左義長・どんど焼きの由来と意味は?
正月の14日と15日に行われる火祭り・・・
その呼び方は、全国各地・津々浦々・・・ホントにたくさんあります。
一般的なのは『左義長(さぎちょう)』『どんど焼き』、他にも『せいと焼き』『おんべ焼き』、後ほど、くわしく書かせていただきますが、「道祖神」や「さいの神」のお祭りと一緒になって『さいのかみ祭り』や『さいとばらい』、『三九郎(さんくろう)』なんて呼ぶ地方もあるみたいです。
ちなみに、ウチは大阪ですが『とんど焼き』と呼びます。
でも、一つとなりの町で行くと、もう違う名前だったりするんですよね~。
名前がこれだけ多くあるにも関わらず、そのやりかたは、案外、似てたりなんかします。
野外に、お正月の松飾りや門松、書初めなどを各家から持ち寄り、集めて燃やし、その火にあたると、一年間無事に過ごせると言われたり、その火でお餅や団子を焼いて食べたりもします。
書初めを燃やした場合は、灰が高く上るほど、字が上達するというのもあります。
ただ、この行事があまりにも古いため、その由来というのがはっきりせず、いくつかの神様のための説に分かれています。
先日、お歳暮のところで書かせていただいた「お正月にやって来て、そして、お正月が終ると去っていく神様=年神様」を見送るため(12月20日参照>>)というのも、一つの説です。
火祭りの中には、周囲が燃え尽きる頃を見計らって、真ん中に立てた柱を、その年の恵方(年神様のやってくる方角)へ倒し、最後に一年災難を祓うおまじないとしている所もあり、そうなると、やはり、その由来は、年神様のお見送り・・・という事なのでしょう。
しかし、東日本の一部では、この火祭りを『道祖神のお祭り』としている場合も多くあります。
道祖神というのは、村のはずれや、道の辻などなある石の神様で、神像や僧像のほか、男女が寄り添って手をつないでいる物、抱き合って愛し合ってる物や、モロ男性の象徴や女性の象徴の形をした石の場合もあります。
聞くところによれば、この道祖神の信仰は、日本アルプスで縦に縦断されたあたりから東へと、昔、相模と呼ばれていたあたりまでの地域・・・現在では、神奈川県・長野県・新潟県といったあたりに集中していて、そこから西にも東にも、あまり見当たらないのだそうです。
この道祖神は、性の守護神・・・せいの神様とも呼ばれます。
近頃では、性というと何かとタブー視されがちですが、古代の人々にとっては、それこそ民族の血を絶やさないための大事な営み・・・これも、年神様と同じで、仏教が伝わる以前・・・いえ、ひょっとしたら、大和朝廷が成立する以前からあったかも知れない日本の原始の大切な神様なのです。
この道祖神のお祭りとしての火祭りは、やはり、昔から道祖神が無い集落はないと言われるくらいその信仰が盛んな相模・・・神奈川県が一番多いようです。
中には、この道祖神を石ではなく木像で作る地方もあるようで、松本市の多賀神社には、今も数体の木像の道祖神が納められてられているそうです。
また、野沢菜で有名な長野県の野沢温泉では、毎年、木製の男女の神像を造り「三九郎人形」と呼んで道祖神としているのだとか・・・火祭りの事を『三九郎』と呼ぶ地域があるのは、この人形に由来しているのかも知れません。
そんな道祖神と、よく同一視されるのが『さいの神』です。
さいの神には、「塞の神」「幸神」「妻神」「斉神」「才神」「歳神」「障神」「性神」など、様々な字が当てられます。
『古事記』の上巻では、あの国産みで有名なイザナギが、亡くなった奥さん・イザナミに会いに黄泉の国(死後の世界)に行き、変わり果てた奥さんの姿を見て、怖くなって逃げ帰るくだりで、さいの神が登場します。
逃げる夫・・・追う妻。
その追っ手を防ごうと、イザナギは、千人力でやっと動くかという大きな石を、道の中央に据えて道を塞ぎ、くい止めたのです。
その石の名前は塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)・・・これがさいの神です。
なので、さいの神は、良縁・妊娠・出産・性病などの性の守護神の他に、防災の守護神としての一面もあります。
さいの神様と道祖神とが、まったく同じであるのか?
それとも、道祖神がさいの神から枝分かれした別の神様なのか?
は微妙なところですが、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』『源平盛衰記』でも、「道祖神」と書いて「さえのかみ」と読ませているという事があるので、かなり古くから同一視されていたのは間違いないでしょう。
さいの神は、石像というよりも、大きな石そのものにしめ縄を張り、祀っている事が多いようですが、いずれにしても、このさいの神も、先の神様たち同様、日本の原始の神様である事は間違いようです。
ちなみに、さいの神のお祭りは火祭りではなく、神の石に張ったしめ縄を、一年に一度取り替えるという形のものが多いようですが、こちらも、1月15日の小正月の前後に行われるようです。
(・・・ようです。・・・ようです。と何か頼りない書き方になっておりますが、なんせ地方によって多種多様な行事ですので・・・すみません)
火祭りの中には、先ほどの木製の人形に疫や災いを封じ込め火の中に投じたり、稲に害を与える虫を防ぐための虫送りとして火を燃やすという、厄除けや農業の願いを込めた物もあります。
おそらく、年神や道祖神・さいの神といった原始の神様は、もともと性の神様・子孫繁栄や、災害除けを願っていた神様であったのが、日本に稲作がもたらされ農耕民族になった事で、新たに五穀豊穣などの農業の願いも込められるようになり、やがて、現在の火祭りという姿になったのではないでしょうか?
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コメント
昨年近江八幡を訪れたときに日牟禮八幡宮の例祭で左義長祭りのこと知りました。
とても大きな火祭りのようです。小正月ではなく、3月とか
随分写真などを観てまいりました。
八幡掘りの周りに生えている、葦を刈り取って、火祭りに使うと聞かされました。
かっては信長が赤い襦袢でお祭りのときに踊ったこともあったとか。
道端の道祖神可愛いものや、ほほえましいものがありますね。
以前読んだ小説で、日本人は性に対しておおらかで、どこで“まぐわう”のも当たり前とか、混浴も普通のことだったようです。
長くなりますが、屯田兵のこと
私の先祖もそうです。
父方は富山、母方は秋田
東北が多いですね。
明治新政府に反対していたた諸藩の行き場がない人たちが行かされたのでしょう。
以前の映画『北の零年』ではありませんが、寒さと、何もない北辺の地でどんなに苦労をしたのか。
投稿: さと | 2008年1月16日 (水) 12時03分
さと様、こんにちは~
記事にも書きましたようにウチは「とんど」と呼んでいたので、「左義長」という名前を知ったのは、大人になってからです。
恥ずかしながら、他方から大阪に就職しに来たお友達から初めて聞いて「それ、何?」って言うくらい知りませんでした。
大阪でも2月の終わりに、淀川べりのアシを焼く「葦焼き」という春を呼ぶ行事があります。
ところで・・・
>私の先祖もそうです。
そうでしたか・・・やはりご苦労なさった事でしょう。
私も、いち時、富山にいた時「富山からは、たくさんの人が北海道開拓に行った」という話を聞きました。
やはり、北のほうのかたがたが多いようですね。
投稿: 茶々 | 2008年1月16日 (水) 15時33分
山陰の片田舎にて神主しとります。ウチの方じゃ「とんど」って言いますね。紺屋の白袴と言いましょうか、医者の不養生と言いましょうか…とんどの起源や謂われについて知りませんでした。ただ、色んな神事について言える事ですが、時代と共に神事の意義が変わってくのも事実ですから、とんどについても、道祖神や賽の神を祀る神事とか、年神様を送る送り火などの説が起源であっても、現在は…古い神札やお守りをお焚き上げする、焼納祭の側面が強い様に思います。実際…我が家の奉仕する八幡神社に於いて行う、とんど神事も…道祖神や賽の神に対する祭儀など執り行いませんし、年神様を送るからと言ってその様な祭儀も行いません。ウチでは、火を点ける折に、とんどの火にて焚き上げる故に、高天ヶ原に神上がりませ…って唱え、古い神札やお守りに対しての感謝の祝詞を上げます。
投稿: 田舎神主 | 2008年1月18日 (金) 21時22分
田舎神主さん、ご訪問&コメントありがとうございます。
>時代と共に神事の意義が変わってくのも事実・・・
その通りだと思います。
高天原におわす天津神を信じ、地におわす国津神を崇め、道端の石にさえ手を合わせ、他国の仏に祈る日本人・・・私もその一人です。
ひなまつりも端午の節句も、今は、もともとの起源とは異なる行事になっていますが、たとえ時代とともに変化しても、子を思う親の願い、行く道に幸多かれと思う気持ちには変わりがないものと思います。
山陰でも「とんど」と呼ぶんですね。
ネットを見ていると「左義長」「どんど焼き」が多かったのですが、「とんど」も、けっこうたくさんあるのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2008年1月18日 (金) 23時36分
石棒という男根状の石製品が、縄文文化の中心であった長野・山梨の中央高地には分布しますね。この地域は銅鐸の浸透が希薄で、石棒祭祀という縄文以来の祭祀風習が残存していました。
道祖神祭礼もおそらくこの流れを汲んでいるんじゃないでしょうかねぇ。道祖神の神体を山の神と関連させる民俗もありますし、縄文祭祀から山の神・道祖神へと至る祭祀の系譜があるんじゃないかと思っています。
投稿: 黒駒 | 2011年1月10日 (月) 03時46分
黒駒さん、こんばんは~
奥明日香にも、古代信仰が残っていますね。
記紀神話に語られる以前の神様が見え隠れして、とても興味深いです。
投稿: 茶々 | 2011年1月10日 (月) 22時03分