玉の輿に乗りたい!~平安時代の自分磨き
明治三十八年(1905年)1月20日、祇園で芸妓をしていたお雪さんをみそめたアメリカ金融財閥・モルガン商会の創始者の甥・ジョージモルガンが、そのお雪さんと結婚・・・「日本のシンデレラ」と呼ばれた事から、今日1月20日は『玉の輿(こし)の日』なのだそうです。
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玉の輿・・・玉は、日本でが古くから美しい物やすばらしい物を例えるのに使用された言葉です。
「玉のような声」「玉のような赤ちゃん」・・・
このブログの武烈天皇のところでも、「君を玉に例えるなら大好きな真珠だ」と、美女をくどいたお話を書かせていただきましたね。(12月8日参照>>)
輿は、ご存知のように、時代劇などで見る身分の高い人が乗る乗り物です。
つまり、言葉の直訳は、玉のように美しい輿にのるような身分になる・・・という事ですが、今では、今回のお雪さんのように、自分よりはるかにお金持ちだったり、身分の高い人と結ばれる女性の事を言いますね。
男性の場合は「逆玉」と言ったりします。
もう一つには、江戸幕府・5代将軍・徳川綱吉のお母さん・桂昌院(けいしょういん)が、もとは京都の八百屋の娘・お玉で、彼女の事をみそめた徳川家光の側室となって、最後には将軍の母となった事から、このような結婚を、「玉の輿」と呼ぶようになったとも言われています。
でもねぇ・・・シンデレラも白雪姫も、王子と結婚してハッピーエンドなのかどうか・・・ホントは玉の輿って結婚してからが大変なんですよね~。
重箱の隅つつく姑とか、上から目線の小姑とか、口だけ出して金出さない親戚とか・・・難関がいっぱい待ってますからねぇ。
これで王子がマザコンだったら、地獄ですよね~
・・・てな、イケズな考えは、やめにして・・・
今日は、平安時代の花嫁修業について書かせていただきます。
でも、今は、花嫁修業というより、「自分磨き」と言ったほうがいいですけどね。
世の女性は、今も「玉の輿」を目標に、せっせと花嫁修業をするわけですが、それは平安の昔も同じ・・・特に、平安貴族のお姫様ともなれば、お妃として入内して、何とか、時の帝のお目にとまって最終的には、天皇の母に・・・
そうすれば、親戚一同が権力握りまくりで、ハッピーハッピーですから、もう両親から祖父母からが、よってたかって娘の教育に金をかけるかける!
それで、あの有名な清少納言(1月25日参照>>)や紫式部といった指折りの才女が家庭教師としてマンツーマンで教育に当たるのですよ。
その清少納言の『枕草子』には、時の左大臣・藤原師尹(もろただ)が娘に言った言葉が書かれています。
「一つには御手を習ひたまへ。
次には琴の御ことを人よりことに弾きまさらむとおぼせ。
古今の歌二十巻をみなうかべ・・・」
つまり、字の練習をして、お琴を人よりうまく弾けるように、そして古今和歌集・二十巻の歌を暗記して・・・という事です。
これが、当時の花嫁修業の三条件なのだとか・・・
「たった三つなの?」
と、思いますが、これがどうして、けっこう大変です。
まぁ、字はわかりますわな・・・これは、パソコン時代の今でも、ウマイにこした事はありません。
次のお琴ですが・・・実は、この平安時代のお琴は、中国から伝わった七弦の物で、現在でも目にするあのお琴と比べると、とてつもなく難しいのだそうです。
これを、誰よりもうまく弾けと・・・
かなりの難題ですなぁ~。
そして、最後に古今和歌集・二十巻・・・これ、歌の数が千首以上あるんですって。
百人一首を覚えるだけでも、相当なものですよ。
それを10倍以上の歌を暗記・・・これは受験勉強に匹敵する難しさですね~。
しかも、当時の結婚適齢期(←この言葉も今や死語ですが・・・)は14歳か15歳頃・・・。
現に、オヤジからこの三条件をつきつけられた師尹の娘は、13歳前後で入内を果たしています。
えらいね~娘さん・・・
まるで、今ハヤリの中学受験ですね~。
今も昔も、玉の輿に乗るのは、ホント楽じゃないです~。
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コメント
入内は政治だから、権力者の娘なら入内できますよ。時の帝のお目にとまってお妃として入内してじゃなくて、入内してから帝の足をどれだけむけさせるかで周りに才女でかためるんです。
定子に比べ彰子は実際イマイチだったらしけど、道長は有名な才女で周りを固めてバックUP。
平安時代、貴族社会までは基本は婿取り婚だし、実家の実力がかなりものを言ってます。
投稿: | 2013年2月20日 (水) 11時52分
コメントありがとうございます。
確かに、そこは「お妃として入内して」が先で、次に「何とか、時の帝のお目にとまって…」ですね…単語がテレコになってました(゚ー゚;
>入内は政治だから…
この部分は、以前に定子と清少納言のページ>>で少し書かせていただいているので、今回はお姫様の花嫁修業の話に的をしぼりました。
彼女たちも努力していたわけですから…
道長の場合は、一条天皇の大好きな「唐物」もありますね。
特に書物…中国の印刷物が大好きだった一条天皇が足しげく彰子のもとに通うように、大量の書物を彰子の部屋に用意させていたようです。
先のページに書かせていただいたように、一条天皇の女性の好みは定子の方が上だったようですが…
投稿: 茶々 | 2013年2月20日 (水) 14時57分