寒ブリが食べたいばっかりに…お家断絶取り潰し~稲葉紀通の悲劇
以前も、どこかのページでお話をしたと思いますが、私は仕事の関係で10年間、富山に住んでおりました。
大阪生まれの大阪育ちで、他の場所を知らない私どもにとっては、ある意味カルチャーショック・・・教えていただく事がたくさんあり、ためになる事の連続でした。
中でも、驚いたのは、冬の雷です。
もちろん、大阪でも冬に雷は鳴りますが、やはり、ものずご~い雷と言えば、梅雨の終わり頃にあるもので、夏の風物詩というイメージでした。
ところが、日本海側では、11月の終わりから12月の始めにかけて、秋が終って冬に入り、これから寒くなるぞ~という時期に、ものすご~い雷が鳴ります。
雷が鳴ると、ブリの季節・・・そう、「寒ブリ」です。
富山の、寒ブリは最高においしいです。
ところで、今日のお話ですが・・・
江戸の昔・・・そんな寒ブリのうまさに魅了された結果、とんでもない事になってしまったお侍がいたというお話です。
ある日、福知山城主の稲葉紀通(いなばのりみち)は、勘九郎という家臣と二人で、雪見酒を楽しんでいました。
酒が進むにつれ、以前、伊勢(三重県)の田丸藩主だった時に食べた寒ブリの話になり・・・
「アレはうまかったなぁ~」
「ホンマ、最高ですゎ~」
と、大いに盛り上がります。
「なんとか、もっかい食べたいもんやなぁ~」
「ホンマですゎ、まだアレを食べた事のない藩のヤツらにも、食べさしてやったら、みな喜びまっせ~」
しかし、福知山は丹波(京都府中部)の山の中・・・そう簡単に、寒ブリが手に入るわけではありません。
思案の末、「隣国・丹後(京都府北部)の京極高広(きょうごくたかひろ)に頼もう」という事になります。
丹後は、日本海に面した屈指の漁場です。
富山に、負けず劣らずのおいしい寒ブリが手に入る事まちがい無し。
そして、「どうか、寒ブリを100匹、送っては戴けないだろうか?」という書状をたずさえた使者が、九里の雪道を丹後へと駆け抜けます。
書状を受け取った高広さん・・・豊富な漁獲高を誇る丹後を統治する彼にとっては、ブリ100匹など、集めて送るのはたやすい事です。
しかし、ちょっと待った~!
京極高広は、「稲葉のアホンダラ・・・これを幕府への賄賂として献上しようとしとるんちゃうか?」と疑いを持つのです。
時は、あの関ヶ原の合戦から40年ほど経って・・・参勤交代の制度も確立し、島原の乱を鎮圧し、もはや江戸幕府はゆるぎない物となった寛永年間の頃。
先日の『吉原の花魁』(11月27日参照>>)のお話でもあったように、合戦の気配も無くなった今となっては、中央の幕府の役人に、いかに気に入られるかで、藩の存亡が決まるようなものですから、自分とこの名産品で、他の藩にイイ顔されるなんて・・・そんな気分の悪い物はありません。
そこで、一計を案じた高広は、ブリの頭の部分を切り落とし、他への贈答品に回す事ができないようにして『寒中見舞い』と称して、福知山に送ったのです。
待望のブリが届いて、大喜びでいそいそと荷物を開く紀通さん・・・。
ガ~ン!
頭を切り落とされたブリを見て・・・
「首をはねたブリやと?アイツ喧嘩売っとんのか!こんなもん、武士への最大の侮辱以外の何物でもないやんけ!」
と、激怒します。
確かに・・・とりようによってはそうなりますが・・・
今となっては、なんで高広さん、ブリの頭を落とした理由を説明しないのよ!って思いますが、もう、怒りが頂点に達した紀通は、あんなに欲しかったブリを、一口も食べずに、地べたに投げつけ、踏み倒し・・・城のお庭はブリだらけ~もったいない~
しかし、それでも、気持ちがおさまらない紀通は、何と「丹後の国の者が城下に入ったら首をはねろ!」という通達を出してしまいます。
先ほども言いましたように、丹後は京都の北部・・・幕府が江戸に遷ったとは言え、都は京都ですから、都に出るには、福知山を通らないわけには行きません。
それこそ、都の人々は丹後半島で獲れるおいしい魚を待っているわけですから・・・。
なのに、紀通は、武士だけではなく、町民から飛脚まで、京極からやって来る者を、次々と殺害。
紀通自らが火縄銃を乱射しまくりで、しかも、はねた首を国境から京極の領地へ投げ込む・・・といった事までしてしまうのです。
驚いた高広は、慌てて幕府に訴えます。
事実を知った幕府は、この一連の紀通の行為を、「稲葉紀通・乱心の末のテロ行為=謀反」と判断します。
さらに、この事件の前に、紀通が領民に重い税をかけたばかりという事もあって、領民からも、城主への不満がぼんぼん出て、とうとう幕府は、「稲葉淡路守紀通・追討命令」を出し、45700石改易・・・つまり、お取り潰しを決定します。
それを知った紀通・・・おもむろに、先祖伝来・家宝の甲冑に身を包み、天守閣にて火縄銃を乱射!
最後の一発を自分に向けて発射し、鉄砲自殺を謀ります。
慶安元年(1648年)8月20日、稲葉紀通、46歳の夏でした。
彼には、生まれたばかりの嫡男がいましたが、4年後に死亡し、これによってお家も断絶してしまうのです。
・・・・・・・・・
何か変わった事をする時は、ちゃんと説明しましょう。
「おかしい」と思ったら、ちゃんと理由を聞きましょう。
モメ事は、話し合わなくては・・・
人の生き死にに関わる事なので、笑い話にはできませんが、そもそもの理由がねぇ・・・何とも言えない悲しい結果となってしまった事件でした。
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コメント
これ、本当の話ですか?あいた口がふさがらないって、まさにこれですね。そんなに美味しいなら食べとけよ。食い物の恨みは恐ろしい。
投稿: minoru | 2011年6月12日 (日) 15時15分
minoruさん、こんにちは~
一応、本当の事とされているみたいです。
ホント食い物の恨みは恐ろしいです。
投稿: 茶々 | 2011年6月12日 (日) 16時28分
余ったら献残屋に売ってしまうかもしれないと
思って、頭を落としたのでしょうか。
高級干物を安く、食べたい人もいたのですね。
投稿: やぶひび | 2022年8月20日 (土) 08時28分
やぶひびさん、こんばんは~
江戸時代はリサイクルショップも流行ってたみたいですものね~
あるかも知れません。
投稿: 茶々 | 2022年8月21日 (日) 03時57分