武田信玄最後の戦い~野田城・攻防戦
天正元年(1573年)1月11日、上洛途中の武田信玄が、徳川方の籠る三河野田城を攻撃しました。
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戦国武将と言って思いうかぶ、天下に手が届いた感のある5人の武将・・・武田信玄・上杉謙信・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康。
群雄割拠するこの5人の中で、突出して年齢が上なのは信玄です。
この天正元年の時点で、信玄53歳、謙信44歳、信長40歳、秀吉・家康にいたってはまだ、30代。
しかも、5年前の永禄十一年(1568年)、年下の信長に、室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じてに先に上洛を果たされてしまっています。(9月7日参照>>)
しかし、今現在の信長は、畿内の平定に躍起になっているようす・・・まさに、信玄にとってはラストチャンス!です。
「京を制する者は天下を制す」
元亀三年(1572年)10月・・・大軍を率いて甲斐を出発。
充分天下を狙える位置にいた信玄にとって、満を持しての上洛です。
途中、まだまだ青かった家康を三方ヶ原で撃破(12月22日参照>>)した信玄は、家康の居城・浜松城へは行かず、浜名湖畔で年を越し、翌・天正元年(1573年)に入って徳川方の三河(愛知県東部)野田城を目指すのです。
そして、天正元年(1573年)1月3日・・・野田城を包囲した信玄は、1月11日、攻撃を開始します。
三方ヶ原で大敗したばかりの家康は、援軍を出してはみるものの、もはや、見守るばかりで、何もできずじまい。
2万5千とも数万とも・・・諸説あるものの、とにかく万単位の武田軍に対して、野田城を守るのは、城主・菅沼定盈(すがぬまさだみつ)は、わずか400程度。
とてもじゃないが守りきれるはずは・・・と、思いきや、これが小城ながらも、意外に守りが堅く、信玄ともあろう者がけっこう手こずるのです。
そこで、信玄は、従軍していた甲斐の金山衆にトンネルを掘らせて、野田城の水源を断つ作戦に出ます。
強固な守りに城兵の士気も高かった野田城も、さすがに飲料水が無くては、長期にわたる籠城は不可能です。
それでも、何とか1ヶ月余り絶えた野田城でしたが、とうとう2月15日に降伏・・・城主・定盈は己の命と引き換えに、城兵の助命を申し出ます。
しかし、信玄は、定盈に切腹を申し渡す事はなく、徳川方に捕えられていた奥平貞勝との人質交換となり、幸いにも定盈自身は、家康のもとに戻ります。
この野田城の落城によって、三河での家康の防衛線は壊滅し、もはや岡崎城も風前のともし火で・・・おそらく、家康も、覚悟を決めた事でしょう。
もう、信玄の上洛への障害物は無くなった・・・かに見えました。
しかし、ここで、武田軍の西への進軍はストップします。
それどころか、突然甲斐に向かって後戻りをし始めるのです。
実は、この野田城の攻防戦の真っ最中のある夜の事・・・・
どこからろもなく、美しい笛の調べが聞こえてきます。
「そう言えば、野田城には、松林芳林(まつばやしほうりん)という笛の名手がいるという事を聞いた事がある・・・」
その事を思い出して、その清らかな笛の音を聞こうと、野田城に近づく信玄・・・。
しかし、この野田城には笛の名手とともに、鳥井三右衛門(さんえもん・鳥居半四郎)という鉄砲の名手もいたのです。
三右衛門の放った弾丸は、見事!信玄に命中します。
そう・・・先の武田軍の後戻りは、信玄の死によるもの・・・と、この逸話は、たびたびドラマや映画の題材となり、信玄の最期は、大抵この逸話をもとにしてドラマチックに描かれます。
しかし、現実には、担当医師の書状という物が残っていて、そこには、信玄の病状の経過が事細かく記されて、どうやら持病の悪化・・・というのが本当のところのようです。
ただし、西へ進軍していた武田軍が、この野田城攻略を境に、後戻りをしたのは事実ですから、この時点で、信玄の病状が、限界に近いほど悪化していた事は確かでしょう。
そして、野田城攻防戦から3ヶ月後の4月12日、帰還途中の信濃(長野県)伊那にて、上洛の夢を果たせぬままに信玄はこの世を去るのです(4月12日参照>>)。
力づくでスピード攻略・イケイケ派の信玄にしては、めずらしくじっくりとトンネルを掘っての城攻め・・・この野田城での攻防戦が、戦国武将・武田信玄の最後の戦いとなりました。
今日のイラストは、
野田城攻防戦の一場面・・・やはり、逸話とは言え、こちらのほうが断然ドラマチックなので・・・
たおやかに流れる調べに耳を傾ける『信玄最後の夜』といった感じでしょうか・・・
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コメント
桶狭間の戦いの後、北に向かわずに、諏訪から南に向かっていれば。
投稿: 京へ | 2012年6月17日 (日) 07時29分
京へさん、こんにちは~
歴史にifは禁物ですが、ついつい、考えてしまいますね~
投稿: 茶々 | 2012年6月17日 (日) 12時01分
桶狭間の戦いの直後、信玄は下条家を通じて、三河の諸将と何らかの交渉を行い、かつ兵糧の輸送も行った事を示す書状が残っています。
今後の研究が待たれますが、諏訪から南に向かおうとしたのはしたものの、徳川家康か今川氏真が何らかの工作で防いだというのが史実っぽく感じます
投稿: ほよよんほよよん | 2015年1月11日 (日) 10時55分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
桶狭間の直後の信玄は、まだまだ謙信への対応に忙しく、思いはあれど、なかなか方向転換も難しかったのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2015年1月12日 (月) 01時05分
信玄の上洛戦(?)時の武田軍の一連の動きは気になるところですね。
信玄がこののち死んだのは事実のようですが、果たしてどのあたりから病状が思わしくなかったのか…
野田城を攻め落とすのに一か月かかっていますが、それは野田城が堅かったのか、それとも武田軍が混乱していたからなのか。
投稿: Sosuke Washiya | 2020年3月 7日 (土) 12時34分
Sosuke Washiyaさん、こんにちは~
おっしゃる通り…謎ですね~
信玄も、義元と同様に、途中で亡くなってしまうと、その目的すら、よくわからなくなってしまいますね。
狙撃の噂もあるくらいですから、病状は急激に悪くなってしまったんでしょうね?
ならば、混乱もあったのでしょう。
投稿: 茶々 | 2020年3月 7日 (土) 16時19分