語呂合わせで改元~明和九年の迷惑大火
今日は4年に一度の閏(うるう)年・・・という事で、今日2月29日という日が存在します。
もう、ご存知でしょうが、太陽の動きでいけば、1年は365.2422日・・・なので、1年を365日すると0,2422日ぶんずつズレていってしまうので、4年に一度1日だけ増やして調整するんですね。
でも、これだと0.25×4=1日ですから、4年に一度増やしてばっかりいると、今度は少し増えすぎてしまいます。
・・・で、100年に一度は、普段はうるう年に当たる年でも、2月29日が無い年もあるのですね~
・・・で、今度は2100年。
その年は、オリンピックのある4年に一度の年ですが、2月29日はありません。
しかし、またまたそれだと少し足らなくなってくるので、400年に一度だけ、4年に一度だからうるう年だけど、100年に一度だからうるう年じゃなくて、でも400年に一度だからうるう年になる年があるのだそうです。
ややこし過ぎて、もう、わけがわからなくなってきましたが、とりあえず、あの2000年問題で揺れた西暦2000年が、その400年に一度の年だったのだそうです。
当時は気にも留めていませんでしたが・・・
それにしても、2月29日生まれの人は、普段の年は、いつ年齢を一つプラスするのでしょう?
実は、法律でちゃんと決まっているらしいんですよね。
なんせ、誕生日というのは、車の運転免許証や、少年法にも関わってくる重要な事ですからね。
・・・で、法律上では、2月29日生まれの人は、うるう年じゃない年には、2月28日の終る時・・・つまり、2月28日23時59秒で一つ歳をとる事になるのだそうですが、それでいくと、お誕生日が1秒しかない事になってしまって、何かちょっと寂しい気がしますね。
「うれしい」思うヒマさえないありゃしないし、ケーキを切る余裕もありません。
ところで、そんなほぼ4年に一度のうるう年・・・歴史上の出来事なんかも少ないんじゃないかしら?と思いきや、それが、けっこう色んな事が起こっているもんです。
天正六年(1578年)には、織田信長が安土城に、総勢300人の力士を集めて相撲大会を行った(2012年2月29日参照>>)とか、あの天下のご意見番・大久保彦左衛門のご命日も天文八年(1639年)の今日(2月1日or30日説あり)(2月1日参照>>)・・・あの遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元さんも安政二年(1855年)のこの日にお亡くなりになっております。
そうです。
例の31日の逆パターンなのです。
毎度々々、1月・3月・5月・7月・8月・10月・12月31日には、旧暦に31日が無いため、「近代史&世界史が苦手の私はネタ切れ必至」と叫んでおりますが、逆に、旧暦では2月29日は毎年あり、今は亡き2月30日の出来事なんてのもある(3月29日参照>>)ワケです。
・・・という事で、今日は、その中から、江戸時代の『明和の大火』と呼ばれる大きな火災について書かせていただきます。
・・・・・・・・・・・
明和九年(1772年)2月29日、お昼をちょっと過ぎた頃・・・江戸は目黒・行人坂の大円寺から出火した火は、強い風にあおられてまたたく間に、麻布・芝から京橋へと広がり、日本橋・神田・本郷・浅草・千住までの広い範囲をすべて焼き尽くしました。
しかも、午後には、本郷丸山町から再び火の手が上がり、駒込・谷中・根岸など・・・町屋や橋も焼け落ち、大名屋敷や神社・仏閣も被害に遭い、14700人もの死者を出したという事です。
この目黒行人坂の火事は、明暦三年(1657年)の明暦の大火(振袖火事)(1月18日参照>>)と、文化三年(1806年)の文化の大火(芝車坂の火事)とともに江戸三大火の一つ『明和の大火』と呼ばれる事になります。
それにしても、『火事と喧嘩は江戸の華』と言われるように、どうして、江戸はそんなに火事も多く、被害も大きかったんでしょうか?
それは、ご存知のように、江戸は、徳川家康が幕府を開くまで、小さな漁村がいくつか点々とあるくらいのかなりの田舎だったところに、いきなり多くの人々が集まり始めた事にあります。
そこには、アメンリカン・ドリームならぬ「江戸ドリーム」を求めて、「江戸に行けば何とかなる」といった風潮も生まれ、立身出世と大金を求めて、多種多様の人々が、埋め立てられたばかりの土地にワンサカ集まり、粗末な家屋が密集し、道幅を極端に狭くしていました。
そこに、江戸という場所の気候・・・冬から春先にかけて、また、秋の始めの頃などに、空気は乾燥し、強い季節風が吹くという気象条件が重なったのです。
しかも、この頃の家屋の半分以上が、燃焼率が極めて高いと言われていた杮葺きの家屋で、一旦火がつくとまたたく間に燃え上がり、狭い道幅ゆえに、その道路をものともせず火は燃え移り、密集した家が次々と焼かれる事になるのです。
この「杮(こけら)葺き」というのは、いわゆるバラック式の家。
本来、瓦葺の屋根の下地に使う、薄い1~2ミリ程度の杉の割板を、釘でトントンと打ちつけただけの物でした。
「なんでワザワザそんな燃えやすい物を・・・?」と思ってしまいますが、現在で言う火災保険が導入され始めたのは明治に入ってからで、当然の事ながら、江戸時代に火災保険はありません。
つまり、あまりの火事の多さに、火事が起こる事を防ぎようがないと判断した江戸の人々が、燃えてもあきらめがつくように杮葺きにしたという事のようです。
ですから、お金持ちは、土蔵を造り、周囲も土蔵と同じ分厚い土壁を建てて自ら守ろうとし、大家が店子(たなこ)に貸すためのような、いわゆる長家などは、「焼けてもともと」の杮葺きで造られていたワケです。
その代わりと言っては何ですが、火事の度に建築ブームが起こり、そこに商人が入り込み、大工や左官などの職人が活気に満ち溢れ、経済も盛り上がり、町人の文化が花開く事にもなるので、そういう意味では、江戸が世界最大の都市になるために、火事も一役買った事になりますが・・・。
ところで、余談ですが、今日の『明和の大火』があった明和九年という年は、火事以外にも、風水害が多発し疫病なども流行した散々な年だったようで、どこからともなく、「明和九年だからめいわく年=迷惑年」などと、巷で囁かれ始め、幕府も民衆の不安を拭い去るため、やむなく元号を「安永」に改元するという処置をとっています。
語呂合わせで改元するなんて・・・よっぽど、町の人々は恐怖におののいていたんでしょうね。
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コメント
明和の大火が2月29日だったんですね。
次回のうるう日の「2012年の2月29日」(あと1年と2週間あまり)の記事が楽しみです。ちなみに親戚に2月29日生まれの人がいます。
年配者には本当の誕生日が「2月29日」だけど、戸籍上は2月28日か3月1日にしたと言う人も、相当いるかもしれないですね。
投稿: えびすこ | 2011年2月12日 (土) 13時37分
えびすこさん、こんにちは~
確かな情報じゃないですが、2月29日生まれは、戸籍上は3月1日になるって聞いた事があります。
今は、旧暦の2月30日の出来事を、いつ書こうかと悩み中です。
投稿: 茶々 | 2011年2月12日 (土) 14時15分