持統天皇の葛藤~都を造り律令を成した女帝の崩御
大宝二年(702年)12月22日、第41代・持統天皇が58歳で崩御されました。
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♪春過ぎて 夏来にけらし 白妙の
衣乾すちょう 天の香久山♪
子供の頃、あまり意味もわからないまま手にした『小倉百人一首』・・・百枚のカードの中で、ひときわ美しく、ひときわ豪華な一枚がありました。
この歌が書かれた持統天皇のカードです。
彼女は、亡き夫・天武天皇の後継者に・・・と思っていた実子・草壁皇子を失い、その草壁皇子の息子・軽皇子(かるのみこ)が、まだ幼いため、自らが天皇となって、その座を守った女帝。
この歌は、自らが造りあげた壮大な藤原京(12月6日参照>>)に立ち、大和三山を眺めながら、まもなく夏を迎える真っ青な空と、心地よい風をはらんではためく真っ白な洗濯物に目を細め、まさに天下を掌握した、堂々たる勝利の歌に聞こえます。
しかし、実際の彼女の心の内は、おそらく、生涯、休まる事はなかったでしょう。
愛する夫の残した地位を、子へ孫へバトンタッチするために、彼女は心を鬼にして、冷酷に、冷徹に生き抜いていったに違いないのです。
持統天皇が生まれたのは、大化元年(645年)、あの蘇我入鹿の暗殺(6月12日参照>>)から大化の改新へと、時代がめまぐるしく変わったその年です。
父は、自らの手で、その入鹿を斬った中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)・・・母は、蘇我一族でありながら、その中大兄皇子のクーデターに協力した蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)の娘・造媛(みやつこひめ)。
しかし、その大化の改新が成された、わずか4年後・・・つまり彼女が4歳の時に、石川麻呂は謀反の疑いをかけられ自害し、傷心の母・造媛も、石川麻呂の後を追って自殺します(「12月4日参照>>)。
父が、祖父を攻め、その苦悩に耐えられず母が自殺・・・幼い彼女には、その光景がどのように映ったのでしょう。
やがて13歳の時に、彼女は、父・中大兄皇子の弟・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)と結婚します。
兄弟でも母親が違えば結婚の対象となったこの時代ですので、叔父と姪の結婚は不思議ではないのですが、この時、大海人皇子はすでに27歳・・・当時としては親子ほど離れた、この歳の差は、あきらかに政略結婚です。
なぜなら、彼女が結婚した翌年には、あの有間皇子の事件(11月10日参照>>)が起こっているからです。
有間皇子(ありまのみこ)は、入鹿暗殺のすぐ後に即位した第36代・孝徳天皇の息子・・・将来、天皇の後継者を争う事になるであろう人物を中大兄皇子が抹殺したのは明白です。
そう、中大兄皇子の弟である大海人皇子も、中大兄皇子にとっては、来るべき将来、後継者を争う事になるかもしれないライバルなのですから・・・。
自分の娘を嫁がせて、そのライバル心を押さえようとでも言うのでしょうか・・・大海人皇子のもとには、同じ両親から生まれた姉・太田皇女(おおたのひめみこ)も、すでに嫁いでいました。
しかし、たとえ政略結婚であったとしても、亡き母の事件を目の当たりにしてきた少女にとっては、酸いも甘いも噛み分けた大人の夫は、頼れる伴侶だったようです。
やがて、中大兄皇子が、第38代・天智天皇として即位する頃には、皆が心配していた通り、兄と弟の間には、亀裂が生まれはじめるのです。
それは、日に日に成長する天智天皇の息子・大友皇子・・・。
最初は、ともに政治を行っていた弟・大海人皇子に皇位を譲るつもりでいた天智天皇に、やはり息子・大友に皇位を譲りたいという気持ちが出てきたと言われます。
彼女・持統天皇にとっては、今度は父と夫の争いという事になりますが、この時、彼女は父ではなく、夫を選びます。
天智天皇の気持ちを察した大海人皇子が吉野へと身をひそめますが、彼女は夫に従い、ともに吉野へ向かうのです(10月19日参照>>)。
この時、ともに大海人皇子に嫁いでいた姉・太田皇女はすでに病死・・・彼女は大海人皇子の妃の中ではトップの座についていたのです。
そして、天智天皇の死後、一旦は大友皇子が後継者となりますが、大海人皇子は間もなく挙兵・・・壬申の乱の勃発です(6月25日参照>>)。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は、第40代・天武天皇として即位し、彼女はその皇后となります。
様々な政権争いに翻弄された彼女にも、やっと平和な日々が訪れたかに見えましたが、実は、水面下では彼女の最大の苦悩が待ち受けていたのです。
そう、今度は、天皇となった夫の後継者です。
彼女には、夫との間に設けた草壁皇子という息子がいましたが、そのライバルは一つ年上の大津皇子・・・彼は、亡き姉・太田皇女の息子・・・彼女にとっては、かわいい甥っ子にあたる人物です。
しかし、明るく有能で積極的な大津皇子に対して、わが息子・草壁皇子は病弱で少し弱気な性格・・・帝王となるには、誰が見ても大津皇子のほうが勝っていたのです。
ここで、偉大なる母は、鬼となるのです。
朱鳥元年(686年)、天武天皇が亡くなると、わずか、その1ヵ月後に、謀反の罪で大津皇子を死刑にしてしまうのです(9月24日参照>>)。
この時の一連のやり方は、様々な人間に大津皇子を誘惑させながらも、最終的に大津皇子だけを抹殺し、自らの息子を後継者にしようと・・・まさに血も涙もない鉄の女のように映ります。
しかし、おそらく、彼女の心の中には、冷酷にはなりきれない様々な葛藤があったに違いないのです。
彼女は、この大津皇子の死の直後から、10年間に、26回も吉野へ通います。
吉野は、あの時、後継者争いを避けて、夫・天武天皇とともに向かった思い出の場所・・・彼女は、幼い頃から目の当たりにして、嫌でたまらなかった後継者争いに、気がつけば自分自身が手を染めていた事に耐えられなかったのではないでしょうか?
しかし、助けてほしい頼れる夫は、もうこの世にはいません。
何とか、亡き夫の心に触れようと、吉野へ通ったのかも知れません。
やがて、心を鬼にしてまで、ライバルを消したにも関わらず、わずか3年後に、最愛の息子・草壁皇子が病死してしまうのです。
悪に手を染めて行った自分の一連の行動は何だったのか?・・・彼女にとって、この時ほど、自暴自棄になった事はなかったでしょう。
しかし、折れそうになる心を奮い立たせて、偉大なる母は戦い続けます。
「亡き・草壁皇子の息子・軽皇子が成長するまでは、この天皇の座を譲れない」と・・・彼女自らが即位して持統天皇となり、持統八年(694年)12月には、都市計画に基づく日本初の本格的な都である藤原京を誕生させたのです(12月6日参照>>)。
最初に、紹介した持統天皇の有名な歌は、この頃=持統九年(695年)に詠んだとされています。
天下を掌握したおおらかな帝王の歌の裏には、彼女の、人には言えない影の部分が隠されていたのかも知れません。
それは、この同じ頃に伽藍が完成したあの薬師寺(10月4日参照>>)・・・その薬師寺の東院堂にある聖観音菩薩像は、持統天皇が大津皇子をモデルにして造らせたと言われる仏像です。
その、爽やかですがすがしい表情の仏像が、本当に大津皇子の姿だとしたら、持統天皇の心の中は、悔やんでも悔やみきれない、大津皇子への懺悔の気持ちでいっぱいだったように思うのです。
やがて文武元年(697年)、成長した軽皇子は文武天皇として即位します。
退位した持統天皇は、若き天皇をサポートしつつ、あの大宝律令(8月3日参照>>)を成し遂げ、大宝二年(702年)12月22日、58歳でこの世を去るのです。
果たして、最後に彼女の脳裏をかすめたのは、すべてを成し遂げ、最高の状態で孫に皇位を譲り、愛する夫のもとへ旅立つ満足感だったのでしょうか?
それとも・・・。
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コメント
こんばんわ。里中満智子先生の「天上の虹」の最新刊が今月出るそうです。
途中から書き下ろしの形式なので、単行本が出るまでかなり間が空くんですよ。雑誌での連載開始から25年くらい経つんです。
里中先生もいろいろな委員をしていますからね。来年の平城京1300周年関連の委員もしているんです。
投稿: えびすこ | 2009年12月 3日 (木) 18時04分
えびすこさん、こんばんは~
来年のイベントが楽しみですね~
投稿: 茶々 | 2009年12月 3日 (木) 23時52分