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2008年1月 7日 (月)

応仁の乱のきっかけとなった足利義視

 

延徳三年(1491年)1月7日は、足利義視さんのご命日です。

足利義視(よしみ)は、あの銀閣寺で有名な室町幕府8代将軍・足利義政の弟で、その後継者である9代将軍の座をめぐって、歴史上屈指の大乱・応仁の乱のきっかけを作る人でもあります。

義視さんの心の奥底は、もちろん彼本人しかわかりませんが、はたして本当に彼は最初から将軍の座を狙っていたのでしょうか?

・・・・・・・・

一般的には、応仁の乱の勃発をもって「戦国時代の始まり」とする事が多いですが、実は戦国時代になるべき前兆は、6代将軍・足利義教(よしのり)の頃から、すでにありました。

話はさかのぼりますが・・・
3代将軍・足利義満によって、崩れぬ将軍家を造りあげたかに見えた足利家でしたが、それも順調だったのは、4代将軍の義持(よしもち)の頃まで・・・

代々足利将軍は、現将軍が次期将軍を指名する形で引き継がれていましたが、5代将軍・足利義量(よしかず)が19歳という若さで、次期将軍を指名しないいまま亡くなってしまいます。(1月18日参照>>)

そのため、4代将軍の義持が、将軍が空席のまま政務をこなしていましたが、この義持も、次期将軍を指名しないまま死去します。

そして、残った将軍候補四人の中から、くじ引きで将軍の座を引き当てたのが6代将軍の義教だったのです(6月24日参照>>)

そんな義教が、すでに鎌倉公方管領の間に溝ができているのを幸いに、公方の足利持氏を攻め滅ぼし(2月10日参照>>)、守護大名の一色義貫(よしつら)土岐持頼(もちより)謀殺したりしたために、不安になった備前の守護大名・赤松満祐(みつすけ)によって殺されてしまいます。(6月24日参照>>)

くじ引きで将軍を選ぶのも前代未聞なら、その将軍が守護大名に殺されてしまうのも前代未聞です。

やがて、1年半の空席の後、将軍の座についた7代将軍・足利義勝(よしかつ)は、在位わずか1年で病死・・・その年齢が10歳だったため、またまた5年間の空席があり、やっと8代将軍・足利義政・・・となったのです。

長い前置きになりましたが、要するに、この頃の足利将軍にとって、現将軍が次期将軍を指名せずに亡くなる事や将軍の席が空席になる事はトラブルのもと・・・絶対に避けたい状況だったのです。

そんな中、将軍になった義政・・・その義政の奥さんが、かの日野富子です。

16歳で義政に嫁いだ富子でしたが、最初に出産した男の子は、出産後まもなく死亡し、その次に女の子が二人続きます。

義政は、ご存知のように政務がキライで、趣味に走った人・・・おかげで、東山文化という、日本建築や日本庭園、侘び、さびといった、いわゆる和風の基礎となる文化が花開く事になるわけですが、彼は、とにかく早く将軍の座を退いて、気楽な身分で趣味に没頭したくてたまらなかったのです。

しかし、先ほども書きましたように、将軍の座を空席にするわけにはいかず、自分が隠居するためには次期将軍を決めておかなければなりません。

もともと、あまり夫婦仲が良くなかった二人・・・義政は、「もはや男の子は望めない」と早々とあきらめて、弟を次期将軍に決めてしまうのです。

それが、足利義視です。
彼は、幼い頃に仏門に入れられ、浄土寺の僧侶となって、義尋(ぎじん)と称していました。

おそらく、当時は将軍になるなど考えてもいなかった事でしょう。

そんな彼が、修行を積んで一人前の僧侶になった途端、「還俗(僧侶から一般人に戻る事)して、次期将軍になってチョーダイ」と兄・義政からのラブコール。

あまり、乗り気ではなかった彼に、義政は、「わざわざ還俗させる限りは、もし、今後、男の子が生まれても後継者にはしない」という条件をつけて、是非にとお願い・・・

「そんなに言うなら・・・」と、彼は還俗して義視と名乗り、富子の妹を正室に向かえ、将軍となる日を待つ事となります。

どころが、それから間もなく富子は妊娠(夫婦仲悪かったんちゃうんかい!)、一年もたたないうちに男の子を出産してしまいます。

後の義尚(よしひさ)です。

当然の事ながら、富子はわが息子を次期将軍に・・・と望みます。

しかし、すでに「たとえ、男の子が生まれても・・・」という条件を出しちゃってますからねぇ。

富子は夫・義政をけしかけます。
「アンタ!義尚が小さい間は将軍やめたらアカンでぇ。」

Ouninnoransoukanzucc そう、まだ義尚が幼い間に義政が隠居したら、当然、次期将軍は義視です・・・と、いうか、そうでなくても、もう決まってしまっているわけで・・・こうなったら、富子としては、少しでも長く、義政に将軍でいてもらって、その間に何とか義尚を次期将軍の座につけるよう画策するしかありません。

ならば・・・と、富子は、幕府の実力者・山名宗全(持豊(3月18日参照>>)に近づきます。

一方の義視も、一刻も早く隠居したがっていた兄が、いつまでたっても将軍を辞めない現状を見て、子供が生まれて気が変わった事を悟り、富子に対抗して、元管領の細川勝元に相談します。

そこへ、もともとそれぞれの家内で、後継者争いをしていた管領家の畠山氏斯波(しば)が、義尚派と義視派に分かれ、諸国の守護大名も、いずれかの派にくっつく・・・といった戦いの構図が生まれるのです。

こうして、日本を真っ二つに分けた応仁の乱が勃発する事になります。(5月20日参照>>)

・・・で、ご存知のように、10年余りの長きにわたって京の町を焼き尽くした大乱も、決着が着かないまま、山名宗全・細川勝元の両大将の病死により、終わりを告げる事になるのですが、その後も、富子の画策は続き、その頃には、ようやく、義政と義視との間にも講和が成立し、9代将軍は足利義尚となります。

しかし、その義尚は、長享元年(1487年)、出陣中に25歳の若さで亡くなってしまいます(12月2日参照>>)

義尚には、まだ後継者がいなかった事から、10代将軍の座は、義視の息子・義材(よしき)に転がり込んで、ここでようやく義視は将軍の父という形で、念願を果たす事になります。

しかし、それもつかの間、あの時、講和は成立したものの、大乱まで引き起こした富子と義視の間がうまくいくわけもなく、結局、二人はもとの対立関係に・・・

そして富子は、亡き勝元の息子・細川政元と結託し、今度は義視VS政元の構図ができあがる事になるのですが・・・そんな延徳三年(1491年)1月7日義視は、53歳のその生涯を閉じるのです。

思えば、将軍になるなど、考えてもみなかった僧侶の頃・・・。

しかし、たとえ最初は「別に」と思った物でも、いったん「譲る」と言われた後に「やっぱりダメ~!」と言われれば、なんだか欲しくなるのが人情という物です。

そのまま、そっとしておいてくれれば、僧侶としての人生を真っ当したかも知れない義視さん・・・

彼は、遊び好きの兄・義政と、わが子大好きママの富子に、大きく人生を狂わされた、時代の犠牲者なのかも知れません。
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