武田信玄・蒲原城を奪取!
永禄十二年(1569年)12月6日、甲斐の武田信玄が、北条氏信の居城・駿河蒲原城を攻撃しました。
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海道一の弓取りと言われた駿河(静岡県東部)の今川義元が、織田信長に討たれた桶狭間の合戦・・・(5月19日参照>>)。
義元という大黒柱の死、後を継いだ嫡男・氏真(うじざね)はうまく家臣をまとめられず、今川氏の勢いは衰えはじめます。
氏真の母親が、甲斐(山梨県)の自身の妹であった事から、義元の死後、しばらくはおとなしくしていた武田信玄・・・。
しかし、ここに来て、信玄は、以前から今川と武田そして相模(神奈川県)の北条とで結ばれていた同盟関係を破棄して三河(愛知県東部)の徳川家康と手を組んで、今川の領地を手に入れようと駿河に進攻し始めます(12月12日参照>>)。
さらに信玄は、駿府(静岡市)の氏真の本拠地・今川館を攻め(12月13日参照>>)、その後も掛川城へと向かいます(12月27日参照>>)。
危機一髪、城から逃げ出した氏真が、北条氏政を頼った事から、今度は武田VS北条の戦いがあらわになります。
永禄十二年(1569年)に入って信玄は、北条氏を警戒するためなのか、信濃(長野県)から武蔵(埼玉・東京)を通り、相模への遠征を試みます。(1月18日参照>>)
やがて、甲斐へと撤退する武田軍を北条が追撃したのが10月6日の三増(みませ)峠の戦い(10月6日参照>>)です。
しかし、この戦いは引き分け・・・ちょっとだけ信玄が優勢だったかな?と思われるこの戦いの最中ですが、一方では北条は、今川への援助を行っていたのです。
駿河にて、今川の残党が北条氏の力を借り、着々と反撃の機会を狙います。
そして、いよいよ11月28日、氏真の重臣であった岡部正綱が、かつて本拠地であった駿河の今川館を襲撃!奪回に成功します(12月7日参照>>)。
同時に、北条の保護を受けている氏真は、氏政の息子・氏直と養子縁組を行い、その駿河の地を治めるべき後継者が北条氏直である事を印象づけたのです(11月4日参照>>)。
さらに、氏政は、ここで武田を一気に潰そうと、各領地から兵を総動員し、果ては越後(新潟県)の上杉謙信にまで、助力を仰ぎます。
「そうは、させるか!」
と信玄も動きます。
永禄十二年(1569年)12月6日、信玄は、息子・勝頼を大将に、北条一族・北条氏信の居城・駿河蒲原(かんばら)城を攻撃します。
この蒲原城は、信玄が駿河を狙うとなった時、重要な拠点となる位置にある大事な城・・・奪われてはならない!と奮闘する氏信以下北条軍でしたが、実は信玄は影でしっかりと対策を練っており、この時点では、すでに内通者が武田方に降っていたと言われています。
結局、その日のうちに、氏信は討死し、蒲原城は落城してしまいます。
勢いに乗った武田軍は、さらに12日、北条が薩埵峠(清水市)に構築していた砦をかわ切りに、駿河内に置かれていた北条の拠点を次々と落としていったのです。
やむなく、相模へと撤退する北条軍・・・。
13日には、あの今川館に武田の軍勢が殺到し、再び今川館は武田の物となります。
余談ですが・・・この時、館を守るべく奮闘した先ほどの岡部正綱は、この戦いの武勇が認められて、今川氏滅亡後は、信玄にヘッドハンティングされ、さらにその後、徳川家康にも仕えています。
よっぽどのスゴ腕だったんでしょうね。
さて、この戦いの勝利で、駿河の支配を強固な物にした信玄・・・しかし、もともと今川氏との同盟を破棄する際、それに反対する嫡男の義信を切腹に追い込んでまで(10月19日参照>>)、突っ走って挑んだ戦いです。
それが、駿河一国では、払った犠牲が大きすぎる・・・とばかりに、今度は家康の所領となっている遠江(静岡県西部)に狙いを定め、この後、信玄の目は西に向く事になるのですが・・・ご存じの三方ヶ原の前の一言坂の戦いについては10月13日のページでどうぞ>>
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