里見VS後北条~第二次国府台の合戦
永禄七年(1564年)1月8日、北条氏康軍が江戸川を越え、対岸に布陣する里見義弘軍に奇襲攻撃を開始・・・『第二次国府台の合戦』がありました。
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天文七年(1538年)、小弓公方の足利義明を交えて、ここ国府台(こうのだい)で一戦を交えた相模(神奈川県)の北条氏と、安房(千葉県南部)の里見氏・・・これを第一次国府台の合戦と言います(10月7日参照>>)。
その後、北条氏は、天文十五年(1546年)の河越夜戦で勝利し(4月20日参照>>)、公方や関東管領といった旧勢力を名ばかりの状態にして、関東北部へ勢力を伸ばしていきます。
一方の里見氏も、北条と一触即発の状態を保ちながら、関東に勢力を伸ばすチャンスをうかがい続けていたのです。
そして、第一次国府台の合戦から約30年・・・北条・里見それぞれの当主が息子たちへと継がれ、ふたたび、この地で雌雄を決する時がやって来るのです。
しかし、今度の戦いには、北条VS里見だけではなく、彼らの間には、戦国屈指の大物がからんでいました。
それは、越後(新潟県)の上杉謙信と甲斐(山梨県)の武田信玄です。
永禄四年(1561年)、北条の勢いで、もはや名ばかりとなった関東管領・上杉憲政(のりまさ)から、その関東管領職を譲られた上杉謙信。
しかし、この関東管領就任は謙信に重くのしかかってくる事になります。
なんせ、信州(長野県)の国境付近から越後を脅かす武田信玄を防ぐ一方で、これからは関東に勢力を振るう北条氏康とも戦わなければならなくなったわけですから・・・。
例の有名な第4次川中島の戦い(9月10日参照>>)でも、決着が着かずじまいの謙信と信玄・・・その後も、謙信は毎年のように関東へ出陣しますが、たいした成果も得られず、いぜん、関東は北条の支配が続くばかり・・・。
一方の信玄も、たびたび上野(群馬県)などへの進攻繰り返していました。
そんな永禄六年(1563年)、謙信は、里見義弘に密使を送り、関東に進出した信玄の背後を突くよう要請・・・謙信の要請を受けた義弘は、翌年・永禄七年(1564年)、明けて間もなく行動を開始します。
義弘は、武蔵(埼玉県)の太田資正(すけまさ・太田道灌の曾孫)(9月8日参照>>)ら、太田一族に誘いをかけ、彼らとともに下総国府台まで進攻しますが、この時、里見勢に加わった太田一族の中に、太田康資(やすすけ)がいた事で、北条氏康が激怒するのです。
実は、この康資、氏康の娘を娶っていたのです・・・つまり、氏康にとって康資は娘婿という事になります。
北条と武田が同盟を結んでいる事は誰もが承知している事・・・なのに、百も承知で裏切った娘婿に、怒り心頭の氏康は、上杉・武田そっちのけで、2万の大軍を率いて利根川(現在の江戸川)を挟んだ敵の対岸に布陣したのです。
永禄七年(1564年)1月8日の真昼間、浅瀬を選んで一気に川を渡り、奇襲を仕掛ける北条軍・・・しかし、これを事前に察知していた里見軍はあっさりと攻撃をかわし、この日の合戦は里見の勝利に終わります。
しかし、その夜の事です。
国府台の陣にて宴会を開いて勝利の美酒に酔いしれる里見軍に対して、闇に紛れて密かに、その国府台を取り囲む北条軍・・・。
翌・9日早朝・・・北条軍は、まだ、勝利の歓喜覚めやらぬ里見軍に、一気に総攻撃を仕掛けるのです。
思いっきり油断していた里見軍は、ものの見事にしてやられてしまいます。
ただ、記録によれば、この時の里見側の死傷者は5300人。
一方の北条側も3700人の死傷者を出した・・・という事なので、北条の大勝と呼ぶにはほど遠い、かなりの激戦であったようです。
しかし、ギリギリとは言え、勝利は勝利・・・義弘は慌てて安房へ、資正も居城・岩付(いわつき)城へと敗走します。
この後、北条&里見の両者がぶつかるのは3年後・・・永禄十年(1567年)9月の三船山の戦いにて(9月10日参照>>)
一方、謙信と信玄は?
その後、今度は信玄が、陸奥南部(福島県)の芦名盛氏(もりうじ)に、「謙信の背後を突いてチョーダイ」と要請したりなんかしながら、結局、この半年後に、またまた川中島(第5次)でぶつかる事になるのですが、その時は、第4次の悪夢がお互いを警戒態勢に走らせたのか、本格的な決戦になる事はありませんでした(8月3日参照>>)。
その後、謙信は北陸へ、信玄は東海へと路線変更したため、上杉VS武田のぶつかり合いよりも、むしろ武田と北条の同盟のほうが崩れてしまい、武田VS北条+今川(12月12日参照>>)の戦いへと進んで行く事になるのです。
それにしても、油断大敵です・・・勝利の美酒には、完全に勝ってから酔いしれなければ・・・
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コメント
新年のご挨拶が遅くなりました。本年も宜しくここで、学ばせてください。
やっと、我がテリトリーのお話国府台の戦い、詳しいことは今知った次第ですが。
里見のお城後は今は里見公園
桜の名所、往時を偲ぶ物はありませんが、歴史話の少ない千葉県ではかの八犬伝や大きな戦のあった場所
江戸川を挟んで、対岸は東京葛飾、寅さんの柴又もすぐ近く、
国府台を少し下ると矢切の渡し。中々のロケーションです。
だいぶ以前になりますが、この戦いで戦死した、里見の武将の娘、小さなお姫様が父を求めて大きな石の上で疲れ果て亡くなった、そのすすり泣く声が今も聞こえるとか
里見公園の中にひっそりと残っていました。
投稿: さと | 2008年1月10日 (木) 10時24分
さと様、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
矢切の渡し・・・初期の寅さんの冒頭の部分で映るアソコですよね~
とても、イイ場所だなぁって思ってたんですよ。
今もあんな感じなんですか?
それにしても・・・
>そのすすり泣く声が今も聞こえるとか・・・
そんな悲しい逸話もあるんですね・・・
投稿: 茶々 | 2008年1月10日 (木) 16時13分
国府台は私の住んでいる所の側ではないですか。w(゚o゚)w
時々あの辺に行く用事があるので、里見公園は知っています。
千葉県はあまり歴史的出来事がない土地柄なので、ここでこういう事を知るのは貴重です。
現在のネームにしてから、あまり記事の中にイラストを載せてないですが、色合いがきれいなのでイラストを気に入っています。新作のイラストを見たいです。o(_ _)oペコッ
投稿: えびすこ | 2010年5月15日 (土) 22時08分
えびすこさん、こんばんは~
戦国時代を描くドラマは多いですが、あまり里見家は出てきませんね~八犬伝くらい
里見家や、鎌倉公方などが登場するドラマも見てみたいです。
最近は、なかなかイラストを描く時間がとれませんね~((ノ)゚ω(ヾ))
時間がないと、イメージも浮かばなくって・・・
でも、イラストは好きなので、時々は描いていきたいと思います。
投稿: 茶々 | 2010年5月16日 (日) 02時05分
茶々さん、こんばんは。
この辺りの戦いはバックに武田、上杉、今川等が絡んできて、複雑な分面白いですよね。
逆にこの3家にとってはこの複雑な関東情勢を背後に抱えていたのだから、上洛もままならないわけですね。
投稿: 鷲谷 城州 | 2021年11月 8日 (月) 22時15分
鷲谷 城州さん、こんばんは~
関東は公方様自体がグダグダだったので、そこに関与する武将たちもイロイロ大変だったと思います。
投稿: 茶々 | 2021年11月10日 (水) 04時28分