今川館の攻防戦~武田信玄・駿河を攻略
永禄十一年(1568年)12月13日、昨日、駿河に侵入した甲斐の武田信玄が、今川氏真の居館・今川館を攻めました。
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昨日、事前の内通工作の成果が出て、戦わずして要所・薩埵(さつた)峠を制し、駿河(静岡県東部)に進攻した甲斐(山梨県)の武田信玄(昨日のページ参照>>)。
自ら出陣して、薩埵峠の近くの清見寺に布陣して、信玄を迎え撃つつもりでいた駿河の今川氏真(うじざね)も、度重なる味方の寝返りに、慌てて本拠地である駿河今川館へと逃げ帰ります。
昨日の勝ちで勢いづいている武田軍は、その勢いのまま今川館にやってきます。
今川館というのは、後に駿府城となる場所ですが、その頃は、今川館という名前でも想像がつくように、平坦な場所に構築された、とても城と呼べるような建物ではなく、守るにはかなり危うい物でした。
当然、氏真も、この今川館で防御する事は不可能と考え、相模(神奈川県)の北条氏政に援軍の要請を行うとともに、館の背後にある賤機山(しずはたやま)城(静岡市)に籠城し、その北条の援軍を待つ作戦です。
しかし、その作戦を先に読んでいた信玄・・・「そうはさせるか!」と、侵入と同時に、駿府の武家屋敷や民家に火を放ち、混乱の渦に巻き込みながら、氏真より先に賤機山城へ到着し、またたく間に城を占領してしまいます。
しかたなく、守りが甘いのを承知で、今川館にて籠城作戦をとる氏真ですが、もはや、武田の軍勢に太刀打ちできないのは明白です。
この日、先陣を切って今川館に突入したのは、今年の大河ドラマでも大活躍の馬場信春・・・彼ら、武田の家臣団の猛攻撃によって今川館は、その日のうちにあえなく撃沈。
氏真は、遠江・掛川城(静岡県)へと逃走します。
ところで、昨日・今日の駿河進攻で、武田方に寝返った者の中には、今は亡き山本勘助を、最初に今川義元に紹介したと言われる朝比奈信置(4月8日参照>>)や、勘助のの親類で、兵法の弟子でもあったとされる庵原弥兵衛らがいましたが、彼ら今川の重臣たちは、この後、武田軍として再編成され、地の利を生かした駿河先鋒や、新たな城の構築などに活躍する事となります。
また、この戦いによって、南北朝以来、守り続けてきた駿河の地を失う事になった今川氏・・・逆に、山に囲まれた山梨で生まれ育った信玄にとっては、のどから手が出るほど欲しかった海を手に入れたわけです。
「海を手に入れたら、やりたい!」と、描いていた夢に着手する信玄は、今日の今川館の攻防戦で功績のあった信春に、早速、清水城の構築を命じるとともに、あの名高い甲州水軍の養成に力を注ぐ事となります。
(甲州水軍については11月7日のページでどうぞ>>)
一方、掛川城へと逃げた氏真・・・この先、彼を追い詰めるのは信玄ではなく、「今川領を手に入れた後は、二人で分割しよう」との約束を交わし、信玄と同時に別働隊として進攻していた、あの徳川家康なのですが・・・そのお話は、
●12月13日【井伊谷の戦いと遠江侵攻】>>
●12月27日【掛川城攻防戦】でどうぞ>>
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コメント
武田信玄(出家前は、晴信)が実行した駿河攻めにおいて、馬場信春(信房ともいう)に関するエピソードがあるのをご存じでしょうか? そのエピソードは、信玄は今川館に、今川義元が収集してきた財宝があることを知っていたので、「財宝を焼くな。」と命じていたのですが、信玄に対して信春は、「もし、財宝を奪い取れば、後世になって、信玄は今川の財宝欲しさに攻めたと言われます。」と諫めたそうです。これを聞いた信玄は、自らを恥じたようです。信春が諌めたおかげで、信玄は、心置きなく、駿河攻めに成功したのではないでしょうか。
投稿: トト | 2017年5月10日 (水) 07時55分
トトさん、こんにちは~
そうですね。
『甲陽軍鑑』にあるお話なので、ちょっと脚色してある感も拭えませんが、それぞれの武将の雰囲気が伝わる良いエピソードですね。
投稿: 茶々 | 2017年5月10日 (水) 12時13分