武田信玄・駿河に進攻~薩埵峠の戦い
永禄十一年(1568年)12月12日、駿河に進攻しようとする武田信玄と、それを迎え撃つ駿河の今川氏真とが、薩埵峠で衝突した『薩埵峠の戦い』がありました。
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今川義元が桶狭間の戦い(5月19日参照>>)で織田信長に討たれた後、後を継いだのが嫡男の氏真(うじざね)です。
しかし、あの海道一の弓取りと呼ばれた義元の後継者の座は、彼には少し荷が重すぎたようで、その失政から家臣団の心は離れ、今川家はみるみると衰退していきました。
氏真の母親が武田信玄の妹・定恵院(じょうけいいん・義元の正室)であった事から、しばらくはおとなしくしていた信玄も、ここに来て、今川・北条と結んでいた同盟を破棄し、三河(愛知県東部)の徳川家康と手を組んで、同時期に今川の領地へ攻め込み、奪った後は、駿河を信玄が・・・、遠江を家康が統治する事を協議しはじめます。
この今川との同盟破棄に反対したのが、信玄の嫡男・義信です。
もちろん、信玄と義信の対立については、この同盟破棄だけが理由ではなく、あの川中島の合戦(9月10日参照>>)の後ぐらいから・・・と言われ、その原因も、義信の母・・・つまり、信玄の正室である三条夫人(7月28日参照>>)と信玄の夫婦仲がうまくいっていなかったから、とか、義信より四男・勝頼のほうを気に入っていたからなど、様々に伝えられています。
中でも、義信は、今川義元の娘を正室としていて、どうやら、その奥さんにベタ惚れだったらしく、逆に信玄はその正室の事があまり気に入らなかったようで、そんなところにも原因があるようなのですが、とにかく義信にとって、大好きな奥さんの実家との同盟破棄は、やはり問題だったのでしょう。
・・・で、結局、永禄八年(1565年)に、「信玄の暗殺を企てた」として、飯富虎昌・長坂源五郎ら義信の側近たちが処刑となり、家臣団も追放され、義信自身は幽閉の身となり、その2年後の永禄十年(1567年)に自刃させられたと言われています(10月19日参照>>)。
とにかく、ソリが合わなかったとは言え、大事な嫡男を死に追いやってまで、進めた今川攻め・・・信玄の胸の内にも、それなりの覚悟があった事は確かでしょう。
そして永禄十一年(1568年)12月に入って、いよいよ信玄は駿河へと・・・、そして、家康は遠江へと兵を進め、信玄は今日12日に、内房(うつぶさ・静岡県芝川)までやってきます。
もちろん、信玄の駿河侵入を知った氏真は、即座に、重臣である庵原安房守(いはらあわのかみ)や小倉勝久といった面々を薩埵(さつた)峠に派遣します。
先日書かせていただいた、この2年後に起きる後北条との蒲原(かんばら)城争奪戦(12月6日参照>>)でも、薩埵峠に北条が砦を築いていましたが、この薩埵峠は甲斐から駿河に侵入する時の要所となる場所なのです。
氏真としては、何としても、守り抜かねばなりません。
氏真は、さらに援軍を増やすとともに、自分自身も近くの清見寺へ布陣します。
今川軍は、1万5千という大軍となります。
そして永禄十一年(1568年)12月12日、正午・・・『薩埵峠の戦い』の火蓋が切られる・・・はずだったのですが・・・
なんと、その場に布陣していた朝比奈信置(あさひなのぶおき)ら複数の重臣が、開戦直前にさっさと陣をたたんで、駿河に帰ってしまったのです。
実は、信玄は駿河に入る前から、すでに、今川方の複数の家臣たちに内通を打診していたのです。
最初に書いた通り、氏真と家臣団の間には、この時すでに溝が出来ており、氏真に見切りをつけた多くの家臣が、ここで武田に寝返る事になります。
この事実を知った、他の今川の家臣たちも、当然ガックリ・・・士気は下がりまくりで、皆順々に戦線を離脱していきました。
実は『薩埵峠の戦い』・・・と書きましたが、この日、この峠で戦いが繰り広げられる事はありませんでした。
信玄は、見事、戦わずして勝ち、要所である薩埵峠を落としました。
もちろん、他の家臣同様、駿河に戻ってしまった氏真・・・こうして信玄は駿河に入り、いよいよ明日は、氏真の本拠地・今川館での攻防戦(2007年12月13日参照>>)が繰り広げられるとともに、信玄と連携した徳川家康が西側から遠江へ侵攻(2019年12月13日参照>>)・・・
さらに永禄十二年(1569年)1月18日には第2次薩埵峠の戦い(1月18日参照>>)へと展開していく事になります。
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コメント
薩埵峠の戦いについては、実は詳しいことは知らなかったです。ただし、確実に言えることは、武田信玄(出家前は、晴信)が、用意周到なまでの準備と調略に加えて、信玄の嫡男である武田義信が幽閉&自害したことや寿桂尼が死去したことに乗じて、実行に移したことではないでしょうか。信玄は、勝ち目のない戦には出陣しなかったと言われてますからね。それこそ信玄は、「急いては事を仕損じる。」という考えで、駿河攻めを成功させるための第一歩を踏んだのだと思います。
投稿: トト | 2017年4月11日 (火) 18時47分
トトさん、こんにちは~
おっしゃる通り、すべてのタイミングが一致したのが、この時期だったのでしょうね。
そして、周囲の利害関係の一致も…
『浜松御在城記』には、この2か月前に足利義昭を奉じて上洛した織田信長が、この時期に両者の間に入って「大井川より東を武田信玄が、西を徳川家康が切り取る」という約束が成った事が記されています。
駿河が欲しい信玄、遠江が欲しい家康、信玄の目を京都に向けたくない信長…見事な利害関係の一致も信玄が事を起こす後押しをしたのではないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2017年4月12日 (水) 10時31分
何だかなぁって感じもしますが…年上の信玄が年下の家康を老獪に翻弄したものの、その後は年上の信長が年下の勝頼を老獪に翻弄したという歴史なんでしょうねぇ・・・
とはいえ、家康は信玄に疑われてでも上杉謙信と独自判断で同盟しててホントに良かったと思います。この一時の牽制が効いてないと信長が信玄に大敗して歴史がガラッと変わっていた気がしています。
最近の信長の野望では、この辺りの今川家が追い出されるまでの信玄の圧力とその後の不敵に信長、家康が同盟を申し込んでくる辺りまでがちゃんと再現されていて面白かったです
ゲームでは躑躅ヶ崎と駿府館が近すぎて陣触れされると大兵力で迫られて今川方は何も出来ないですが、徳川家はやや遠いのが意外と厄介で思うように「信玄の野望」は上手くいかないようになっていますが、やはり信玄が少し有利に出来ているのかなといったところです。
投稿: ほよよんほよよん | 2017年4月24日 (月) 16時56分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
ゲームの事はよくわかりませんが、戦国の世と言うのは、やはり偉大な武将の死がターニングポイントになりますね。
投稿: 茶々 | 2017年4月25日 (火) 00時04分