今川氏滅亡~掛川城・攻防戦
永禄十一年(1568年)12月27日、先日の駿府・今川館の攻防戦で、武田信玄に追われ、遠江へ逃亡した今川氏真を攻撃すべく、信玄と同盟する徳川家康が、氏真の籠る掛川城の包囲を完了しました。
・・・・・・・・・・・
駿河(静岡県東部)の今川氏、相模(神奈川県)の北条氏との同盟を破棄し、今川氏真の居館・今川館を攻撃した甲斐(山梨県)の武田信玄。(2007年12月13日参照>>)
追われた氏真は、重臣・朝比奈泰朝の居城である遠江(静岡県西部)・掛川城へと逃げ込みます。
ところが、そんな掛川城を、永禄十一年(1568年)12月27日に包囲を完了したのは、その信玄ではなく、三河(愛知県東部)の武将・徳川家康(松平元康)でした。
実は、信玄は、桶狭間の戦い(5月19日参照>>)で今川義元が、織田信長に討たれた後、衰退の一途をたどる今川氏に見切りをつけ、家康と組んで今川を攻撃し、今川の領地を手にしたあかつきには、二人で分割する約束を交わしていたのです。
(『浜松御在城記』によれば、織田信長が二人の仲介役になったとの事)
この年の12月の始め、信玄が甲斐から駿河へと進攻するのと同時に、家康は三河から遠江へと進攻を開始していたのでした(2019年12月13日参照>>)。
この日の包囲完了後、翌・永禄十二年(1569年)1月12日には、徳川勢による掛川城・総攻撃が開始されます。
城主である朝比奈泰朝は、今川の重臣の中でも、屈指の智将・・・義元亡き後の今川氏を支えた名補佐役でもありました。
そんな泰朝の名采配に答える城兵たち・・・。
徳川方の攻撃は、あまり功を奏さず、3月7日には家康自身が総大将となって掛川城攻めに加わります。
それまで、徳川の攻撃に見事に耐えていた今川勢でしたが、ちょうどこの頃、相乗効果を狙ってか、武田の重臣・秋山信友(晴近)が信濃(長野県)から遠江・北部へ進攻しはじめ、徐々に戦況が徳川有利に傾き出したのです。
やがて、春になる頃には、形勢は完全に逆転してしまい、ついに5月17日、氏真と泰朝は掛川城を開城し、ともに城を脱出・・・北条氏政を頼って、相模へと逃走するのです。
南北朝から続く駿河の名族としての今川氏は、ここに、滅亡する事となります。
後に、氏真の孫・今川直房が江戸幕府の旗本となっていますので、今川氏自体は、北条の滅亡後も生き残る事になりますが、当然の事ながら血筋が残ったというだけで、駿河を制した頃の今川の面影はありませんので、一応この時点で滅亡とさせていただきました。
歴史の歯車がもう少し違っていたら・・・
もし、あの日、桶狭間で休憩をとらなければ・・・
もし、あの日、大雨が降らなければ・・・
その後の氏真さんについては…2011年3月16日のページでどうぞ>>
.
「 戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事
- 浅井&朝倉滅亡のウラで…織田信長と六角承禎の鯰江城の戦い(2024.09.04)
- 白井河原の戦いで散る将軍に仕えた甲賀忍者?和田惟政(2024.08.28)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
- 本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防(2024.04.03)
コメント
高家に転身(転落)した今川家は、江戸時代に入ってからは一族でもある同じ高家の吉良家(もともと徳川の家臣)と縁戚になり、あの吉良上野介義央が今川義元の血を引く女系子孫なんですね。先祖同様に奇襲で命を落とすとは、なんと言う因縁か。
投稿: えびすこ | 2009年12月16日 (水) 16時17分
えびすこさん、こんばんは~
吉良さん・・・そうでしたね~。
投稿: 茶々 | 2009年12月16日 (水) 20時44分