数奇な運命をたどった山田寺の未来への遺産
天武八年(678年)12月4日、蘇我倉山田石川麻呂の発願による『金銅丈六仏』が鋳造されました。
・・・・・・・
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)という人は、あの蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺=乙巳の変(いっしのへん)(6月12日参照>>)の一件に関わった人物です。
その日のブログを読んでいただくとわかるように、宮廷の大極殿にて、彼が外交文書を読み終えた瞬間が、入鹿に斬りかかる合図となっていました。
つまり、彼は、蘇我氏の一員でありながら中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)にくみした、蝦夷(えみし)・入鹿たち本家・蘇我氏から見れば裏切り者という事になりますが、石川麻呂の娘・造媛(みやつこひめ)が中大兄皇子と結婚している事を考えると、まぁ納得の裏切り行為です。
強い本家が倒れたなら、自分が蘇我氏でトップに立てるかも知れないわけですから・・・。
案の定、蝦夷・入鹿が倒れ、大化の改新が成され始めると、石川麻呂は右大臣に収まり、羽振りの良さの頂点に達します。
そんな石川麻呂ノリノリの時期、かねてから建築を進めていた自身の名がついた山田寺の建設にも本腰が入ります。
最初に書かせていただいた『金銅丈六仏』は、石川麻呂の構想では、その山田寺の本尊となるはずでした。
石川麻呂が建築を始めた山田寺と、その本尊になるはずだった仏像・・・
この二つは、世間一般には、あまりお馴染みではないかも知れませんが、歴史好きにとっては、かなりのシロモノ・・・ご存知ない皆様にも、今宵はぜひ、そのズゴさを知っていただきたいです~。
まずは、山田寺のお話から・・・
羽振りの頂点に達して、山田寺の建築を急ぐ石川麻呂でしたが、あの乙巳の変からわずか4年後の斉明五年(649年)に、謀反の疑いをかけられてしまうのです。
中大兄皇子の派遣した軍に攻め込まれた石川麻呂は、建築中の山田寺の仏殿にて「無実で死ぬ事になるが、君王(きみ)を恨んだりしない!私は死んでも君王の忠臣である」と言い残して、斉明五年(649年)3月25日、自害するのです。
この時に山田寺は炎上し、当然、その後の工事もストップ・・・父の非業の死と、攻めたのが夫の軍である事にショックを受けた造媛も、その後を追って自害してしまいます。
しかし後になって、石川麻呂の蔵から発見された様々の資財には、皇子に忠誠を誓っていたと思われる物が多数発見され、皇子も、「彼が無実であった事を知り、深く反省した・・・」と、『日本書紀』には書かれていますが、はてさて、本当にあの中大兄皇子が反省したのかどうか・・・むしろ、計画的に、先々邪魔になるであろう者を抹殺した感も拭えない一件ではあります。
本心はともかく、無実であった以上、その名誉も回復してあげなくては・・・と、即位して天智天皇となった中大兄皇子は、天智二年(663年)に中断されていた山田寺の工事を再開させるのです。
これには、造媛の娘(つまりは中大兄皇子=天智天皇の娘でもあるわけですが)の鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)の「おじいちゃんの名誉回復してあげて~」という願いが多分に含まれていると思われます。
やがて、天智天皇が亡くなり、壬申の乱(7月22日参照>>)に勝利した天武天皇(天智天皇の弟)の世となり、この時期にやっと山田寺が完成します。
そう、その鵜野皇女は天武天皇の奥さんですから、思う存分ジッチャンの名誉回復ができたわけです。
・・・で、その山田寺がなぜ有名かと言いますと・・・
結局、その後、中世には衰退し、明治には廃寺となってしまったために山田寺は山田寺跡という史跡が残るのみだったのですが、昭和五十七年(1982年)12月に、奈良県桜井市にある、この山田寺跡の地中から、東回廊の部分が倒れた状態で発見されたのです。
飛鳥時代に建てられた多くの寺院が崩壊し、その姿が確認できない状態となっています。
しかし、この山田寺の東回廊はどうでしょう?
倒れた状態・・・というのが建築物としてみなされるのか、どうかわかりませんが・・・
そうです。
先日、書かせていただいたように、法隆寺が再建されていた(11月2日参照>>)事が濃厚となっている今、この山田寺は、その法隆寺より半世紀も早い、現存する世界最古の木造建築という事になります。
現在、この山田寺の東回廊は、状態の良い部分に補修をほどこし、14年という歳月を費やして見事!飛鳥資料館の内部に復元されています。
(資料館の場所は「京阪奈ぶらり歴史散歩」のページでどうぞ>>)
そして、今日の話題・・・天武八年(678年)12月4日の『金銅丈六仏』の鋳造です。
天武十二年(685年)、ご本尊薬師如来は、開眼供養となり、鵜野皇女は、おじいちゃんの願っていたご本尊を、やっと造ったのです。
でも、「回廊のみが残る廃寺になって、仏像は無くなったんじゃないの?」
・・・と、お思いでしょうが、実はこの仏像も数奇な運命をたどり現存するのです。
先ほど書いたように、山田寺は徐々に衰退し、平安時代にはすっかり勢いが無くなっていました。
そんな時です。
例の平家との抗争・・・奈良の興福寺が、あの平重衡との一戦のため、ほぼ全焼の憂き目に遭ってしまいます・・・有名な南都焼き討ち(3月10日参照>>)です。
興福寺のご本尊が焼失してしまい、当然「何とかご本尊を・・・」という事になりますが、そう簡単に復興できるわけもなく・・・何と、興福寺の僧や衆徒が、山田寺のご本尊を盗んできて、興福寺・東金堂のご本尊にしてしまったのです。
「桜井市から奈良市まで、どうやって運んだの?」と聞きたくなるくらいけっこうな大きさだったご本尊・・・衰退の一途をたどる山田寺と、当時全盛の平家を相手に戦いを挑む興福寺とでは、その力の差が歴然としていたんでしょうね。
こうして、山田寺の薬師如来は、興福寺の薬師如来となります。
しかし、そのご本尊も応永十八年(1411年)、興福寺・東金堂に雷が落ち、火災となって仏像も頭部だけとなってしまいました。
その頭部も、「台座の下に入れた」という記録だけはあったものの、時が経つにつれ忘れ去られ、もはや、どこにいったのか?誰も確認した事がなかったのです。
ところが、昭和十二年(1937年)、修理中の東金堂の台座の下から、焼け残った頭の部分が本当に発見されたのです。
現在、『胴造仏頭』という名称で興福寺・国宝館に収められているこの仏様がソレです。
白鳳時代のお手本とも言えるデザインで、しかも鋳造年月日が明らか・・・まして、すがすがしい青年のような顔立ち・・・今や国宝となった、貴重な日本の遺産です。
この仏頭なら、歴史の教科書や美術の教科書でご覧になったかたも多いんじゃないでしょうか。
そう、これが山田寺のご本尊だったのです。
少し、歴史の歯車が狂えば、現在の私たちが見る事は無かったかも知れない二つの遺産・・・「山田寺・東回廊」と「ご本尊・仏頭」
これからも、歴史の重さ、歴史のおもしろさ、そして、歴史のすばらしさを教えてくれる未来への遺産となる事でしょう。
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コメント
現在、この山田寺の東回廊は、状態の良い部分に補修をほどこし、14年という歳月を費やして見事!飛鳥資料館の内部に復元されています。
(資料館の場所はHPでどうぞ>>)
資料館の場所のURLがリンク切れになっているようです。
投稿: さく | 2022年9月19日 (月) 10時44分
さくさん、ありがとうございます。
以前のURLのままになっていました。
感謝です。
投稿: 茶々 | 2022年9月20日 (火) 02時50分