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2007年12月11日 (火)

弟のニセ綸旨で反旗を決意?足利尊氏・箱根竹ノ下の戦い

 

建武二年(1335年)12月11日、後醍醐天皇の命令で、追討にやって来た新田義貞を、足利尊氏が破った『箱根・竹ノ下の戦い』がありました。

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今日の『箱根・竹ノ下の戦い』は、「南北朝動乱の幕開け」と称されています。

つまり、今まで、ともに協力して鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)、新政を成し遂げた後醍醐天皇足利尊氏が、ここに来て対立・・・そして合戦という形で表面化し、やがて「尊氏の北朝VS天皇の南朝」なるわけなので、まさに、「幕開け」です。

ただし、後醍醐天皇から派遣された新田義貞と足利軍が衝突したのは、この日が最初ではありません。

義貞が京を出たのは11月・・・迫り来る新田軍を最初に迎え撃ったのは尊氏ではなく、弟の直義でした。

しかし、三河・遠江・駿河と、直義が率いる足利軍は次々と破れ、新田軍は伊豆まで迫ってきます。

そこで、ようやく尊氏が立って、今日の『箱根・竹ノ下の戦い』となるのですが、なぜ?尊氏は、今日のこの時まで、戦わなかったのしょうか?

Asikagatakauzi600 実は、もともと、尊氏には、「後醍醐天皇に反旗をひるがえそう」なんて気持ちはまったく無かったからなのです。

尊氏は、一度目は北条の鎌倉幕府を、そして2度目は今回の後醍醐天皇・・・と2度、主君に反旗をひるがえすわけですが、以前の【足利尊氏・裏切りの要因】(4月16日参照>>)のページにも書かせていただいた通り、それはひとえに、源氏の棟梁としての責任感のなせるワザなのです。

彼は、野心家でも反逆児でもなく、ただ、冷遇されている足利一門を・・・「自分の配下の武士たちの待遇を少しでも良くしたい」という思いからなのです。

尊氏は、根っからの親分肌。

昨日まで敵だった者も、味方となった限りは大いにかわいがり、新田の配下となってしまった元足利の者に「こっちに来いよ」と、駆け引き無しで説得したりするところは、まさに大親分です。

そもそも今回の出兵は、北条の残党が鎌倉を占拠したために、それを制圧する目的で尊氏は京を出発するのですが、その時、後醍醐天皇は、尊氏の強さを恐れ、「遠くに離したくない」という思いから、尊氏が鎌倉に向かう事を許しませんでした。

しかし、我慢できない尊氏は、令の無いまま、8月2日に出陣し、猛攻撃の末に19日には鎌倉を取り戻してしまうのですが(8月19日参照>>)、さすがに、この時は後醍醐天皇も「尊氏を手元に置いておきたい」というのは、自分の勝手な思惑とわかっていたらしく、後から「北条残党・追討」の命令を出しています。

そのかわり、尊氏に従二位の位を与え、その功績を賞した後は、すみやかに京に戻るよう命令しています。

しかし、すでに『建武の新政』で、武士が冷遇されていたのはご承知の通り(6月6日参照>>)

それでも尊氏は天皇の命令通り京に戻るつもりでいましたが、弟・直義は「せっかく関東を制圧したのに、また同じ待遇の所に、今更戻る必要があるのか?」と尊氏に問います。

やがて、尊氏は、10月には鎌倉に新たな屋敷を建築し、京に戻る意思が無い事をあらわにするのです。

それで、先に書いた後醍醐天皇の「尊氏・追討命令」となって新田義貞がやってきたわけですが、それでも尊氏は、天皇に弓を引くつもりはなく、あくまで「自分の主張(武士の待遇と幕府を開く事)を何とか認めてもらいたい」という姿勢だったのです。

長い説明になりましたが、そういうわけで、初めのほうの新田軍との戦いには、尊氏は参戦していなかったのです。

・・・で、最初に書いたように、弟・直義が率いる足利軍は新田軍に苦戦を強いられるのですが、これも直義が弱いわけではなく、その根っからの親分肌のおかげで、「今やカリスマとなった源氏の棟梁が参戦しない戦い」に、配下の武士たちの士気があがるわけがありませんからね・・・負けが続くのは仕方の無い事です。

案の定、この『箱根・竹ノ下の戦い』で、重い腰をあげ、やっと参戦した尊氏を見て、味方の軍の士気は一気に高まり、見事、新田軍を破る事になるのですが、この日の参戦を、尊氏が決意するにあたって、一つのエピソードがあります。

先に書いたように、どうしても後醍醐天皇に反旗をひるがえしたくない尊氏・・・「何とかその思いをわかってもらいたい・・・どうしたらわかってもらえるのか?」と悩んだ末に、鎌倉の建長寺へ行き「出家する!」と言って元結を切ってしまうのです。

兄のザンバラ頭の姿を見た弟・直義はびっくりします。
「これは何とかせな!」

・・・と、そこで直義は、『尊氏と直義を誅せよ』というニセの『綸旨(天皇の命令書・単なる命令より絶対度合が高い)を作成し尊氏に見せ・・・
「兄ちゃん、ほら、もうこんな事になってんねんから、今更、後に退いても、やられるだけやで」
・・・と、説得。

尊氏は弟のニセ綸旨のおかげて決意が固まって、やっとこさ参戦・・・という事になったのです。

こんなところにも、突進型で大将タイプの兄・尊氏と、策略家で参謀タイプの弟・直義の名コンビぶりがうかがえますね。

・・・で、この戦いに勝利した足利軍は、その勢いで新田軍を追撃しながら上京。

翌年の1月には近江(滋賀県)に迫り、その後、京都での戦いに突入する事となりますが、そのお話は1月27日のページでどうぞ>>
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