順徳天皇の心の内は…
承元四年(1210年)12月28日、土御門天皇が退位し、守成親王が第84代・順徳天皇として即位しました。
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第84代・順徳天皇・・・と聞いて、すぐに『承久の乱』を思い出せる人はスゴイです(゚ー゚;。
承久の乱は、何かと、オヤジさんの後鳥羽上皇が目立っていて、順徳天皇はその影に隠れてる・・・って感じがしますからね。
そう、順徳天皇は、後鳥羽上皇の第三皇子・・・この順徳天皇の生母が、メチャメチャ後鳥羽上皇に愛されていたため、彼もその寵愛を一心に受ける事となったのです。
そんな後鳥羽上皇の強い働きかけで、土御門天皇は退位し、この承元四年(1210年)12月28日にその後を継いで即位したのです。
温厚でおとなしい土御門天皇とは違って、順徳天皇は気性の激しい人だったようですが、この頃は、もっと気性の激しい父・後鳥羽上皇が院政をしいていたため、政治面では、「何をした」と、特筆するような実績を残せずじまいでした。
しかし、その気性の激しさは、歌の面で発揮されます。
18歳の時には、あの『小倉百人一首』で有名な藤原定家(5月27日参照>>)に、歌で勝負を挑んだりなんかしてますし、他の人との勝負のジャッジを定家に頼んだりもしています。
確かに、歌では、単なる強気だけでははく、実力も、ともなっていたようで、わずか9歳で『古今集』の竟宴(きょうえん・編集後の宴会)に、大物歌人に混じって名を連ねたり、『新古今集』の撰者にもあげられています。
しかし、そんな天皇の生活は、承久三年(1221年)に一変します。
その二年前に、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝が暗殺され、頼朝の直系の源氏が途絶えてしまったのを、絶好のチャンスと見た後鳥羽上皇が、幕府打倒に兵を挙げた・・・これが世に言う承久の乱です。(5月15日参照>>)
気性の激しいオヤジのとばっちりで・・・と言いたいところですが、実は、順徳天皇はけっこうノリノリで、オヤジさんの計画に関わっていたようで、挙兵の1ヶ月前の4月には、息子・懐成(かいなり)親王に皇位を譲って、上皇という自由な立場になって、はりきって参加しています。
しかし、彼が迎え撃ったのは、天皇家の謀反という前代未聞の実態に、逆に結束を固めた鎌倉武士・19万という大軍でした。
あっという間に敗退し、7月には佐渡へと流される順徳天皇・・・この時、25歳という若さでした。
それから20年余り、島を一歩も出る事なく、仁治三年(1242年)9月12日、46歳で、彼はこの世を去りました。
お互いに切磋琢磨して、歌の道に励んだ藤原定家は、さすがに『新勅撰和歌集』には、鎌倉幕府に気をつかって、順徳天皇の歌を選ぶ事はありませんでしたが、あの『小倉百人一首』には、しっかりとその歌を採用して、順徳天皇の心の内を偲んでいます。
♪百敷(ももしき)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり♪
「皇居は軒にしのぶ草が生えるほど荒れ果ててしまった・・・華やかだった昔が懐かしい」
父とともに、現実の状況を、見事に見誤ってしまった順徳天皇。
彼もノリノリだったとは言え、生涯流罪となるには、25歳というのは、少し若すぎる・・・お気の毒でなりませんねぇ。
♪ながらえて たとえば末に かえるとも
憂(う)きはこの世の 都なりけり♪
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