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2007年12月 2日 (日)

足利義尚・近江鈎の陣~甲賀衆の奇襲作戦

 

長享元年(1487年)12月2日、近江鈎に布陣していた将軍・足利義尚六角高頼配下の甲賀武士たちが奇襲をかけました

・・・・・・・・・

応仁元年(1467年)から10年間に及ぶ長い合戦となった応仁の乱

日本を東西真っ二つに分けて争われた歴史に残るこの合戦も、西軍の山名宗全(3月18日参照>>)と東軍の細川勝元・・・両大将の病死により、グダグダな終止符が打たれました。

グダグダ故に、その後の混乱も収まる事がなく、幕府将軍と諸大名はしばしば対立する事となります。

そんな混乱に乗じて、近江(滋賀県)南部の戦国大名・六角高頼は、近江内の公家領や寺社領を占拠し続けるという姿勢に出ます。

Asikagayosihisa600 当然、公家や寺社は、室町幕府・第9代将軍・足利義尚(よしひさ)に訴え、義尚もさんざん退去するように申し渡すのですが、すでに足利将軍の軍事力の失墜・下克上の到来を感じていた高頼は、まったく聞く耳を持ちません。

高頼の態度が変わらない事を知った義尚は、長享元年(1487年)9月12日京都を出陣します。

高頼こそ、すでに見限っていたようですが、世間一般では、まだまだ将軍の権威は捨てたものじゃぁありません。

義尚のもとには、若狭(福井県南部)武田国信加賀(石川県南部)富樫政親(とがしまさちか)といった有力武将が集まり、その数は2万の大軍となります。

義尚の軍は、近江南部にある六角氏の砦を次々と落とし、やがて、高頼の居城・観音寺城(滋賀県安土)へと迫りますが、敵の襲来を知った高頼は、あっさりと観音寺城を捨て、配下の甲賀(滋賀県甲賀)の武士たちのもとへ転がり込むのです。

城を捨てた・・・というのは、おそらく高頼の作戦通りの行動でしょう。

何だかんだ言っても、やっぱり相手は将軍です。
今ここで、籠城をして直接対決するよりも、チャンスを待ったほうが得策と考えたに違いありません。

そんな高頼を追う義尚は、近江・(まがり・滋賀県栗東)に陣を敷き、さらに、そこを拠点に甲賀に向けて攻撃を仕掛けます。

しかし、高頼はすでに更なる他国へと逃亡。

そこで、「高頼討伐は長期に渡る」と判断した義尚は、長享元年(1487年)12月2日軍の一部を京都へ帰らせてしまいます。

義尚さん・・・ここに来て、ぼっちゃん気質が出ちゃいましたね~。
ツメが甘いと言うか、油断・・・ん?でも、ひょっとしたら怖いお母ちゃんのいる京都にも戻りたくなかったのかも・・・。

話が、今日の合戦からは、逸れますが・・・この義尚さん、あの銀閣寺で有名な8代将軍・足利義政とカカァ天下の代表格・日野富子の子供です。

結婚して10年間子宝に恵まれず、もはや、実子を後継者にするのを諦めた義政・富子夫婦が、義政の弟の義視(よしみ)を、僧侶をやめさせてまで後継者に任命した直後に生まれたかわいい息子

気の強い奥さん・富子が、政治に無関心な夫を見限って、その夢を託し、どうしても「次期将軍にしたい」と山名宗全を頼った・・・そもそも、あの応仁の乱は、その富子の息子溺愛から始まったような物(もちろん、それだけじゃないですが…)なのですから、その義尚の育った環境もわかろうというものです。

しかし、今回の相手は六角高頼・・・というよりも、高頼は逃げちゃってますから、むしろ敵は、高頼配下の甲賀の武士。

武士と言ってますが、甲賀という土地でわかる通り、彼らは忍術の心得のある一クセも二クセもある連中・・・坊ちゃん将軍の甘い先読みが通じる相手ではありません。

案の定、甲賀武士たちは、この12月2日の一部撤退を見逃しませんでした。

その夜、山中橘六を先鋒に、和田氏望月氏といった甲賀武士たちが、鈎の陣に奇襲をかけたのです。

不意を襲われた陣は大混乱に陥り、わけもわからず大騒ぎ。
義尚を無視して、早々に逃げ出す者が続出します。

この騒ぎに紛れて甲賀武士のひとりが義尚に斬りかかり、負傷させたとも伝えられていますが・・・。

とにかく、六角氏の砦を破竹の勢いで次々と落とし、ちょっとは回復しかけた将軍の権威も、またまた元の木阿弥に・・・

しかも、甲賀武士たちのゲリラ作戦は、ここで終らず・・・と、いうか、ここは、そもそも甲賀の武士たちの地元・・・地の利を生かし、あちらに火を放てば、こちらに奇襲をかけるといった具合で、とどまる事を知らず、その度に義尚の軍は苦渋をなめさせられる事になります。

結局、長享三年(延徳元年・1489年)の3月26日まで、1年半に渡って義尚は鈎の陣を離れる事ができず、六角+甲賀武士に悩まされ続けます。

・・・で、何で、この3月26日に、義尚が陣を離れたか?と言いますと・・・なんと、その義尚がこの陣中で病死してしまったからなのです。

享年25歳・・・(3月27日参照>>)
いつやって来るかわからない奇襲への恐怖からか?
それとも、いつ終るともわからない戦いへの空しさからか?

この陣中での義尚は、酒に溺れる生活になっていたようです。

武将たちの行列をともない京都に戻った義尚・・・その棺のかたわらには、泣き崩れる富子の姿があったとか・・・

この戦いによって、六角氏が横領していた多くの領地は、もとの公家や寺社のもとに戻り、将軍家の名誉もちょっとばかり回復しますが、軍事の弱体化は、これ以降、目立つようになります。

しかし、軍事の弱体化は、将軍家だけでなく六角氏も同じで、この長期の戦いは、双方ともにダメージを負った戦いになったようです。
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コメント

この記事では足利義向を「あしかが・よしひさ」と記載してますが、今日見た書籍では「あしかが・よしなお」とルビ記載してました。今の教科書ではどうなんでしょう?
16年前の「花の乱」では「よしひさ」でしたが。

余談ですが、足利将軍家は酒びたりになって亡くなる人が多い家系らしいです。

投稿: えびすこ | 2010年10月10日 (日) 18時07分

えびすこさん、こんばんは~

>今日見た書籍では…

そうですか…
私は「よしひさ」となってるのしか見た事ありませんが、そもそもは、昔の文献には、ルビはふってないでしょうし、読み方が複数ある武将もたくさんいますので、どっちもアリなのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2010年10月10日 (日) 23時06分

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