など、「もっとくわしく~」という方は、本家HPの【もっと古墳を知ろう】のページを見てくだされ>>
ビジュアル図解で説明しています~内容ちょっとかぶってますが・・・。
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コメント
こんにちわ~♪
そういえば、私の先輩に(といっても学生時代のことで、その人も学生でしたが)、これは蝦夷の墓で、未完なのだ・・と言っている人がいました。日本書紀に書いてある蝦夷と入鹿の墓を作ろうとしている記事が皇極紀にあるので、その蝦夷の墓の方だとか。あまりに滅亡が早かったので、未完だったが、完成させることもせずに放置され、それが証拠?に中に埋葬施設が入れられた痕跡がないとかなんとか言っていましたが、どうなんでしょうかね。本当に主体部はあの中にあったのかな?
大化の薄葬令というものが出て、大規模な墓の構築の時代ではなくなっていったので(というか、大きな墓を作ることが、カッコいいんじゃないんだよという風潮を新政府が表明した?)最後の大古墳は放置された・・?これもまた面白いですがどうなんでしょうね。
投稿: 乱読おばさん | 2007年11月18日 (日) 09時38分
おばさま・・・こんにちは~。
そうですね。
確かに、蝦夷説もありますね。
ただ、石棺や副葬品の事を考えるとやっぱ埋葬されていたのでは?埋葬されていたのなら、馬子かな?・・・ってな感じに思ってます。
しかし、もし、蝦夷のお墓だったとしたら、未完のまま放置・・・というのが正解かも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2007年11月18日 (日) 13時56分