今夜は丹波の里に雪が降る~弘法大師の伝説
今日は、弘法大師にまつわる、京都・丹波地方に伝わる昔話です。
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昔、昔のある冬の夜(実は11月23日です)。
山奥の谷にひとりのお坊さんがやってきました。
どうやら、各地を巡礼中のお坊さんのようですが、身にまとっている法衣はボロボロ、顔は痩せこけ、その姿は枯れ木が立っているようでした。
お坊さんは、一軒のお百姓の家の戸口に立つと・・・
「すまぬが、今夜、一晩、泊めてはもらえないだろうか?」と尋ねます。
チョコっと戸口を開けて、外の様子をうかがったその家の婆さまは、
「なんや!きたない坊さんやな。そんな坊さんに用はあれへん!さっさと、どっか行け!」
と、つれない返事をして、ピシャッと戸を閉めてしまいました。
お坊さんは、しかたなく、トボトボと山道を歩き、少し離れたもう一軒のお百姓の家の戸口に立つと、もう一度・・・
「すまぬが、今夜、一晩、泊めてはもらえないだろうか?」と尋ねました。
さっきの家よりは、はるかに貧しそうなたたずまいの家・・・出てきた婆さまも、足がすりこぎのように細い・・・
しかし、その婆さまは、
「お~お、この冬空・・・寒かったやろうに、はよ、あがってぬくもりなはれ。
うちは、ご覧のとおり、貧乏やさかいに、なんも、おもてなしはできひんけれども、どうぞ、どうぞ。」
と、快く中に入れてくれました。
でも、婆さまは困りました。
痩せこけたお坊さんが気の毒で、何か食べさせてあげたいけれど、婆さまの家はこの村一番の貧乏。
米びつの中を覗き込みますが、そんなもの、とっくの昔に空っぽになったままです。
この冬の最中では、野菜の一つもありません。
困った婆さまは、悩みに悩んだあげく、悪い事とは知りながら、そっと抜け出して、隣の畔から、一人分の稲を拝借して、あわてて家に戻ります。
手早く、もみを草履でこすって、お米を炊いて、そのお坊さんに食べさせました。
ここ何日も食べていなかったお坊さんは、「うまい、うまい」と喜び、冷え切っていた体は、しんから温まりました。
しかし、実は、稲を盗んだ婆さまの足跡が、隣からこの家まで、しっかりとついていたのです。
真っ暗な夜だったので、婆さまは、その事に気づいていません。
明日、朝になったら、稲を盗んだ事がバレて、こっぴどく叱られるに違いありませんでした。
次の日の早朝、お坊さんが旅立つ時、婆さまが見送りがてら、戸口を開けると、まぶしいくらいの光が差し込んできて、思わず目がくらみました。
外は、真っ白な雪景色だったのです。
一夜の間に、とてつもない雪が降り、あたりの様子はすっかり変わっていました。
お坊さんは、婆さまに礼を言うと、山向うへと旅立って行きました。
その後姿を、見送る婆さま・・・真新しい雪の上には、お坊さんの足跡だけがくっきりと残ります。
そう、婆さまの昨日の足跡は、すっかり雪の下に埋もれ、もう、誰にも見られる事はありません。
そのきたないお坊さんは、修行中の空海=弘法大師だったのです。
それで、この丹波の地方では、霜月(11月)の23日になると、必ず雪が降ると言います。
「ほら、今年もお大師さんが、来やはった・・・」
・‥…━━━☆
この昔話は『あと隠しの雪』という題名で、「まんが日本昔話」でもやっていたので、丹波だけではなく、他の地方にも伝わっている全国ネットの民話なのかも知れませんが・・・。
それにしても、以前もどこかのページで書かせていただきましたが、この空海と平家の落武者は「いったい何人いるんだ?」と突っ込みたくなるくらい、どこへ行っても、何かしらの伝説が伝わっていますよね。
平家の落武者は、ある程度の多人数ですから、ひょっとしたらアリかも知れませんが、空海は一人ですからね~。
これは、やはり彼の人生の前半と後半のギャップによる物ではないかと思います。
弘法大師・空海は讃岐(香川県)で生まれ、18歳の時に上京して儒教・道教・仏教を学びますが、勉学に飽き足らず山野を遍歴しながら修行に励みます。
つまり、その頃は、この昔話のお坊さんのような巡礼の旅をしていたわけで、本人にとっては、それは有意義な修行ですが、無関係の人から見れば放浪生活ですから、一目見ただけでは徳をつんだエライお坊さんなのか、ただの流浪中の生臭坊主なのかは区別がつかなかったでしょう。
延暦二十三年(804年)に30歳になった空海は、思うところがあって、遣唐使船に乗って唐(中国)へ向かいます。
空海と、よく比較されて登場するのが伝教大師・最澄。
実は、最澄も、この同じ遣唐使船に乗って唐に渡っているのです(6月4日参照>>)。
空海より7歳年上の最澄は、かなりのエリートで、すでに、この時、高僧の名を欲しいままにしていた超有名人です。
中国に行ったこの時も、彼の費用は全部国が負担する言わば特待生。
それに比べて、空海はまったくの無名・・・費用もすべて実費。
つまり、空海は遣唐使ではなく、遣唐使船にお金を払って乗せてもらっていた私費留学生です。
ところが、二年経って、日本に帰って来た時には、最澄と肩を並べるくらいの出世をし、弘仁三年(812年)には、空海が最澄に「灌頂(かんじょう)」を与えています(12月14日参照>>)。
灌頂とは、密教の伝法・授戒の儀式・・・言わば、最澄が空海の弟子になったという事です。
もちろん、これは、最澄が空海の下という意味ではありません。
ご存知のように、最澄と空海は別の宗派の人ですから・・・。
わかりやすく言うと、「日本語の権威が、語学の見聞を広めるために英語の達人に教えを乞う」という感じでしょうか。
しかし、そこまで肩を並べる高僧になったわけです。
このギャップが人々の、心をくすぐるのでしょう。
山奥の寂しい村に、ふらっとやって来たみすぼらしい坊さんが、実は高僧・空海であった・・・という、日本人が大好きな「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「裸の大将」「ごくせん」に流れるパターンです。
もちろん、空海が全国行脚(全国かどうかも微妙)をしている時代は、まだ無名ですから、いちいち名乗る事もないでしょうし、葵の紋の入った刀や印籠を持ってるわけでもありませんから・・・。
「あの時のお坊さんがひょっとして・・・」という庶民の期待と夢が、数々の伝説となって、弘法大師の偉業として残っているのだと思います。
その伝説が、人々の心の中に、良い思い出として残り、苦しい時の生きる希望となるのであれば、それこそが弘法大師の偉業と言えるものなのでしょう。
さて、今夜は丹波に雪が降るのでしょうか・・・いや、きっと降っている事でしょう。
「ほら、見てみ、今年もお大師さんが、来やはった・・・」
真っ白に雪が積もった日の朝は、とても明るく、とても静か・・・世界が変わって見えますね。
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コメント
幼き頃、日本昔話で見たことを思い出し
懐かしくなりました。
番組では確かおばあちゃんはお大根を拝借してはった記憶があります。
子供のころ私は根菜類が嫌いだったのですが
、おばあちゃんがスパンスパーンと包丁でお大根を切って
手早く煮物をこしらえて、お坊さんがすごくおいしそうに食べてはったのを見て、それ以後大根は食べれるようになったんです~(笑)
投稿: atori | 2007年11月23日 (金) 23時45分
atoriさん、こんばんは~
コメントありがとうございます。
>それ以後大根は食べれるようになった・・・
そうですね~昔話は、伝えられるうちにそういう教訓めいた物が挟まれたりするのかも知れません。
あの浦島太郎も、丹後半島に伝わる民話では、七色に光る小さな亀を拾っただけですが、全国ネットの有名なお話のほうは、いじめられている亀を助けてますもんね。
「野菜は大事だよ」っていう教えが含まれているのかも・・・ですね。
投稿: 茶々 | 2007年11月24日 (土) 01時10分
Σ( ̄ロ ̄lll)
やはり泥棒はしてはいけないけど、
そういうわけにもいかない時もありますね。
以前野菜が高い時、近所の畑から長ネギが
盗まれた事があります。くず野菜でも
食べられますから。
謡曲「阿漕」のように、捕らえられて罰として浦に沈められたという話もあります。
ずっと昔、丹後半島の友人の所に、遊びに
行ったことがあります。
ゴルフ場の従業員は、冬は解雇されて、失業保険をもらって暮らしているなんて言っていました。
「山椒太夫」の舞台にもなっていますね。
三大文殊もあるので、弘法大師も来たかも
しれませんね。
投稿: やぶひび | 2010年5月18日 (火) 15時01分
やぶひびさん、こんばんは~
やはり、人々の心に残って支えとなる事こそが、弘法大師の偉業なんでしょうね。
雪深い山奥なら、なおの事、このお話で救われた人も多くいると思います。
盗んではいけませんが・・・
投稿: 茶々 | 2010年5月18日 (火) 18時12分