海賊将軍~藤原純友・天慶の乱
天慶二年(939年)12月26日、配下の者に、備前介藤原小高を襲撃させた藤原純友が瀬戸内海の日振島を出発・・・世に言う藤原純友の乱が勃発しました。
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当時の中央政府・朝廷は、九州の大宰府を「遠の朝廷」・・・言わば出張所として、大陸との交易の玄関口としていました。
そんな大宰府と、京の都をを結ぶのが海路・・・この頃の瀬戸内海は、政治的にも、軍事的にも、そして文化交流においても、最も重要な交通路でした。
しかし、重要になればなるほど、その場所に、中央の支配が及んでくる事になります。
特に、かつて国造(くにのみやつこ・律令制が導入される以前の大和朝廷の国の長)の家系であった越智氏が勢力を伸ばし始めると、瀬戸内海の島々に住む島民たちの土地が荘園となり、中央の公家の支配下に組み込まれてしまうのです。
そのような支配に反発する島民は、島を離れ、海の民として生きていく事になります。
こうして瀬戸内海には、承平二年(932年)頃から、急激に海賊が出没するようになるのです。
そんな海賊の制圧のため、伊予(愛媛県)国司として派遣されたのが藤原純友(すみとも)です。
通説では、純友は、藤原北家の出身の藤原良載(よしのり)の息子という事になっていますが、ご存知のように、後に中央に対して乱を起すという今後の行動を見ると、ちょっとひっかかります。
なぜなら、当時の摂政太政大臣は、藤原忠平・・・彼も藤原北家の人。
つまり、中央のトップの人間と、純友は同族同士という事になります。
そこで、一つの異説・・・
純友は、実は、越智氏の本家である高橋家の高橋友久の長男で、当時、伊予の国司として派遣された良載の養子になって藤原純友と名乗り、京に滞在していたところへ、伊予の国司に任ぜられ、故郷に舞い戻ったというものです。
京での滞在中には、比叡山にて、眼下に広がる都を眺めながら、あの平将門と大いに語り合ったという噂までもが、まことしやかに語られています。
確かに、これなら、もともと彼は、瀬戸内の海の民という事になり、その海の民に対する中央の支配が徐々にきつくなる事に反発して乱を起こした・・・というストーリーも成り立ちますが・・・
さらに、承平五年(935年)、純友が塩飽(しあく)諸島の松島に水城を築き、その彼のもとに、賛同する豪族たちが続々と集まる・・・という動きに対して、摂政・時平は、越智氏の一族である紀淑人(きのよしひと)という人物を伊予守として派遣するのですが、その途端、純友のもとにいた豪族たちが、次々と淑人に投降するのです。
この出来事も、ひょっとしたら、純友の動きが、この時点では、越智氏という同族同士の内紛であったという事を暗示しているのかも知れません。
しかし、これはあくまで、推測・・・純友が高橋家の者であるというのは、一部の家系図などに残るだけで、一般的な歴史では、あくまで藤原北家の出身という事になっています。
・・・で、淑人に押さえられ、日振島に移り、少しおとなしくしていた純友が、再び決起する日がやってきます。
淑人の制止を振り切って、日振島を後にした純友・・・天慶二年(939年)12月26日、純友の動きを中央に知らせようとした藤原小高を、純友の配下の者が摂津(大阪府)にて襲撃した事から、一連の純友の動きが、本格的な乱の勃発として中央に認識され、朝廷は、摂津・丹波(兵庫県)・但馬・播磨・備中(岡山県)・備前・備後の7ヶ国に、純友の討伐命令を出します。
『藤原純友の乱』の勃発です。
朝敵となった純友でしたが、塩飽諸島の釜島に城を築いて、その近辺を掌握し、翌年・天慶三年(940年)2月には淡路を襲撃します。
しかし、朝敵という事は、同時に、もしかしたら同族かも知れない越智氏を敵に回す事にもなるのです。
副将・藤原恒利(つねとし)の寝返り・・・
東国の平将門の死・・・(2月14日参照>>)
これらを乗り越え、さらに、8月には、讃岐の国府を焼き、備前・備中の船を焼き、伊予の国府を襲撃し、10月にはとうとう大宰府を制圧します。
しかし、このあたりから、東国を鎮圧した政府が、純友討伐に全勢力を傾け始めるのです。
翌・天慶四年(941年)5月、博多津の合戦において、純友は手痛い敗北を喫してしまいます。
小舟にて脱出し、日振島へと逃亡する純友・・・しかし、日振島の住人は、もはや敗北した純友には冷たかったと言います。
島の山中に、息子・重太丸(しげたまる)とともに逃げ込んだ純友が討たれたのは、天慶四年(941年)の6月20日の事でした。
同時期に勃発しながらも、実際には、お互いの盟約や連携は無かったであろうと言われている平将門・承平の乱と藤原純友・天慶の乱・・・
将門と純友の、最も共通するところは・・・どちらも、中央政権を転覆させようという気など無かったというところではないでしょうか?
純友とて、中央に支配された瀬戸内の制海権を、海の民のもとに取り戻したかっただけ・・・おそらく、京を制圧する気などまったく無かったのでは無いか?と想像します。
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コメント
はじめまして。
いつも楽しく読ませてもらってます。
しかし、はたしてそうでしょうか?
三辰という純友の手下が京の都で捕縛されていますが、彼は純友より京に放火により暴動を起こす命令を受けていたようです。
摂津、淀川を遡上し京へなだれ込む計画を企んでいた。しかし密告者により計画が露呈してしまい朝廷を本気にさせてしまったことが彼の運命を暗転させた。
と、私は推理してます。
如何でしょうか?
投稿: しばさきとしひろ | 2019年6月18日 (火) 20時13分
しばさきとしひろさん、こんばんは~
コメントありがとうございます。
そうですね~
12年前のページなので、私自身この頃は、かなりの初心者ブロガーでしたからね。
今書くと、また違った見解になるかも知れません。
ただ、将門にても純友にしても、本当に中央転覆を考えていたかどうかは微妙なトコなんじゃないかな?と今でも思いますが…
今は、このブログも、ちょいと戦国にかかりっきりになってるので、いずれ、このあたりの事も調べなおして、書き足してみたいと思います。
また、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2019年6月19日 (水) 01時40分
古いブログでしたのですね、いつも楽しく読ませてもらってます。
私の彼の一番の興味をひくのは、
藤原北家のエリートコースの地方赴任から
官吏を捨てて海賊に転身した経緯です。
正義感溢れる男気のある親分肌の人物かと想像しています。
今後の新しい発見が待たれるところではあります。
投稿: しばさきとしひろ | 2021年6月16日 (水) 16時56分
しばさきとしひろさん、こんばんは~
歴史人物を、自分の頭の中でイメージ膨らましていくの、楽しいですよね~
私も豪快な人物のように想像してます。
投稿: 茶々 | 2021年6月17日 (木) 01時35分
先ほど放送していた「英雄たちの選択」で藤原純友と対決した人物の孫が、「刀伊の入寇」で藤原隆家の配下として活躍しますね。
藤原純友も藤原隆家も藤原北家の系統の生まれですが、祖父と孫が時空を超えてその藤原北家の人物の敵か味方かになるというのも運命なのかも。
投稿: えびすこ | 2023年10月25日 (水) 22時16分
えびすこさん、こんばんは~
なるほど…感慨深いですね!
投稿: 茶々 | 2023年10月26日 (木) 02時20分