尼子氏衰退への第一歩?安芸郡山城・攻防戦
天文十年(1541年)1月13日、毛利氏の籠る安芸郡山城に、尼子氏が総攻撃を開始しました。
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応仁の大乱から約80年・・・
世はまさに戦国・群雄割拠の時代。
後に、中国地方一帯を手中に収める大大名となる毛利元就も、この頃はまだ安芸(広島県西部)の有力国人にすぎませんでした。
しかも、近隣には出雲(島根県東部)を治める尼子氏や、周防(すおう・山口県東部)を治める大内氏といった平安・鎌倉からの名門が、デ~ンと幅をきかせています。
そんな中の毛利は、むしろ彼らに従事する存在だったのです。
最初、尼子氏の傘下に収まっていた元就・・・天文六年(1537年)に先代の尼子経久が、まだ年若い孫の晴久に家督を譲ったのをきっかけに(11月13日参照>>)、元就は大内義隆の傘下へとその身を投じるのです。
もちろん、この元就の行動に怒り爆発なのは、当主になったばかりの晴久です。
なんせ、尼子氏と大内氏は、これまでも度々、その覇権をめぐってぶつかり合っていましたから・・・ライバル関係にある大名のところへ、そうやすやすと行ってもらっては困ります。
そして、天文九年(1540年)の6月、晴久は毛利討伐の大軍を派遣するのです。
しかし、この時の軍勢は、元就の居城・郡山城の強固な守りに阻まれ、城を落とすことなく帰還してしまします。
そこで、翌々月の8月には、尼子氏の中でも勇将の誉れ高い尼子久幸(ひさゆき・晴久の大叔父)を筆頭に、尼子氏精鋭部隊・新宮党を操る尼子国久(晴久の叔父)と、その息子の尼子誠久(さねひさ)率いる、3万という大軍を編成し、再び、郡山城を攻めるのです。
迎え撃つ元就の毛利軍はわずか8千・・・しかも、その数の中には正規の軍ではない領民も含まれていたと言いますから、もはや、郡山城は、蛇に睨まれたカエルです。
籠城を決意する毛利軍・・・
ネズミ一匹逃がすものか!と、その城を包囲する尼子軍・・・
まずは9月5日、城の周辺に放火をし始めた尼子軍は、やがて10月21日、本格的に、全面攻撃を開始します。
しかし、またしても・・・
さすがに、この大軍では、敗走する事はありませんでしたが、総攻撃をかけても、わずか8千の城を落とせないでいる事は、尼子軍にとって、負けに等しい屈辱でしたが、その後も、毛利の巧みな守りに、そのままズルズルと睨みあいを続けていた両者。
やがて、12月に入ると、元就が待ちに待っていた大内氏の援軍が到着します。
毛利を救うため、一万の兵を従えてやってきたのは、陶隆房(すえたかふさ・晴賢)。
彼は、後に主君・大内義隆を謀殺(8月27日参照>>)して、大内氏を我が物とする男・・・、元就とも屈指の奇襲戦・厳島の戦い(10月1日参照>>)で雌雄を決する事になる因縁の人です。
明けて天文十年(1541年)、大軍を率いても郡山城を攻めあぐねている事も・・・そして、援軍が到着した事もあって、その姿勢にあせりが見え始めた尼子軍。
かくして天文十年(1541年)1月13日・・・「もう、後が無い」とばかりに、この郡山城へ総攻撃をしかけるのです。
しかし、最初のわずか8千の時でも落とせなかった城です。
まして、一万の援軍も加勢するわけですから、その攻撃がうまいくはずもくありません。
開始早々、あっという間に、総大将の久幸が討ち取られてしまいます。
それを、目の当たりにした国久・誠久父子は、あわてて撤退を開始しますが、時すでに遅し・・・何とか命からがら出雲へと逃げ帰りますが、負けた尼子氏にとっては、大きな打撃となるのです。
そして、その後は・・・
ご存知のように、大内も尼子も衰退する中、やがて元就がその頭角を現してくる事になるわけですが・・・それは、もう少し先のお話。
思えば、当主の交代劇と、この負け戦とが、名門・尼子氏の衰退への第一歩だったのかも知れません。
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