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2008年1月17日 (木)

応仁の乱の口火を切る御霊合戦

 

応仁元年(1467年)1月17日、管領職を追われた畠山政長が、自宅に火を放ち、御霊神社に籠りました

時代は、応仁の乱に突入します。

・・・・・・・・・・

このブログでも、5月20日>>のところで、『応仁の乱・勃発』という記事を書かせていただいてますように、一般的には、「応仁の乱=5月20日・勃発」となっていますが、実は、何を以って勃発とするか?で、少々、日づけに差があります。

・・・と言いますのも、ご存知のように応仁の乱は、歴史上屈指の大乱です。

歴史好きでなくても、名前くらいは大抵の人が知っているくらい有名で、日本全国を東西、真っ二つに分けて、11年間も続き、京の都を焼け野原にしました。

しかし、これだけ長期にわたって、これだけ多くの大軍が対峙したにも関わらず、名のある大将が命を落とす事もなく、最終的に決着さえ着かなかった・・・考えて見れば、とても不思議な乱なのです。

しかも、東の将・細川勝元花の御所に・・・、西の将・山名宗全(持豊)(3月18日参照>>)自宅(現在の西陣)に・・・、それぞれ本陣を構えていましたが、この二つの陣の距離は、わずか数百メートルです。

敵同士が、こんな近くにいて、この有様はいったい?・・・。

実は、それには、この乱にご参加の皆様がたの、それぞれのお家の事情がからんで来るのです。

この応仁の乱の原因の一つとなった将軍家の後継者争いについては、先日、足利義視(よしみ)さんのご命日の日(1月7日参照>>)に書かせていただきましたので、ここではサラッと・・・

とにかく、室町幕府8代将軍の足利義政が、仏門に入っている弟・義視をわざわざ呼び寄せて、次期将軍に任命したにも関わらず、そのすぐ後に、奥さん・日野富子との間に、実子・義尚が生まれてしまったために起こった、次の将軍が弟か?息子か?という一件です。

ちなみに、義視が細川勝元(東軍)と・・・、義尚と富子が山名宗全(西軍)と組みます。

・・・で、その将軍家と同じように、管領家である畠山家では畠山政長(東軍)畠山義就(よしなり・西軍)が、斯波(しば)では斯波義敏(よしとし・東軍)斯波義康(よしかど・西軍)とが、親戚同士で争っていたわけです。

そこに、各地の諸大名が、西と東に分かれてつく事になって大乱となるわけですが、つまりは東軍VS西軍というよりは、将軍家VS将軍家、畠山VS畠山、斯波VS斯波の同時進行・・・という戦いなのです。

この時代、武家では、すでに嫡男の単独相続というのが定着しつつありましたが、そのすべてを相続できる惣領の任命権が幕府にあったのです。

嫡男=長男で、すんなり決まれば問題はありませんが、その家の長となる者が、ある意味、実力で決まるようなところがあり、将軍が力のあるほうを後継ぎに任命してしまうわけで、当然、そこには後継者争いが生じます。

しかし、彼らは、任命権が幕府にあるため京に参上しますが、それぞれの地元に戻れば、彼らの下に守護代や国人・土豪といったそれぞれの味方の武士がいるわけです。

すでに、幕府には地方を統治する力はなく、京都で、東軍あるいは西軍として戦って勝ったとしても、地元に戻れば、また覇権を争わなくてはなりませんから、正直なところ彼らは、地元に帰って地元で決着をつけなければ勝負は決まらないワケで、京都で本気になって戦う気は、あまりなかった・・・というのがホンネでしょうね。

つまり、応仁の乱は、将軍家の争いに諸大名が支援したのではなく、諸大名の家督争いに将軍家が乗っかった大乱という事になるかも知れません。

・・・で、前置きが長くなりましたが、その口火を切ったのが、今日書かせていただく畠山VS畠山の『御霊合戦』と呼ばれる戦いなのです。

当時、管領職にあったのは畠山政長でした。

以前、細川勝元のせいで追放され、京を去っていた政長の従兄弟・畠山義就は、この応仁元年(1467年)の正月、山名宗全を頼って復権を願い出ます。

実力者である宗全に口説かれた将軍・義政は、あっさりと政長を捨て、畠山家の惣領を義就にしてしまうのです。

もちろん、この処置に政長は怒り心頭・・・一気に合戦の様相を呈してきます。

当然、政長のバックには勝元、義就のバックには宗全がいたわけですが、今回に限り、将軍・義政は、何とか中立の立場を取ると同時に、戦火の広がりを防ごうと、他者の参戦を禁止します

Ouninnorankamigoryoucc 勝元の加勢を受けられないと知った政長は、単独で戦う決意のもと、応仁元年(1467年)1月17日の夜、自宅に火を放ち、上御霊神社を占拠したのです。

しかし、この自宅への放火を「政長の都落ち」だと、配下の者の一部が勘違いして、その者たちが散り散りに去って行ってしまったため、上御霊神社に集結した政長の兵は2千ほどになってしまいます。

それを、知った義就は、チャンスとばかりに翌・1月18日の早朝数千の兵を率いて上御霊神社に押し寄せたのです。

しかし、少数とは言え、政長の手勢は覚悟を決めた者ばかり・・・義就勢もなかなか思うようには攻められませんでした。

士気の高い少数精鋭でふんばる政長勢でしたが、兵が疲れたところで、義就勢と入れ替わりに押し寄せてくるのは宗全の孫・山名政豊・・・(って、他者の参戦禁止のはずやのに~!)

やがて、夜になり、双方一旦退却し、明日に備える事になりますが、さすがに少数の政長勢の疲れはハンパじゃありません。

政長は、自刃する決意をし、勝元に使者を送ります。

「もう、疲れました・・・最期に酒宴を開き、その後、皆で自刃しようと思いますので、陣中にお酒を送っていただけないでしょうか?」

これを、聞いた勝元・・・政長を助けよう!と決意します。

しかし、戦況は義就が有利。

このまま、この合戦で勝利する事は不可能とだ考えた勝元は、この合戦は負け戦に見せかけておいて、一旦終了し、敵を油断させた後、ころあいを見計らって将軍・義政を取り込み、相手を朝敵にした後、将軍公認のもとで合戦を仕掛けようと考えます。

そして、政長には酒を送らず、使者に(かぶら)を一つ持たせて帰らせるのです。

鏑とは、矢の先端につける道具で、それをつけて矢を放つと大きな音とともに矢が飛び、その音が合戦の合図となる・・・という物です。

使者の持ち帰った鏑を見て、勝元の心の内をさとった政長・・・昼間の合戦で死んだ者たちの遺体を神社の本殿の回りに集め、火を放ちました。

燃え盛る炎・・・疲れて眠ろうとしていた義就の陣に歓声があがります。

この期に乗じて、一気に叩き潰そうと、再び神社へ押し寄せる義就勢・・・

しかし、彼らが見た物は、消失した拝殿と、焼け焦げた死体の数々です。

「政長もこの中にいるだろう・・・」
その場所は、誰もがそう思う光景でした。

宗全も義就も、「天下は決した」と勝利の美酒に酔い、諸大名も国元へ帰参します。

しかし、上記の通り、焼かれたのは、すでに死亡していた者たちの死体のみ・・・政長以下、無事だった者は、皆、その炎と闇に紛れ、御霊の森を抜け、隣接する相国寺から逃走していたのです。

そして、その後の勝元は、将軍・義政を何とか味方につけようと画策し、一方の政長は諸国を巡り、各地の武将に東軍に参戦するように働きかけるのです。

やがて、勝元は花の御所を制し、両軍が激突する時がやってきます

それが、応仁元年(1467年)5月20日・・・(5月20日参照>>)というわけですね。

京都の上御霊神社の説明板には、「応仁の乱勃発の地」と書かれてあります。

はてさて、勃発は1月か5月か・・・もう少し悩ませていただく事に致しましょう。
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コメント

京都では、この前の戦争=応仁の乱なんて言いますね(笑)歴史ドラマを見ているようで、本日もおもしろ勉強になりました!

投稿: hal@くるり京都 | 2008年1月17日 (木) 10時26分

hal@くるり京都さん、コメントありがとうございます~。

>京都ではこの前の戦争=応仁の乱なんて言いますね

東京へ行く事を「上京」と言わず「東(あずま)くだり」と言う・・・とも言いますね(笑)

もちろん、「上京」は大阪でも言いませんが、やはり千年の都のプライドがありますからね。

江戸時代を加えたとしても、東京はまだ400年ですもん。

もちろん、京都の人も、充分わかっていて、半分はギャグでしょうけど・・・

投稿: 茶々 | 2008年1月17日 (木) 16時17分

なるほど、東下りかぁ。そういえば、京都の知り合いが「天皇さんは東京に行ってはる」と言ったのが印象的で覚えています。

投稿: hal@くるり京都 | 2008年1月18日 (金) 14時57分

友達が遊びに来る事を「○○が明日、上洛してくる」とか・・・

ちなみに、「先の戦争」は「応仁の乱」じゃなくて、「鳥羽伏見の戦い」の場合もあるそうです。

投稿: 茶々 | 2008年1月18日 (金) 16時21分

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