最澄と空海の間に亀裂が入った瞬間!
弘仁三年(812年)12月14日・・・この日、高雄山寺(後の神護寺)にいた弘法大師・空海のもとには、大勢の人が続々と詰めかけていました。
大僧と呼ばれる位の高い僧が22人。
沙弥(しゃみ)と呼ばれる若い僧が37人。
近事(ごんじ)と呼ばれる在家信者が41人。
童子と呼ばれる年少の在家信者が45人。
総勢・145人という大量の人々が、空海のもとで胎蔵界の『灌頂(かんじょう)』と呼ばれる密教入門の儀式を受けに来たのです。
その大僧の中には、あの天台宗の宗祖である伝教大師・最澄もいました。
もともと、空海と最澄は、ともに延暦二十三年(804年)、同じ遣唐使船に乗って中国へ渡ったライバル同士・・・ただし、当時の二人のレベルの差は、天と地ほどに離れていました(6月4日参照>>)。
空海より7歳年上の最澄は、すでに名僧の名を欲しいままにした超有名人で、中国へ渡る費用のすべてを国が面倒みる特待生のエリート。
かたや、空海のほうは、諸国を放浪していた無名の僧で、渡航費用はすべて自腹の私費留学生でした。
そして、最澄は一年、空海は二年の勉強を終え、それぞれ帰国した二人。
時の天皇・第50代桓武天皇の期待を一身に受けていた最澄は、天皇の期待通りのさらなる高僧に成長し、天台宗を開きます。
一方の空海は・・・もちろん、無名の僧がいきなりの出世、という事はありませんが、彼が中国から持ち帰った密教に非常に興味を示した人物がいました。
それは、桓武天皇の息子・神野親王・・・後の第52代嵯峨天皇です。
やがて、大同四年(809年)に、神野親王が即位して天皇になると、彗星のごとく現れた空海は、仏教界の大きな星となり、最澄と肩を並べるライバルとなるのです。
ただし、この頃の二人の関係は、ライバルと言っても、競争相手ではなく、ともに切磋琢磨する良きライバルという関係でした。
それを現しているのが、今日の話題でもある入門の儀式です。
年上でもあり、常にエリートコースのトップを走って来た高僧・最澄が、ポッと出の新人・空海に教えを乞い、あまつさえ「弟子になろう」というのですから、最澄さんの器のデカさ、仏教への熱心さを感じないではいられません。
もちろん、この弟子入りは最澄さんが空海さんの下・・・という意味ではなく、「日本語の権威が、語学の見聞を広めるために英語の達人に教えを乞う」といった感じのもので、わずか1年しか中国に滞在できなかった最澄は、思う存分密教を学ぶ事ができていなかった事が心残りだったのです。
なので、最澄さんが先輩である事には変わりありません。
しかし、今日のこの儀式を終えたのを境に、二人の関係はおかしくなっていくのです。
その亀裂のもととは・・・最澄さんのあまりの勉強熱心さにあるようです。
最澄さん、確かにもともと頭が良く、才能もあったでしょうが、エリートコースのトップを走り続けるには、それなりの努力が必要・・・つまり、彼はとても勉強家で熱心で、最後まで手を抜かず、常に新たな物を追求し、その先へ先へと努力する人なのです。
これまでも、何度も空海から経典を借りていた最澄・・・ちょうど、この日、空海と対面した最澄は、「これでもか!」と言わんばかりの丁寧なお礼を繰り返します。
最澄:「いつも大事な経典貸してもろておおきに~」
空海:「いえいえ、僕のほうこそ、もっと早いこと、そちらに教
えを乞いに行かなあきませんのに・・・」
最澄:「いや、ホンマありがとう・・・いっつも感謝してます。
いやホンマ、ほんまにほんまでほんまでっせ・・・」
どうやら空海さん、そんな最澄さんのあまりの丁寧すぎるお礼ぶりに「ウザッ」と思った?ようです。
最澄は本当にマジメ一筋の人なんです。
さらに、最澄は次から次へと経典の貸し出しを願い出る一方で、わからない事があると次から次へと質問を投げかける・・・
空海だって、真言宗の宗祖ですから、それなりに忙しい・・・どうやら、「いくらなんでも、アンタにだけかまってばかりもいられないんですよ」と言いたくなるくらいの熱心さだったようです。
もちろん、最澄さんに悪意は無いのですが・・・。
・・・で、とうとう、ある日、空海が「これ以上はムリ!」と経典の貸し出しを断ったのです。
しかし、それでもめげない最澄・・・
愛弟子の泰範(たいはん)という僧を、「もっと奥深いところを学んで来て、僕に教えてチョーダイ」と、いわゆるスパイとして、空海のもとに送り込んだのです。
ところが、この泰範・・・いくら待っても最澄のところに戻って来ません。
「もう、充分、学んだだろう」と、最澄は、泰範に手紙を書きます。
『老僧を棄つることなかれ』
「年寄りを見捨てんといて~」と・・・。
しかし、泰範からの返事は・・・
「僕、これから密教一筋でいきますよって、もう戻りまへんわ~ほな、お世話になりました~」
と、とてもつれないもの・・・しかも、この手紙、どうやら空海が代筆した可能性も・・・
ここにきて、さすがの最澄もブチ切れ・・・二人は絶縁状態となってしまいます。
つまり、空海は最澄をウザイと思い、最澄は空海に弟子を盗られたと・・・
お二人とも、私たち凡人には、計り知れない徳のあるおかた・・・どちらが良い、悪いなんて事はなく、どちらもすばらしい尊敬すべき人格者なのでしょうが、やはり高僧も人の子・・・「肌が合わない」という事はあるんでしょう。
結局、お二人の仲に亀裂が入った最初の瞬間は、やっぱり『灌頂』の儀式の後の挨拶だったのでしょうね。
.
「 平安時代」カテゴリの記事
- 譲位する?しない?~皇位を巡る三条天皇VS藤原道長の攻防(2025.01.29)
- 桓武天皇が望んだ新体制~2度の郊祀と百済王氏(2024.11.05)
- 一家立三后~藤原道長の♪望月の歌(2024.10.16)
- 二人の天皇の母となった道長の娘~藤原彰子(2024.10.03)
- 孝子畑の伝説~承和の変で散った橘逸勢とその娘(2024.08.13)
コメント
こんばんは。
お知らせを読ませていただき、改めてこちらの記事を読み直しました。
日付を見て、1年半ほど前の記事と気づきましたが、茶々さんの変わらない、偏らない姿勢に敬服します。
ものの見方はいろいろある中で、悪口っぽくならないように、かつ面白く紹介するのは大変でしょうが、いつも楽しみにしていますので、これからも楽しい記事をよろしくお願いします。(o^-^o)
今日の「鹿ケ谷」の記事もわかりやすかったので、これからもう一回平家物語のそこのところを読み直してみようと思いました。
投稿: おきよ | 2009年5月29日 (金) 23時13分
おきよさん、ありがとうございます。
Yahooニュースでの紹介は、ラッキーの一語に尽きますが、それをきっかけに、リピーターになってくださるかたもいらっしゃるので、私としては、すなおに喜んでいます。
これからもよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2009年5月29日 (金) 23時57分
この内容をはじめて読みましたが、おきよさんの言われるように「偏らない姿勢、そして悪口言わずに面白く紹介」されることを私も感じます。これからも、がんばってください。
投稿: minoru | 2011年6月 5日 (日) 15時11分
minoruさん、こんにちは~
うれしいお言葉、ありがとうございます。
時々、「持ちあげすぎでは?」とのご意見もいただきますが、歴史上の人物は皆好きなので、ついつい、持ちあげ気味になってしまいます(゚ー゚;
また、お暇な時に遊びに来てくださいね。
投稿: 茶々 | 2011年6月 5日 (日) 15時54分
あす宇治の平等院へ行くため、事前勉強をと思い立ったおばあです。素敵なサイトを発見。これからも楽しみに読ませていただきます。
投稿: | 2015年7月12日 (日) 02時57分
コメントありがとうございます。
素敵なサイトと言っていただけるとウレシイです。
投稿: 茶々 | 2015年7月12日 (日) 16時02分