名古屋城の伝説~金の鯱に触れた者は…
昭和十二年(1937年)1月4日、名古屋城の金の鯱のうろこ・58枚が盗まれるという事件が起こりました。
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「尾張名古屋は城で持つ」と言われるくらい、今現在も名古屋のシンボルである名古屋城。
その名古屋城の天守に輝くのが金の鯱(しゃちほこ)です。
残念ながら、太平洋戦争で全焼してしまったために、現在の名古屋城は、昭和三十四年(1959年)の再建によるものですが、当時のお金で4千8百万という巨費を投じて、見事!復活した金の鯱は、やっぱり名古屋のシンボルである名古屋城のシンボルですよね。
そんな金の鯱が、昭和十二年(1937年)1月4日、ミシン工をしていた佐々木賢一という男に盗まれたのです。
彼は、昼間のうちに天守閣に登っておいて、物陰にひそみ、夜になってから、おもむろに屋根に登り、金の鯱のうろこ・58枚分をはがして盗んだと言います。
しかし、犯人の名前も、その手口もわかっている・・・って事は、お察しの通り、彼はすぐに捕まってしまったんですねぇ~。
実は、この名古屋城・・・「金の鯱に触れた者は必ず捕まる」という言い伝えがあるのだとか・・・。
それは、一世一代の思いを込めて、この城を築城したあの加藤清正の思いが、この金の鯱に込められているからなのだそうです。
名古屋城は、その昔、織田信長が一時、本拠地としていた那古野城・・・そのお城が、信長が清洲城に移った後に廃城となっていたのを、関ヶ原の合戦後に事実上天下を取った徳川家康が、自らの江戸城を大坂方から守るための防御の城として構築を命じた物です。
その命に応じたのが、かの加藤清正・・・。
清正は、石田三成への反発から、関ヶ原では東軍についたものの、豊臣家への思いは多分にあった人物です。
なんせ、あの「賤ヶ岳の七本槍」の一人ですから・・・。
秀吉亡き後の豊臣家を支え、関ヶ原合戦の後も、何とか豊臣家の存続を願って、家康と秀頼の間に入り、二条城での会見にこぎつけたお話は、以前、このブログでも書かせていただきました(6月24日参照>>)。
この名古屋城の構築にも、その思いが込められていた事は確かでしょう。
それは、「家康へのごきげん取り」という意味だけではなく、大坂方が反抗心を持っていない安全な存在である事を、家康に印象づけたかったに違いありません。
家康のドギモを抜くような立派な城・・・堂々たる名城を造りあげて、その事を証明して見せたのです。
そして、家康の天下のもと、豊臣家が大名として末永く生き残っていく姿を、彼は夢見ていたのでしょう。
しかし、清正は、この城の完成を見る事なく亡くなります。
金の鯱は、彼の遺志を汲んで、大判1900枚余りが投じられ、その死後に天守閣に取り付けられました。
しかも、その後、彼の思いとはうらはらに、ご存知のように、豊臣家は滅亡してしまいます(5月8日参照>>)。
やがて、江戸時代になって、名古屋の人々の間では、奇妙な噂が囁かれる事になるのです。
「豊臣の滅亡をあの世で知った清正は、家康に自分の思いが通じなかった事に怒り、その魂は冥土から舞い戻って、あの金の鯱に住みついたのだ」と・・・。
その時から、あの金の鯱に触れた者は、必ず、凶運に見舞われると言われるようになったのだそうです。
それ以来、誰も触れる事がなかった金の鯱・・・この昭和の犯人のスピード逮捕のウラには、清正さんの思いが影響していたのかも知れませんね。
もちろん、現在の金の鯱も、未だ、よこしまな人の手には、一度も触れられていません。
きっと、今も、清正さんは・・・。
今日のイラストは、
やっぱり。『金の鯱』ですよね~。
ちなみに鯱とは、魚の身体に虎の顔、背中に鋭いトゲのような背びれを持つ想像上の生き物・・・あの水族館でジャンプするシャチとは、別物だそうです。
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